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第37話

「私はその薬で、意識を失い、おそらく宋暁(そう・しょう)が私の車を運転して、(きた)外灘(ワイタン)の私のアパートに連れ帰ったのでしょう」  もし、文維(ぶんい)が運転する車の助手席に、あの宋暁が座っていたのだとしたら…。煜瑾(いくきん)はそう考えて少し不快になった。文維の隣に座っていいのは自分だけだという自負があった。  そうではなかったとしても、薬で意識を奪われた文維を、宋暁がアパートまで連れ帰ったというのが、すでに煜瑾にはもどかしく思えた。胸の奥がモヤモヤとして、重いような、熱いような、イガイガした気持ちになる。 「そこから先の事は覚えていません」  文維はそう言って、悔し気に両手を握り、俯いた。  そんな文維を、煜瑾は悲しそうに見つめていた。 「…私が、文維に呼ばれてアパートに行ったのは…」 「あのメールは嘘なんです。私はその時にはすでに、薬で朦朧としていたはず。煜瑾にメールを送った覚えなどありません。きっと宋暁が、煜瑾を苦しめるためにおびきだしたのだと思います」  初めて気が付いたのか、煜瑾は目を見張り、すぐに悲しそうに目を伏せた。 「ああ、私は騙されたのですね、あの人に…」  自分の愚かさを責めるような煜瑾に、文維はますます胸が痛む。  自分が傷つくよりも、愛する人を傷つけることの方がどれほど苦しいことなのか、文維は今、痛感していた。 「ゴメンなさい、煜瑾。見たくないものを見せてしまいましたね」 「…ビックリしました…。文維が、あの人とあんな…」  ストレートに文維が謝ると、煜瑾は重そうな睫毛をゆっくりと持ち上げ、その下から現れた深淵な黒い瞳で訴えかけるように文維を見つめた。 「でも信じて下さい、煜瑾。私は夢の中で、宋暁では無く、煜瑾を抱いていたのです。いつものように、大好きな煜瑾が腕の中にいると思い込んでいたのです」 「それは…、信じます」  間髪入れずに答える煜瑾に、文維は驚く。 「え?」  そんな文維の顔を楽しむように微笑み、そして、はにかみながら煜瑾は目を逸らし、小さな声で言った。 「だって…、『あの時』、文維が私の名前を呼んだので…」  煜瑾の言葉に、文維は息を呑んだ。煜瑾は本当に文維の裏切りを疑うということを知らないのだ。  文維は嬉しくて、有難くて、涙が出そうになるが、それを堪え、ソッと煜瑾の手を取った。 「信じて欲しい。私が愛するのは、煜瑾、君だけです」  誠意の込められた文維の眼をジッと見詰め、煜瑾はただ黙って頷いた。 「薬物で体の自由は失っていても、心は裏切っていません。私は煜瑾だけを想い、煜瑾以外は誰も愛せません」  文維の時代錯誤な言葉にも、世間知らずの煜瑾は恥じらい、戸惑ってしまう。 「私は…、文維を…信じているので、何も心配していません。それでも…」  煜瑾は大きな瞳に涙を溜め、それでも愛しい人に笑みを浮かべて見せた。 「それでも『あの人』とは、これからも決して2人では会わないで欲しいです…」 「約束します。誓ってもいい」  真剣な文維に、煜瑾は優しく、清らかな笑顔を浮かべ、恩寵を与えるように恭しく唇を重ねた。

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