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第36話

 文維(ぶんい)の腕の力強さに深い愛情を感じて、煜瑾(いくきん)は少し落ち着いた。 「昨夜は…、信じられないようなものを見ました。…でも、アレは文維が望んだことではないことは、分かっています」 「煜瑾!」  文維は、煜瑾がこれほどに一途に自分を信じ、理解しようとしてくれることに驚愕してしまう。それほどまでに煜瑾は清らかな心を持つ天使なのだろうかと、文維は畏怖すら感じてしまう。  驚いている文維に、煜瑾はニッコリと微笑み掛けた。まぎれもなく、尊い天上界に存在を許された者だけの美しい笑顔だった。 「そうですね。私は怒っているので、まずは文維の言い訳を聞きましょう」  煜瑾はそう言って全身で振り返り、文維に向き合うと、ソッと触れるだけの口づけをした。  2人はリビングに移った。文維が気を利かし、冷蔵庫の中から煜瑾の好きなパイナップルジュースをグラスに入れ、自分はミネラルウォーターのペットボトルを手にした。  並んで、煜瑾お気に入りのソファに座り、2人はしばらく黙っていた。   ぎこちなく煜瑾が手を伸ばし、ジュースの入ったグラスを手に取った。緊張しているのか、文維もペットボトルの蓋を開け、ゴクリとひと口水を飲む。  その横顔を、にこやかに煜瑾が見つめていた。その瞳の優しさに、文維は複雑な気持ちを抱きながら訊ねてみる。 「昨夜のことを、許してくれるのですか?」  不安な目の色で文維は煜瑾に問いかける。それを受け止める煜瑾は、相変わらず穢れの無い、キラキラと澄んだ黒瞳だ。 「誰も許すとは言っていませんよ、文維。事情があると思うので、ちゃんと聞きます、と言っているのです」  穏やかに言い聞かせるように言う煜瑾は、微笑んではいるものの、決してふざけているのではない。笑顔の中にも、どこかに毅然とした態度を崩さない、高貴な王子に文維は逆らえなかった。 「じゃあ、信じてもらえないかもしれないけれど、昨夜あったことを話しますね」 「はい」  煜瑾はあくまでも冷静で、端然としている。それをどう解していいものか、上海で評判の優秀なカウンセラーである包文維ですら迷っていた。それでも、清廉で純粋な煜瑾に隠し事はできなかった。  文維はもう一度水を飲み、息を整えてから、おもむろに話し始めた。煜瑾は、ジッと文維を見つめている。あまりに深く澄んだ瞳は、真実を見抜く力を持つかのようだ。 「…私は、昨夜のパーティーで宋暁に会い、話をし、カクテルを飲みました。恐らくは…その中に薬が盛られていたのだと思います」  文維の告白に、煜瑾は顔色を変えた。 「薬!それは体に毒ではないのですか?文維は、もう大丈夫なのですか?」  煜瑾が心配をして文維の腕に縋った。自分を裏切った恋人にすらこれほど心を砕けるほど、煜瑾は心が清らかで、優しいのだと文維は嬉しく思う反面、この天使を傷つけたのだという罪悪感に襲われる。 「心配は無用です。もう今朝には薬効は抜けたようですから」  力なく笑って文維がそう言うと、煜瑾は心配が拭いきれない様子で、泣きそうな目をしていた。 「そう…ですか」  それでも、それ以上は何も言わずに、文維の腕を掴んだまま、素直に話の続きを待った。

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