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第34話
夕方になって、煜瑾 は絵画教室の近くにある人気のベーカリーで英国式の本格的なスコーンを見つけて数個買い、自宅の嘉里公寓 に付随する高級スーパーで、お気に入りブランドのミルクジャムを買った。
ミルクジャムは文維の口には甘くて合わないかもしれないと、クローテッドクリームも一緒に買うのを忘れなかった。
(紅茶はまだあるし、文維のコーヒー豆もこの前一緒に買いに行ったばかりだし…)
あれこれと考えながら買い物が出来るようになったのも、つい最近の煜瑾だ。
それまでは、きちんと買うものを決め、書き出し、それ以外のものには目もくれずにレジかごに入れ、ドキドキしながらレジに並んでいた。
とにかく、「唐家の深窓の王子」は、1人で買い物に行くなど、考えられない事だったのだ。
初めて1人でリンゴを2つ買って来た時、文維は煜瑾が恥ずかしくなるほど褒めてくれた。
これからも、もっと、もっと、煜瑾の知らないことに出会うだろうが、文維が居れば大丈夫だと煜瑾は安心していた。
最後に大好きなイチゴを買って、スマホの決済でレジを済ませた煜瑾は、ふとこのスマホが朝から一度も鳴らないことに気付いた。
いつもなら、文維が日に3度は必ずメールか電話をくれるはずなのだ。
(あ…)
煜瑾は慌てて文維と色違いのエコバッグに買ったものを入れ、スマホを確かめる。するとやはり、美術館に入る時に電源を切ってしまい、そのまま電源を入れるのを忘れていたのだった。
(文維!)
電源を入れて、煜瑾は文維からの電話とチャットメールの着信の多さに驚いた。
そして、煜瑾は少し不安になる。
(私を心配してくれている?それとも…、怒っている?)
煜瑾は、周囲を見回して人が居ない隅を見つけ、そこで緊張しながら文維に電話を掛けた。
「…文維?」
***
気を失っていた文維は、自分のスマホの音で目が覚めた。ハッとして画面を見ると、発信者は文維が待ち焦がれた相手だった。
「煜瑾!」
思わず声が大きくなった。
「…文維?」
驚いたのか、煜瑾の方は小さな声でおずおずと呼びかける。
「ああ、煜瑾…。連絡をくれて良かった…」
文維の声に、怒りでは無く安堵を感じて、煜瑾はホッとした。やはり優しい文維は自分のことを心配してくれていたのだと思う。
「文維、ごめんなさい。朝からスマホの電源を切っていたことを、今まで忘れていたのです。ご心配おかけしました」
文維もまた、煜瑾の声が思った以上に明るく、元気そうなことに心から安心する。繊細な煜瑾は傷付いて病気になっても不思議では無いからだ。
また去年のように、煜瑾を苦しめるようにことになるのではないかと、ずっと心配していた。
「とにかく、今、どこにいるのですか」
今すぐに煜瑾の顔を見たいと、文維はせっつくように問いかけた。
「あ、今は私の部屋のすぐ近くのスーパーでお買い物を…」
「嘉里中心 にいるのですか!」
言いかけた煜瑾の言葉を遮るように文維が言うと、煜瑾は戸惑う。いつでも穏やかで、紳士的で、物柔らかな態度で接してくれる文維にしては、余裕が無い。
「はい。あの…」
「私は、煜瑾の部屋に居ます」
「え、本当に!」
煜瑾は、文維がすぐそばにいると分かり、思わず笑みがこぼれた。
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