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第35話

文維(ぶんい)!」  煜瑾(いくきん)が急いで嘉里公寓(ケリー・マンション)の自分の部屋に戻ると、本当にそこに文維が立っていた。  それだけで煜瑾は嬉しくて、幸せで、満ち足りた気持ちになる。 「あ、ちょっと待っててくださいね」  清らかな天使の笑みでそう言うと、煜瑾は真っ先にキッチンに駆け込み、買って来たものをテーブルに並べた。  それを、少し迷いながら、冷蔵庫に入れるものとそうでないものを仕分けしていく。 「煜瑾…」  気が付くと、文維は煜瑾の背後に立ち、ソッと囁くと後ろから煜瑾の胴に腕を回した。  手にしたクローテッドクリームを取り落としそうになった煜瑾だったが、なんとか耐え、瓶を割らないように気を付けてテーブルに置いた。 「ありがとう、帰って来てくれて」  煜瑾のうなじの辺りに顔を埋め、泣きそうな声で文維が言った。 「だって…。ここは私の自宅(いえ)ですよ?」  明るくそう言って、煜瑾は自分のお腹の上に重ねられた文維の手に、さらに自分の手を重ねた。文維が、どれほど煜瑾と連絡が取れないことを心配していたのかが、すぐに伝わって来た。よほど心配したのか、苦しそうにしている文維が、むしろ煜瑾を悲しくさせる。 「文維こそ…。ここで待っていてくれただなんて、とっても嬉しいです」  煜瑾はウットリとしてそう言った。  そんな柔らかな態度の煜瑾を、文維は不思議に思った。  確かに宋暁(そう・しょう)は、自分と文維がベッドの中にいる姿を煜瑾が見たと言ったのだ。それでも、これほど平静でいられるものだろうか。  やはりあれは宋暁の嘘で、煜瑾は何も知らないのではないか、と文維は疑い始めていた。 「煜瑾…、昨夜のこと…怒っていないのですか?」  訝しむように文維は低い声で訊ねた。  その言葉に、煜瑾はハッとして、慌てて不愉快そうな声を上げる。 「え?あ、ああ!そうです、私は怒っているんですよ、文維」  首だけで背後の文維を振り返り、煜瑾は子供のように頬を膨らませて見せるが、それはどう見ても怒っている様子ではなく、拗ねたように見せて甘えているとしか文維には思えない。 「?煜瑾?」  混乱した文維に、フッと煜瑾は真顔になった。 「あの人と2人では、会わないで欲しいってお願いしたのに…」  その言葉に煜瑾の本心を感じて、文維は口惜しさを抑えきれない。どうして、あの宋暁相手に油断したのか。軽率な自分が煜瑾を傷つけることになったのだ。 「それだけ?昨夜見たことには何も言うことはありませんか?」  文維の言わんとした「見たもの」を思い出し、煜瑾は真っ赤になって俯いてしまう。 「…あ、…あの…。そ、それは…」  恥ずかしくて、慣れない感情である「嫉妬」も感じ、煜瑾もどう言えば文維に伝わるのか戸惑い、ついいつもの癖で唇を噛んでしまう。  そんな慎み深く、初心で、純真な煜瑾が愛しくて、文維は何も言わずにギュッと抱き締める腕に力を込めた。

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