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第二話 ものぐさ
この谷には男の鬼しかいない。もともと人間だったものたちが、俗世を厭 い、その末に流れ着いた場所がここだという。この谷の者は全員が何かしらの事情を抱えているということだ。言い換えれば面倒な者が多い。その中でもひときわ面倒な鬼がものぐさだ。
谷では俗世での名と異なる名を名乗るのがならわしとなっている。たとえばつるさんの場合、鬼としての名を橡 という。「由来はなんでもいいのです。わたしは橡の色が好きだからそう名乗ることにしたんだ」と教えてくれた。人間だったころの名は知らない。
ものぐさはこの名乗りさえ面倒がったという。いつも家にいて、酒も飲んでいないのに昼間から酔っぱらったようにしきりになにか怒鳴っている。畑仕事もしない。なにもしない。それどころか、わたしやつるさんに雑用を押し付けることもある。そのたびにつるさんが助けてくれるから、わたしがものぐさに何かをさせられたことはない。
やつはそんなふうに過ごしているから、誰が呼んだか「ものぐさ」なる不名誉な名を与えられた。ものぐさは俗世にいたころ、遊ぶ金欲しさに借金をして、ついに首が回らなくなって鬼になったらしい。人間のころからどうしようもない男だったのだろう。
つるさんはこのものぐさを特別嫌っていた。見ても近寄るな、と幼いころから何度もしつけられた。わたしもやつを好いたことはない。今まで一度もない。いつもわけの分からぬことを怒鳴っているような者を、どうして好けるのか。だが、好奇心がくすぐられたことはある。やつはわたしの知らない、つるさんも教えてくれない女の存在を知っていたからだ。
ものぐさがよく怒鳴っていた言葉を今も覚えている。女がいれば子供が生まれる、子供が生まれれば仕事をさせられる、おれの代わりに子供が働く、嫁が働く、ああ、嫁が欲しい、子供が欲しい――
覚えておくことになんの価値もないというのに覚えてしまっている。いい加減に忘れたいのにどうにも染みついているものだから質 が悪い。つるさんだって「ああいうのは間違っている」とか「それに、鬼は一代限りで滅ぶべきだ。子供なんて作ってはいけない」と何度も言っていたのに。
ものぐさは、おぞましい魅力をたたえていた。認めたくないがそれも事実である。
つるさんに初めて陰陽石の峠へ連れて行ってもらってから十年ほどになるのだろうか。今の私からするとおよそ一年前のことになる。今でも焼き付いて離れない、忌まわしい記憶だ。もう何度思い出しただろう。思い出したくなどないというのに思い出さなければならない。
成長してからも、つるさんはいつもわたしの隣にいてくれた。起きるときも、食べるときも、畑仕事をするときも、風呂に入るときも、寝るときも、ずっと一緒だった。
忘れもしない。夕方のことだ。山の向こうに日が暮れて、空が暗くなってきたころ、わたしとつるさんは帰り道を歩いていた。怪物のように地を這う大きな影が鬼の谷からやってきた。ものぐさだ。
「まだ一緒にいんのか、親子ぉ」
ものぐさは、すえたにおいを放ちながらわたしたちの方へ近寄ってきた。つるさんは構わず通り過ぎようとしたが、ものぐさの、怠け者のくせにやたらと強靭な肉体に弾き飛ばされてしまった。慌てて駆け寄る。つるさんは「大丈夫だよ」とわたしの頬を撫でてくれた。ものぐさはわたしたちを見下ろしてケタケタと笑う。
「いつまでも赤子同然じゃないか。それともかわいいお姫様か」
不快だった。歯ぎしりをする音が聞こえた。わたしのだけではなかったように思う。つるさんはわたしの手を握って立ち上がった。小さく「気にしなくていい」と聞こえた。
「前から怪しいと思ってたんだ。もしかすると、おまえ、女を隠してるんじゃあないだろうな」
「なにを言っているんだか。さあ、陰陽。行きますよ」
