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第72話 キスしてバイバイ

 ――夜にごめん。今から少し外に出られる? 「え? わ、へ? えぇ?」  夜の九時過ぎだった。原稿をちょっと描いて、ふと窓際に置いてある、小さな鉢に植え替えてあげてから一層元気になってきたアイビーの葉っぱに視線を向けた時だった。  グリーンが外に来てるんだって。  ――もし。  全部を読む前に部屋を飛び出した。  なんだろうって驚きながら階段をタンタンタンって駆け下りて、ちょっとダサいビーチサンダルをつっかけて。この前はプールだったからよかったけど、海の時はこれじゃダサいかなって思いながら。 「グリーン!」  うちから少し離れたところ、ガードレールに腰を下ろして空を見上げる姿がびっくりするくらいに似合ってる人がそこにいた。  僕が大きな声で名前を呼ぶと、こっちへ振り返って。  夏の夜風すらグリーンのことが好きみたいに。 「青葉、ごめん、夜に」  ほら、君のそばを通り抜けてく。熱帯夜が少しでも涼しくなるようにって、せわしなくグリーンの金色の髪を揺らしてる。 「どうしたの? 何かあった?」 「うん」  何気なくそう尋ねたんだ。メッセージでもなく夜に電車とバスを使ってまで、うちに来るなんてって思ったから。  けど、うん、って言われて驚いて。  そして、身構えた。 「ちょっと……」  だってグリーンの足元にはスーツケースが置いてある。 「向こうに戻らないといけなくなった」 「ぇ? どこに?」 「アメリカ」 「急に?」 「……明日の朝イチの便だから、これから空港近くのビジネスホテルに泊まるんだ」 「そんな、すごい急」  優しいけど、低い声がたんたんとぽつりぽつりと話してくれる。  それはこの前、電話で話した時の声と同じ。 「祖父が……」 「おじい、ちゃん?」 「最近、あんまり体調良くなかったんだけど……ちょっと」 「……」  ぎゅっと眉間に寄った皺。  それから、声。  電話越しのあの声は、おじいちゃんのことがあったから。僕は電話を通して聞こえるからそんな声なんだと思ってた。  けど、たぶん、そうじゃなかった。 「あ、でも、じゃあお見舞い」 「……」  おじいちゃんに元気出してねって言いに戻る、だけ、だよね? 「お見舞いしたら戻ってくるんだよね?」  あれ……え? でも、今、グリーンは戻らないとって、言ってた。 「たぶん……」 「グリーン」 「こっちに帰って来たいって、思ってる」  それは希望で。  でも、表情と声は。 「でも」 「待ってるよ」 「……青」 「待ってる」  ここで終わりってわけじゃないでしょ。 「とにかくおじいちゃんのお見舞いはしないとでしょ?」  これで別れるわけじゃないんだし。 「うん……そうだ」 「孫の顔見たらおじいちゃんも元気になるよ」  うちはまだおじいちゃんもおばあちゃんも元気だからこういうの経験ないけど、でも僕が行くと嬉しそうにしてくれるから、グリーンのとこだってきっとそうだと思うんだ。 「で、元気になったら戻ってきてよ。駅まで送る」 「いいよ、ここで。夜、遅いし」 「そうはいきません。僕、チビだけど男子だよ? 夜道くらい平気だって」 「顔を見て話したかっただけだから」 「なら、もっと見ててよ」 「……」 「ね?」  だって、声が寂しそうだったから。それがおじいちゃんのことが心配だったからなのか、それとも、ここで、もう。 「レポートできた?」  小さな不安が胸の内でコロンって音を立てて転がったけど、僕はそれを無視することにした。 「ぁ、あぁ、うん」 「お疲れ様。夏休み中でよかったね。って、まず、おじいちゃんが具合悪いことが良くないけど。グリーンに似てかっこいい渋いおじいちゃんなんだろうなぁ」 「どうかな」  さっきは気がつかなかった。グリーンしか見てなくて、けど、足元にスーツケースがあったんだ。  そのスーツケースがガラガラと賑やかな音を立ててくっついてきてる。その音がとっても騒がしくて、グリーンの声が掻き消されちゃいそうで、耳を傾けた。 「優しそう」 「うち、小麦農家なんだ」 「そうなの?」 「ちょうどこれから種まき」 「へぇ」  秋に種を蒔いて、次の年、夏の初めには一面が黄金色に輝く。 「すごくキレイなんだ」  グリーンはそう言って、目の前にまるでその光景が広がっているかのように、眩しそうに目を細めた。僕には写真で見たことがあるような、実の重さに弧を描いた小麦が地平線まで続く光景を思い浮かべて。  きっとグリーンの金色の髪が風に揺れるように、それはそれは綺麗なんだろうなって。 「そうなんだ……」 「今はなんにもないけどね」 「そっか」 「着いたら、連絡する」 「え?」 「ここでいいよ」 「けど、まだ」  駅までは少しあるよ。そう言おうと思った、けど。 「…………」  キスで言えなかった。 「…………駅のとこじゃ、キスできないから」  触れて、そっと離れる優しいキス。  あんなに賑やかだったスーツケースを引きずる音がぴたりと止まると、まるで世界が止まっちゃったみたいだった。なんの音もしなくて、誰もいなくて。 「キスしてバイバイってしたかったから」  まるで僕らしかいないみたいで。 「それじゃ」 「…………うん」 「青葉」 「あら、青葉、もう帰ってきたの?」 「あ……うん。グリーンが、来てて」 「あら、うちに上がればよかったのに」 「……うん……そう言ったんだけど。おじいちゃんの具合が悪くなっちゃって、急いで戻らないといけなくて……」 「まぁ大変、これからアメリカに?」 「……うん」 「突然そういうのってあるのよね」 「……」  そう、なんだ。こういうのって突然。 「元気になるといいわねぇ」 「……」  突然、やってくるものなんだ。

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