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第49話

 文維(ぶんい)煜瑾(いくきん)は、何も言わずに煜瑾のお気に入りのソファの上で抱き合っていた。言葉は必要ではなく、ただ互いの温もりだけで思いが伝わるようだった。  しばらくはそうしていたが、やがて文維が身じろいだ。 「文維?」  何も疑わない無垢(むく)な瞳で、煜瑾が問いかけると、文維は困ったように笑った。 「さあ、そろそろ私は、自分のアパートに戻ります」 「ダメ!ダメです!いけません!」  文維の一言に、煜瑾は反射的に叫んでいた。 「…煜瑾」  愛しい恋人の悲しげな表情に、文維の胸が痛む。そんな文維の気持ちを知ってか知らずか、煜瑾は放すまいとして、ギュッと文維のオフホワイトのサマーニットを掴んだ。  そんな健気(けなげ)な煜瑾に、文維は欲望を抑え込むことがますます苦しくなる。 「あの人がいた場所に戻ってはイヤです!」  煜瑾はその胸の中に顔を埋めて、イヤイヤをしながら、何度も子供のようにしゃくりあげて泣いていた。 「文維は、あの人がいた、あの部屋に戻りたいのですか?」  泣きながら、煜瑾は()ねたように言った。こんな風に、天使のような恋人に責められたのは、文維にとっては初めてだった。  煜瑾を大切に思う兄・唐煜瓔(とう・いくえい)から、文維は唐煜瓔以上に煜瑾を大切にすると約束させられていた。穢れを知らない純真な心の煜瑾に、悪い心を教えないと、悲しい思いをさせないと約束した。  それなのに、優しく繊細な煜瑾を傷つけ、苦しめ、泣かせてしまった自分を、文維は情けなく思う。 「煜瑾…。私は…」  言いかけた恋人に、煜瑾はゆっくりと体を離し、ジッとその深い色をした黒瞳で文維を見つめた。その物憂げな美貌が悩ましい。 「ゴメンなさい…。こんなワガママを言って。…でも…、私は文維が好きなのです。文維には、私だけのものでいて欲しいのです」 「……」  一途な瞳の煜瑾を、直視することが出来ずに、文維は顔を背けた。そんな文維に、煜瑾は拒絶されたと感じてしまう。 「文維を拒んでおきながら、こんな事をいう私は…悪い子ですね…」  煜瑾は、しっかりと握っていた文維のサマーセーターから名残(なごり)()し気に手を放した。今度は、煜瑾を失うような予感に、文維の方が焦る。 「煜瑾は、悪くありません!私が、君をそこまで追い込んでしまったのですから…」  文維から少し離れ、煜瑾は切ない表情で、心細げに呟いた。 「文維…。今夜は、ここに泊まりたくないのですね…」  自分1人を残して、宋暁(そう・しょう)との「思い出」が残る部屋へ帰ろうとする恋人に、煜瑾は傷付いていた。  煜瑾は、文維から見捨てられたのではないかと自信を失ってしまう。  文維に愛されて初めて「快楽(セックス)」を知った煜瑾は、無知な自分が文維を満足させられないのではないかと、いつでも不安を感じていた。

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