「おいおい、そりゃあないだろう」また道を塞がれる。「おまえの頭がいいことくらいは知ってるんだよ。だがな、おれの目もいいんだぜ。そいつは女だ」
「いいえ。男です」
「うそつけ」
「男だと言ってるでしょう」
「そんなに言うんなら、確かめさせてくれよ」
「なぜそんなことしなくてはならないのですか」
「ほほう、隠すんなら女ってことだわなあ!」
ものぐさの汚い手が伸びてきて、わたしの腕を強引に引っ張った。肩が抜けると思った。とっさにつるさんがものぐさの頬をはたいた。だが、そんなことをしてもものぐさはピクリとも動かなかった。つるさんはわたしを抱え込んだ。荒い息が耳にかかる。
「そんなに怯 えんなよ、つる。おれは子供と嫁が欲しいだけさね」
「渡すもんですか、おまえなんかに」
「はははっ、ついに認めたか。よし、陰陽。おまえはこれからおれの嫁だ」
「認めたわけじゃない!」
ものぐさはつるさんを蹴り飛ばした。つるさんはわたしを離さなかった。わたしはつるさんに覆いかぶさられる形になった。だが、つるさんがものぐさに蹴られていることは感覚で分かった。怖かった。わたしはいつの間にか目を閉じていた。
「すみませんね、陰陽。少しだけの辛抱です」
わたしもそう思いたかった。だが、希望というのは抱くほどに遠く離れていくものである。パカン、と甲高い音が鳴った。目を閉じていても、赤い夕焼けの光が差し込んでくるのが分かった。つるさんの頭が蹴られたのだ。つるさんはなにも言わなくなった。耳に当たっていた温かい息も感じとれなくなった。怖くて怖くて、あまりにも怖くて、わたしは目を開けずにいた。
「やかましいのがいなくなって、せいせいしたな。なあ? 姫君ちゃんよ」
そのときから、わたしはものぐさの言いなりになった。
もう、わたしを助けてくれる人などいない。つるさんはわたしに手習いや炊事、洗濯、畑仕事、妹背の話など、生きるすべから楽しい話までなんでも教えてくれたが、力の使い方は教えてくれていなかった。
ものぐさは、なにもしないくせに体力だけはある。やつはわたしを軽い木の枝のように担ぐと、つるさんなどいなかったかのようにどこかへ歩き出した。目を開けたら現実を認めてしまうような気がして開けられなかった。
やたらと埃っぽいところで寝かされたことを覚えている。そして両手、曲げた左右の脚の三か所を縛られた。恐怖で動けなかったから、縛られていなくてもなにも変わらなかっただろう。それから服を剥がれた。ひんやりとした空気の中に熱を孕んだ息が当たって気持ち悪かった。
「なんだあ、これは」
やつはわたしの陰部をまさぐった。手前から奥まで、いやらしい手つきで。やつには歯向かえないほどの力がある。殺されたくなければ従うしかない。
「ははあ、なるほど。おまえはそういう名前だったな。陰石 と陽石 ってわけか」
やつはわたしの陰部の奥の方を指先で確かめた。そこには裂け目がある。つるさんにはない。その昔、体を洗っているときに気がついたものだ。つるさんに聞いたらそれがなにかとは教えてくれず、ただ「それはわたしとの秘密にしましょう」と言われた。
そんなものおかしいと思って、後日これは怪我の痕 なのかと聞き直した。すると、つるさんは一瞬黙って、「そうです、それは傷痕ですよ」とぎこちない笑みを見せた。
そんなわたしとつるさんの秘密を勝手に暴かれたのである。辛抱ならなかった。だが、やつには歯向かえないほどの力がある。殺されたくなければ従うしかない。
「知ってるか? これをまんこっつうんだ。女の証だ」
裂け目に、にちゃりとしたものが触れた。それがなんなのか分からなかったが、全身に鳥肌が立った。体が拒絶している。ここから逃げ出したい。でも、怖くて逃げられない。逃げたところで逃げ切れる自信もない。
「……なんだ、これは。穴がねえじゃねえか」
舌打ちが聞こえた。そこからものぐさは豹変した。
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