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第17話ギルの想い【1】

「お疲れ様でございます」  とぽとぽとティーポットから紅茶が注ぎ込まれる。ハーブに似た独特の爽快感がある、この一帯にのみ生息しているメチバ草の香り。スティーヴィーはそれに潰したザクロの果汁を混ぜ、赤い真珠に似た果肉を底に数粒落とした。  「どうぞ」 「ありがとう」  ギルは紅茶を一口飲み、「は・・・・・・」と一息吐く。朧げにスプーンでザクロの実を掬い上げ、てらてらと光る小さな粒を舌にのせて目を閉じた。そのまま果肉を転がして噛み潰すと、口の中で酸味が弾け、あとからじわりと甘みが広がる。 「眉間にこわーい皺が寄っておりますよ、ギル様。とてもお好きなものを召し上がっているとは思えません」  指摘されて眉間を擦る。確かに美味しいと感じているのに、眉間には深い谷底が出来上がっていた。 「悩ましい顔ですね」 「・・・・・・ああ、自身の愚かさに辟易(へきえき)していたところだ」 「殿下とのお話し合いは上手くいかなかったのですか?」  ギルは小さく首を振る。 「それは上々だった。上々過ぎた・・・・・・、起きた後はお行儀よくしてくれると良いんだがな。これから伝えなきゃいけないことを考えると、先が思いやられるよ。お前は魔法使いなんだと言われることに比べれば、俺の身分の話なんて毛虫みたいなもんじゃないか?」  饒舌(じょうぜつ)に愚痴をこぼすギルの話を、スティーヴィーが穏やかな顔で聞いている。 「それはどうでしょうね」  ギルは「ん?」と彼を見た。 「どういう意味だ?」  首を捻ると、執事は執事らしく「ふふふ」と上品に含み笑いをした。 「ずっと気を張っていらっしゃったのだと思います。私に対しても乱暴をしているようで、どこか無理をされているのだと感じました。ギル様はとにかく、ここにいる間はジャレッド殿下のことだけを考えて差し上げてください」  言葉が、ずんと胸に沈む。  ジャレッドは我儘の裏で一人悩み、これまでも充分に眠れていなかったのかもしれない。馬車で口づけ合ったあとは緊張が解け、今はふかふかのベッドで熟睡している。 「むう、そうだな。しかしお前には悪いことをした。手を見せてみろ」  ギルはスティーヴィーに手のひらを差し出した。けれどもスティーヴィーは執事服の袖口から覗く、相変わらずに細い手首をひょいと挙げた。 「この程度はなんとも有りませんよ、先代に拾われる前は折檻(せっかん)だって日常茶飯事でしたから」  そう言われて彼の手を追いかけたが、一向に捕まらない。 「こら、それが良くないんだ、折檻されても当然のように言うんじゃない」  ギルが苦言を呈しても、「我々はそのような立場ですので」とあっけらかんとした返答が返ってくる。   「スティは頑固だな」  なんとも懐かしく馴染みのあるやり取りだ。  ギルが溜息を吐くと、スティーヴィーはにっこりと微笑み、目尻に二本の笑い皺を作った。 「何がおかしい?」 「いえ、先代の・・・・・・リヒト様とお話をしているみたいだと」  突如、針がちくりとギルの心を刺した。微かな不快感がざわざわと胸を波打たせる。 「俺は義父様と似ているか?」  静かにスティーヴィーは頷く。 「はい、とても。リヒト様にも同じ言葉をかけてもらった記憶がございますよ」  ギルはしばらく間を置いて、そうか、と目を伏せた。祈るような体勢で肘をつき、指を組み合わせた手に額を当てる。甘酸っぱい紅茶の香りに、重苦しい空気が重なった。 「義父様のことは心から敬愛している、だが二の舞は踏みたくない」  スティーヴィーはハッとして笑みを引き込め、姿勢を正した。   「余計なことを申しました」  ギルは丁重に頭を下げる彼を手で制した。 「いいや、それよりも当主の調子はどうだろうか」  質問で切り返すと、遠慮がちに頭が上がる。 「今日は幾分か具合が良いようです。ギル様が帰ってくると聞いて喜ばれていました」  答える口調は、取り立てて明るい。 「ではジャレッド様が目を覚ましたら、部屋に行くと伝えておいてくれ」 「かしこまりました」  スティーヴィーとの会話を終え、ギルはジャレッドを寝かせた部屋に戻った。  どっと押し寄せてくる疲労感が背中にのしかかり、立っているのが辛い。がくんと膝の力が抜け、ベッドの隅に尻をついた。  スプリングの軋んだ音に、ジャレッドが(いたい)けな声を上げ寝返りを打つ。 「ん、ギル・・・・・・?」 「起こしてしまいましたね、申し訳ありません」  ギルは緩慢に振り返る。こちらを見つめていたジャレッドと目が合い、ジャレッドの顔は光の素早さで赤くなった。  良かった、他愛(たあい)無い反応だ。引き攣るような剣呑(けんのん)な雰囲気は薄れ、彼の中の不安や苛立ちはひとまず落ち着きを見せている。  視線が気になったのか、ジャレッドは鼻の上まで上掛け毛布を引っ張り上げ、艶めいた瞳孔を彷徨(さまよ)わせた。 「・・・・・・な」  毛布の下で何かを言っている。ごにょごにょと喋るので聴き取りづらく、ギルが「なんでしょうか」と耳を寄せると、ジャレッドは「うわあっ!」と頭まで毛布に隠れてしまった。 「すみません、離れます」  ギルは静かに身を引いた。警戒心の強い動物かなんかを相手にしている気分だ。呼吸をする音にも怯えてしまいそうで、できる限り息を殺す意識をした。  ()しくも、初めてジャレッドと顔を合わせた時を思い出す・・・・・・。  幼かったジャレッドは初対面のギルを怖がって逃げ出し、鍵のかかった塔のてっぺんに立て篭った。しかし入った時は上手く開けられたからいいものの、自力で出られなくなり、最後はギルに助けを求めてきた。  外壁を登り、小さな窓から手を伸ばすと、怯えながら(みどり)のまなこを大きく見開いた。大泣きしてとめどなく流れ落ちる涙が陽の光を浴びて光り、宝石の雨が降っているようで、心の底から綺麗だと思ったものだ。  ギルはこんなに美しい生きものが存在するのかと雷に打たれたのだ。  やがて恐る恐るむこうから伸ばされた手がギルの指先を握った。柔らかく小さな手だ。「おいで」と精一杯優しい声を出すと、胸に飛び込む勢いで走り寄ってきた。  幼な子相手に何を思うのかと己れを疑ったが、理屈で片付けられる感情では無かった。  リヒトがいつか言っていた。「命を懸けてでも護る価値がある」と、あれは公爵お得意の冗談ではない。ギルはあの頃そのことを思い知らされたばかりだった。  だから天啓(てんけい)とも思える瞬間は、震えるほどの感動と共に、ギルを苦しめ続ける重たい鎖に変わってしまった。  成長するごとにジャレッドは美しく皮を脱いでいき、ギルが育んでしまった愛に色欲が加わるのは謂わば必然。いずれその時が来ても、一方的に想うだけにしようと心に決めたのはどの夜のことだったか。  ふわりと優しいひだまりの中で、常に刃を首筋に当てられている、ジャレッドに愛を許すということは、例えるならばそんな荒涼(こうりょう)とした未来を示唆するものだった。

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