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第19話

 文維(ぶんい)のアパートを飛び出してきた煜瑾(いくきん)に気付いた(おう)運転手は、それがただならぬ顔色であることに驚いた。  無言で車に飛び乗った煜瑾は、思い詰めたような深刻な顔で珍しく厳しく命じた。 「車を出して!すぐに!」 「あ、は、はい…」  煜瑾が帰るというのなら、それに逆らう王さんではない。最愛の恋人を置いて出てきたと言うことは、包文維の体調はそれほど心配することは無かったのかもしれない。  ただ、これほど短時間で出てきたと言うのは、ケンカでもしたのだろうか。それにしても、早すぎる。  言葉では何も言える立場でない王運転手だが、幼い頃から煜瑾を知る王さんは無垢な「(とう)家の至宝」が傷つくことだけは心配だった。  唐家に着くまで、煜瑾は俯いたまま一言も口をきかず、王さんも何も聞かなかった。 「煜瑾ぼっちゃま?」  玄関に入るなり、煜瑾は何も言わずに、階段を駆け上がり、自分の物だった寝室に向かった。  その様子に、驚いた(ぼう)執事は後を追おうとしたが、それよりも、戻った王運転手から話を訊いた方が良さそうだと気付いた。 「何があったのですか」  厳しい顔つきで茅執事が問いただすと、王運転手も困惑を隠せない。 「それが…、(ほう)先生のアパートの前で念のためにお待ちしていたのですが、煜瑾さまは入ってすぐに出て来られて…」 「アパートの部屋で何かがあったのですね」  何よりも、煜瑾を大切に想っている茅執事は、不快そうに眉を寄せた。  心配になった茅執事は、すぐに煜瑾の寝室へと向かいたいところだったが、まずは主人である唐煜瓔(とう・いくえい)へ知らせるのが先だと冷静に判断した。  すぐに主人とベッキオ師が語らう、唐家のコレクションの保管室へと茅執事は急いだ。 「旦那様」  ドアの傍で声を掛けた執事に、唐煜瓔とベッキオ師は同時に振り返った。 「どうした?」 「はい、煜瑾坊ちゃまがお戻りになりました」 「煜瑾が?」  驚いたのは兄だけでなく、ベッキオ師も同じだった。  有能な指導者であるベッキオ師は、煜瑾の絵に、愛する人への想いがどれほど溢れているか知っていた。それほどまでに愛する人の看病へと駆け付けた、心優しい煜瑾がこんなに早くに戻るとは、何か特別な事情があるに違いないと、ベッキオ師は確信していた。 「煜瑾は?」 「ご自分のお部屋に駆け込むように…」  茅執事の言葉に、唐煜瓔は顔色を変える。  以前、同じように煜瑾が泣きながら包文維の許から帰って来て、その後、何日も泣き続けて幽霊のように弱り切ったことを思い出したからだ。 「お待ちなさい」  保管室を飛び出し、煜瑾の部屋へと駆け出そうとした唐煜瓔を、ベッキオ師は引き留めた。 「先生…」  当惑する唐煜瓔に、ベッキオ師は何もかも分かった様子で何度も頷いた。 「何かあったのは間違いないでしょうが、お兄さまにはお話しにくいことかもしれません。恋とは、そういうものでしょう?」  訳知り顔のベッキオ師に、唐煜瓔は苦笑いを浮かべ、弟を頼むというように頭を下げた。

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