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10 周さん

「え……?」  玄関のドアを開けると部屋の明るさに一瞬怯む。消し忘れ? のはずもないし、何より先ほどから鼻をくすぐっていたカレーの匂いが僕の部屋から漂っていることに気がついて大いに混乱した。 「まさか、嘘……」  目の前に転がっている僕の靴よりだいぶ大きなスニーカー。驚きでその場に立ち尽くしてしまった僕の目に飛び込んできたのは、奥のドアから覗くはにかみ笑顔を浮かべた(あまね)さんの姿だった。 「おっ、竜太! おかえり!」 「なんで? 周さん、嘘でしょ……」  一気に頬が紅潮していくのがわかる。  嘘みたいな現実に、不覚にも涙がこぼれ落ちそうになった──  僕の最愛の人、橘周(たちばなあまね)さんは、高校を卒業しても進学や就職などせずにバンド活動を続けていた。一時はボーカルの(けい)さんが日本を離れてしまったけど、残された周さん、靖史(やすし)さん、そして修斗さんの代わりに入った(のぞむ)君の三人で活動を続け、圭さんの帰国後は四人で活動を再開した。今は高校生の当時からお世話になっていた先輩バンドのいるインディーズ事務所に所属して、スタジオで練習したり、全国あちこちライブに行ったり、音楽の活動で忙しくしている。おまけに今でも、たまにではあるけどバイトも続けていたりするから、二人で会える日はぐっと減ってしまった。そして今回は圭さんの父親でもある世界的に有名なギタリストの坂上泰牙(さかがみたいが)の縁もあり、海外でのレコーディングやライブの参加で一ヶ月近く日本を離れていたんだ。  僕は周さんと出会ってからこんなにも長いこと離れ離れになったことがなく、学生の時のようにあれこれ気にせず連絡をとるということもできずに、康介に心配されるほど寂しさを拗らせ孤独感を募らせていた。  ここにいるはずのない大好きな人が、僕の目の前で「おかえり」と笑っている。まるでいつもの日常のようになんでもない顔をして「早く手ぇ洗って来いよ」と僕に笑いかけている。夢じゃないよね? 現実だよね? と、周さんを前にしてもまだ信じられない気持ちでいっぱいだった。  でも周さんの手に握られている、ぼたぼたとカレーを床に滴らせているお玉を見て現実を実感する。あれ? これってデジャヴかな? ちょっと懐かしい気持ちになりながら、僕は慌てて靴を脱ぎ周さんの元へ走った。 「周さんっ!」 「おおっ、竜太元気だったか?」  熱烈歓迎だな、と笑う周さんに思いっきり僕は抱きつく。一気に周さんのぬくもりに包まれ幸せな気持ちが溢れ出した。 「なんで? まだ帰って来る日じゃ……」 「ああ、早く済んだから帰ってきた。いいかげん竜太に会いたかったしな」 「ふふふ、まったく、連絡くらいくださいよ。びっくりした」  僕は周さんに抱きつきながら溢れてしまう涙を誤魔化し、床を汚しているお玉を受け取った。もう嬉しいやらおかしいやら、何から話していいんだかわからなくなってしまった。 「早く来ちまったからさ、ちゃんと冷蔵庫チェックしてスーパー行ったんだよ。カレーなら俺でも作れるしよ、前にも竜太が褒めてくれたから頑張って作ってた」  ちょっと照れ臭そうに笑う周さんがたまらなく愛おしい。自信満々に「上達したから」と言っている通り、前に作ってくれた時ほど部屋は大惨事ではなく、サラダも適量に作ってあった。確か高校生の時にサプライズで作ってくれたのは、レタスにこれでもかと盛られたプチトマトのサラダと、跡形もなく蕩けてしまったジャガイモ含む肉てんこ盛りのカレーだった。床と周さん自身もなぜだかカレーまみれで、その時も僕は愛おしさで堪らなくなったのを思い出す。 「ああぁ、もう……大好き」 「ん? 俺も好き」  周さんは僕のことをギュッと抱き返し、頭頂部にキスを落とす。「顔あげて」と優しく囁かれ、僕はおずおずと言われた通りに顔を上げた。 「なに? 泣くほどカレーが嬉しいの?」 「違います……だって、すごく寂しかったから」 「俺のカレーは?」 「あっ、勿論カレーも嬉しいですよ。もう……周さんったら」  今度は僕の方から周さんの頭に手を添える。優しく引き寄せると、その笑顔の唇にキスをした。

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