2 / 172

第2話

 唐煜瑾(とう・いくきん)は真剣すぎる顔をして、キャンバスに向かっていた。  隣には、それを満足げに見守る西洋人の初老の紳士がいる。 「ああ、煜瑾。そこは、もう少し、丁寧に重ねて…」 「はい」  尊敬する師に指摘され、煜瑾は握った絵筆をゆっくりと動かした。  すると思った以上の効果が出たのか、煜瑾はキラキラと輝くような笑みを浮かべた。  ここは、宝山区にある唐家の大邸宅。  その、母屋にある南側の一番日当たりの良い寝室で、煜瑾は、油絵の指導を受けていた。  絵の教師は、マリオ・ベッキオというイタリア人で、煜瑾が幼少の頃から上海で絵画教室を主宰している。煜瑾は小学校に入る前から、このベッキオ師に絵を習い、いくつものコンクールで入選していた。  だが、コンクールの授賞式などで煜瑾が注目されると、上海一の美少年だ、名門唐家の王子だと騒がれ、大人しく人見知りがちな煜瑾は、それがイヤで絵を続けることが苦痛となり、それを不憫に思った兄・唐煜瓔がベッキオ師に師事することを辞めさせたのだった。  その才能を惜しんだベッキオ師だったが、素直な煜瑾を無理強いしてまで絵を描かせることは望まず、唐家での個人レッスンはそれで終わった。 「この辺りの線をもう少し、ハッキリと…」 「はい…、こう、ですか?」  元々の才能があり、しかも素直で呑み込みの良い煜瑾の指導は、ベッキオ師にとってもやりがいのある、楽しい仕事だった。 「煜瑾は…、子供の頃から変わらないね。とても、いい絵を描く…」  ベッキオ師はそう言って、目を細めた。褒められた煜瑾も、はにかみながら微笑んだが、じっと自分の描いた絵を見据え、少し眉を寄せる。 「どうした、煜瑾?」  丁寧で、気持ちのこもった美しい肖像画だ。子供だった煜瑾が、大人になり、恋を知り、愛を知り、満ち足りた人生を送っていることが、ベッキオ師にはよく分かる。 「違うのです…何かが…」  美しく、高雅な煜瑾の表情が曇るのを、ベッキオ師も悲しく思ったが、その憂いのある横顔は、長年指導者として絵画に携わって来たベッキオ師にも、久しぶりに創作意欲を抱かせるほど魅惑的だった。 「何か、とは?」  心配そうなベッキオ師に、煜瑾は戸惑いながら答えようとする。 「…分からないのです。自分でも綺麗には描けたと思うのですが…。『私の文維(ぶんい)』ではありません」  その「文維」というのが、この肖像画に描かれた美しい青年の名前だとベッキオ師は知っていた。煜瑾が久しぶりに、指導を受けたいと教室へ訪問して来た時に下書きを見せ、「包文維(ほう・ぶんい)という青年を愛している」と告げたのだ。 「何かが欠けています…。文維は…、もっとステキなのです」  納得のいかない煜瑾は、絵筆を置いた。 「ベッキオ先生、煜瑾坊ちゃま、お茶の仕度が出来ました」  ちょうどそこへ、唐家の有能な(ぼう)執事が午前のお茶を運んできた。  小食の煜瑾が、ランチを食べられなくなることの無いように、と配慮された、フルーツフレーバーの紅茶と、自家製のイタリア風アーモンド入りビスコットだけの簡単なセットだ。ベッキオ師には、イタリアンローストのコーヒーが用意されている。 「休憩にしよう、煜瑾」  ベッキオ師がテーブルに着くと、茅執事が熱いコーヒーを差し出した。

ともだちにシェアしよう!