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第33話

 大好きなベッキオ師と有意義な美術館での絵画鑑賞を終え、恩師が好きだという蘇州麺をランチに食べに行き、煜瑾(いくきん)は心ゆくまで芸術的な語らいを楽しんだ。 「本当に、またベッキオ先生にご指導をお願い行って良かったです。子供の頃先生のレッスンが大好きでした。でも…」  有り余るほどの才能ゆえに注目され過ぎて、幼い煜瑾はすっかり委縮してしまった。実際、心無い大人たちに追いかけ回されて、怖い思いをしたのだろうと、ベッキオ師も煜瑾がレッスンをやめた理由をよく理解している。 「いや、煜瑾が心から描きたいと思う素材に出会った『今』だからこそ、レッスンを再開して良かったのだよ」 「先生…」  ベッキオ師は、自分の知る限り一番の才能の持ち主である愛弟子を温かな眼差しで見詰めた。 「それで…。文維(ぶんい)とのことは、大丈夫なのかね?」 「?大丈夫、とは?」  無邪気に首を傾げる煜瑾に、ベッキオ師も苦笑する。  愛する人の浮気現場に直面したはずなのに、この清らかな心しか持たない天使のような青年は、恋人を恨んだり、憎んだりすることを知らないのだ。 「彼を、誰かに()られたとは思わないのかね?」  ベッキオ師にそう言われて初めて、煜瑾はその端整な美貌を曇らせた。 「…文維にも、何か事情があったのだと思います。彼は私を決して裏切ったりしません。誰よりも私を…その…愛してくれているのです」 そう言った煜瑾の恥じらいと誇らしさに満ちた顔を、ベッキオ師は賛美するように見つめた。 「煜瑾がそう思っているのなら、きっとそうなのだろう。私も、煜瑾がそこまで心を寄せる文維という青年に会ってみたくなった」  ベッキオ師はそう言って微笑むと、好物の紅湯(ホンタン)麺に添えられた焼肉を美味しそうに食べた。その姿に、煜瑾も笑顔で、大好きなエビとカニの具が添えられた白湯(バイタン)麺を口に運んだ。 「絵が出来上がったら…、先生に文維をご紹介します」  煜瑾は優雅に口元を拭きながらそう言った。 「先生には、出来上がった絵と文維を比較していただきますね」  クスリと笑って煜瑾は、追加で注文した紅焼肉(ホンシャオロー)を美味しそうに味わった。 ***  ランチの後、煜瑾は玉仏寺の近くにあるベッキオ師の絵画教室を訪問した。  幼い頃の自分と同じように、絵を描くことが大好きな子供たちが集まって来る。珍しい来客に、小さな生徒たちは煜瑾を見る目に好奇心を隠さない。  気が付くと煜瑾は、子供たちの世話をしながら、ベッキオ師の助手のようなことをしていた。 「煜瑾先生も絵を描くの?」  6歳くらいの、ちょっと生意気そうな女の子が煜瑾に話しかけてきた。ベッキオ師は、煜瑾は自分の弟子で、絵も教えてくれるから「先生」と呼びなさいと最初に言い聞かせていた。 「描きますよ。今、ちょうどベッキオ先生にご指導いただいて、油彩の肖像画を描いているのです」  屈託なく煜瑾は笑顔で答えたが、女の子は信用していないのか、それとも子供らしい自尊心で、自分以上の腕ではないだろうと軽んじているのか、ツンとした顔をして言った。 「ふん。オトナのくせに、ベッキオ先生に教わっているようじゃ、大したこと無いわね」 「ええっと…」  子供の扱いに慣れない煜瑾は、どう返事をしたらいいものか困ってしまった。

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