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第一話 妹背の話
幼いころ、つるさんの語る昔話が大好きだった。島へ流れ着いた兄妹が二人で島を栄えさせていくというものである。つるさんはその話を、登場する島の名にちなんで「妹背 の話」と呼んでいた。夜、つるさんが寝かしつけてくれるたびに、妹背の話をしてくださいと来る日も来る日も頼んだものだ。つるさんは「飽きないですねぇ」と口では言いつつも、にっこり微笑んで話してくれた。
兄妹とはなにか尋ねたことがある。当時のわたしは物心がついてからというもの、谷を出たことがなかった。兄というものがなんなのか、妹というのがなんなのかさっぱり分からなかった。わたしの問いに、つるさんはこう教えてくれた。
「兄とは陰陽 より年上の男の子のきょうだいのこと、妹とは陰陽より年下の女の子のきょうだいのことですよ」
女の子というのも、きょうだいというのもよく分からなかった。谷に女はいないし、家庭を持つ者もいない。首をひねるわたしに、つるさんは「谷にはいませんから、難しいですね」と、そっと頭を撫でてくれた。あのときの優しい困り顔を今でも覚えている。
あれは冬だったか。それとも春だっただろうか。相も変わらず兄妹の話をせがむわたしに、つるさんが「おもしろいものを見せてあげましょう」と、峠へ連れて行ってくれたことがある。つるさんは右手で私の手を握り、左手に布の入った桶と杓子を持っていた。道中、つるさんはこの山に山姥というのがいると話してくれた。
「山姥というのは人を食うのが好きなのです。それも、陰陽のような子供をね。だから決して手を離してはなりませんよ。山姥に食われてしまうからね」
わたしはつるさんの手を強く握りしめた。だが怖くはなかった。つるさんと一緒ならどこへでも行ける。離れることなど考えられなかった。谷の鬼の中には、わたしとつるさんを親子のようだ、父子のようだと言う者もいた。つるさんを父上と呼ぶべきだとする鬼もいた。
一度だけ父上と呼んだことがある。つるさんはわたしを叱った。「なりません。二度とそんなふうに呼んではなりません」と。以来、父と呼んだことはない。
歩き疲れて手を握る力も弱まってきたころ、沢が見えた。峠に上りきる前に、つるさんとそこで少し休憩した。ごつごつとした岩の間を、透き通った冷たい水が勢いよく流れていた。細く浅い沢だったが、すべてをさらっていってしまいそうな怖さがあった。だから、桶で水を汲むつるさんに肝を冷やした。
沢から少し歩くと峠へ着いた。奇妙な巨石が二つあった。ひとつはやや傾いた柱のような石、もうひとつは平らな石。二つは寄り添うように並んでいた。幼い私と同じくらいの大きさだったから、やたらと大きく見えた。実際は大したことないのに。
「妹背の話があるでしょう。この石はあの話の兄妹と同じなんだよ。同じと言っても、こちらは人間じゃなくて神さまだけれど。ほら、ごらん」つるさんは柱の石を撫でた。「こちらは兄神の石」くるりと踵を返し、しゃがんで平らな石を撫でる。「こちらは妹神の石」
つるさんは杓子で桶の水を石にかけ、布で磨いた。柱の石も平らな石も、どちらにも同じように半分ずつ水をかけて丁寧に磨いた。まるでわたしを撫でるように。
つるさんには悪いが、石を見ても神の姿など思い浮かばなかった。石はただの石である。大きいことには大きいが、どこにでもありそうな普通の石だ。なぜそんなものをありがたがるのか分からなかった。わたしは退屈になって、つるさんが磨いていない方の石をじっと見つめていた。妹背の話に出てくる島にも、こういう石があるのだろうか。
「陰陽石 というのです。陰 と陽 の石と書いて、陰陽石」
磨き終わったつるさんが腰を叩きながら言った。呼ばれたと思ったが、石の名前のことだと分かったときにはがっかりした。つるさんは柱の石と平らな石の間の、なにもないところを手で示した。
「陰陽。おまえとはね、ここで出会ったのですよ」なにもないところを愛おしそうに眺める。「懐かしいですね。あれはたしか、今頃の季節でしたか。おまえをここで見つけるまでは毎日のようにここへ通ったものです」
つるさんはわたしの前でしゃがんだ。澄んだ瞳がわたしを見ている。つるさんは鬼、すなわち世捨て人だ。だが他の鬼とは違う。こんなに澄んだ目の鬼など他に知らない。
「今でも覚えています。おまえを見つけたとき、本当に驚いた。こんなところに赤子がいるだなんて、とね。でもなにか意味があるのだろうと思ったんです。それを忘れたくなくて、おまえに陰陽と名付けたんですよ」
今思えば、呪いだったのかもしれない。
「わたしはね。この兄妹神が好きなんです。神様なのにこんな野ざらしのところにいる。ご神体だって大きいだけで簡素なつくりだ。大きいから陰陽石と分かるが、小さければそこらの石と大差ない。こんなこと神様の前で言ったら、ふつうは罰が当たるかもしれませんけどね」
つるさんはわたしの隣にしゃがんで、手を握った。冷たい水を触っていたはずなのに熱かった。
「だから好きなんですよ。彼らは人々と近いところにいて、支え続けている。見返りなどなくても、たとえ罵られても……わたしはそんな人になりたかった。結局、無理でしたけどね」
鬼になっちゃいましたから、と笑い、顔を逸らして深いため息をこぼしていた。
今となってもつるさんが俗世にいたころ何をしていたのかは推測の域を出ない。だが、何をしていたとしてもつるさんは立派だったのだと思う。鬼になどならなくてもよかっただろう。それがなぜ、こんな谷に来たのだろう。わたしには分からない。
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