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8 恋心
食事も済んだし、そろそろ帰りたいな、と頭をよぎる微妙な間──
お手洗いに、と席を外した彼女を待ちながら、僕はスマートフォンの画面をチェックする。今日も何も変わらず、特にメッセージも入っていない。画面を見る度に襲ってくる虚しい気持ちに蓋をして、席に戻った彼女に笑顔を見せた。
「そろそろ帰りましょうか」
「え……私もう少し一緒にいたいんですけどダメですか?」
「うーん、えっと、とりあえず出ましょうか」
困ったような顔をする彼女を横目に会計を済ませ店を出る。これから二軒目に行っても全然問題ない時間ではあるけど、明日もまた学校があるし、僕自身も少し酒に酔っていたのでこれ以上彼女と二人で過ごすのには抵抗があった。
お手洗いから戻った梅北先生のリップの色が、ここに来た時とは違って鮮やかに変わっていたことに僕は気がついていた。学校ではほとんど化粧っ気のない先生が、今あえて女性らしく彩るのは意味があるのだろうか。道行く人たちに交わり足を進めると、クッと服の端を掴まれた。
「あの……渡瀬先生は今、彼女とか、いますか?」
「……うん、いない……かな」
突然の質問に足を止め、少し考えて僕は答える。「彼女」はいない。でもずっと心に留まっている大切な人はいる。
「いないけど、ずっとずっと好きな人はいるんです。大切な人」
普段はパッと明るい表情でハキハキと受け応えをする彼女が、お酒のせいなのか頬を真っ赤にし眉根を下げて小さな声で「そっか」と呟く。掴まれていた服から指が離れ、ゆっくりとまた歩き始めた。
「今日はありがとうございました! 私こっちなんで。ではまた明日……」
「あ、駅まで送りますよ。梅北先生、少し酔ってらしゃるから心配」
「いえ、大丈夫です。全然酔ってないですし。私より渡瀬先生の方が顔赤くて心配ですよ。ふふ、帰り道気をつけてくださいね」
最後はいつもの調子の梅北先生。ニコッと笑って駅へと去っていった。
確かに僕の方が少しだけ酒に酔っているかもしれない。ぽかぽかと火照る頬にあたる夜風が気持ちがいい。終始彼女のペースだったけど、楽しい時間を過ごせたことに違いなかった。
帰宅後、明日の準備をしてからゆっくりと風呂に入る。よくよく考えたら女性と二人でじっくり食事をするなんて初めてのことだった。ちょっと面倒だな、なんて始めは思っていたけど、気兼ねなく積極的な彼女のおかげで僕自身あまり気負うことなくいられたし、実際僕から何か話題を振ることはほとんどなく、とても楽な時間だった。思わせぶりな行為は感じなかったと言ったら嘘になるけど、そこのところも彼女の性格なのかちっとも嫌な気持ちにはならなかった。
就寝前、ベッドに横になりなんとなしに開いたSNSのページ。先程の食事の様子が早速彼女のページに上げられていて驚いた。
「すごいな。もうこんなに」
いつの間に撮ったのだろうか、店内の様子と料理の写真が複数枚、ちょっとしたコメントも添えられ並んでいた。
「あ……」
最後は彼女が撮ったデザートの写真。背後には僕。その写真の下に書かれていた言葉に僕はハッとした。
『彼氏とデートなう──
嘘。憧れの人と念願叶って初デート。即日失恋。でもとっても素敵な人。やっぱり大好き』
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