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突きつけられた現実
会社帰り───この一週間は残業続きだった。
漸くの金曜日、疲れた体を引き摺って、最寄り駅の階段を下る。
ここから家まで、徒歩30分……。
バスももうない時間だし、タクシーで帰ろうかな。
頭で考えるより先に、身体がそちらへ向かって動き出す。
「はぁ……」
重い息を吐き出して、俯きかけてた顔を上げる。
───と、
「あれっ…って……」
遠くからでも目を引く長身に、ピシッとしたスーツの背中。
「香島さん……?」
心臓が、どくんと跳ねる。
歩く向きが変わって、横顔が見えた。
「……香島さんだ」
先週逢ったばかりでまだ月も跨いでないし、見かけたからって勝手に声を掛けたりしたら……、契約違反になっちゃうかな?
でも、決まってるのは、月に一度逢えば口座残高100万円ってことだけだし…。
それに、せっかく逢えたのに、このまま素通りなんて…。
……どっちにしろ、タクシー乗り場、そっちだし!
だから俺はそっちに行かなきゃいけないんだ、と自分に言い聞かせ、香島さんの後を追うように速度を上げた。
その時、香島さんが右手を上げた。
こっちに向けて──じゃない。
「お待たせ」
香島さんの声に、ベンチに座る女性が顔を上げた。
彼女の背中に腕を回すと腰を抱くようにして、香島さんは止まっていたタクシーに2人で、乗り込んでいった。
タクシーはすぐに角を曲がり、見えなくなる。
足が、止まっていた。
気付いたら、立ち竦んでいた。
あれが、奥さん――?
血液が、一気に下降する。
突然足元の地面が消えたような感覚に陥り、身体がふらりと傾いた。
「香島…さん……」
ショックだった。
見てしまったことよりも、ドクドクと早鐘を打つ鼓動の意味に気付いてしまって──自分の愚かさに、衝撃を覚えた。
汚い………汚い───!!
あの人には家庭があるんだって、薄々気付いていたくせに、あの心地よい時間を失いたくはなかった。
目を瞑って気づかないフリをした。
体の関係がないからって、あの人が触れてこないからって、自分を正当化して、一緒にいる時間を悪くないことだって……。
だけどもう、逢えない。
知ってしまったら、見て見ぬフリなんて、
もう出来ないよ。香島…さん…───
翌日俺は、口座から100万円をすべて引き出した。
そして月初めには何事も無かったかのように、残高はまた100万円を表示していた。
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