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オトナの男
香島さんが水槽の上蓋を開けてくれて、そこから少しだけ、エサを降らせた。
フワフワと泳いでいた魚たちが集まってきては、口をパクパクと動かす。
「うわぁ、かわいーっ」
ひらひらとヒレを舞わせて上を向く魚たちの、一生懸命な姿が可愛い。
水槽に近付いて覗きこんでいると、後ろから水槽を見ていた香島さんが、耳元で囁いた。
「魚より、俺には君が可愛く見えるな」
「えー? 俺、男ですよ」
振り返ってから、軽く笑い飛ばす。
目が合った香島さんは少し困ったように笑うと、手を俺の顔の高さに伸ばして、
「俺は香島悠と言います。名前、訊いてもいい?」
一瞬躊躇したように動きを止めてから、頭を撫でてくれた。
「はい。広川皐月です」
「皐月か。綺麗な名前だね」
社交辞令かな?
でもいつもは「綺麗」って言われても「女性っぽい」って遠回しに言われてるみたいでちょっと腹が立つのに、香島さんの言葉は、ちゃんと褒めてくれてるみたいに受け取れて嬉しい。
「ありがとうございます。広い川に、5月の皐月って書きます。香島さんの字は?」
「香る島に、悠久の悠」
「有給休暇の?」
「ああ、皐月は会社員か。じゃあ、悠々自適、悠かって字だって言えば分かるかな?」
「あ! うん。それなら分かります!」
香島悠…。
頭の中で漢字変換してみる。
「いいなぁ…綺麗な字面だ…」
無意識のうちに呟くと、香島さんが可笑しそうにプッと吹き出した。
ん? と見上げると、ごめんごめん、とまた頭を撫でられる。
「まだ飲める?」
「え…?」
香島さんからの問い掛けにカウンターのグラスを確認すると、中身はあと一口くらいしか残っていない。
「飲めます。でも、あと1杯飲んだら帰ろうかな」
「じゃあ、1杯ご馳走するから、隣りに座ってもいい?」
「そんな、ご馳走なんていいですよ。俺も香島さんと一緒に飲みたいです」
「…うん。ありがとう」
頭に乗っていた手が腰に回されて、席へと誘 われる。
「香島さん」
なんだかそれがおかしい気がして、足を止めて香島さんを見上げた。
「俺まだそんなに酔ってないから、支えてもらわなくても大丈夫ですよ」
「…そう? それは残念」
腰にあった手が肩をひと撫でして、離れていった。
「っ………?」
どうしてだか、腰と肩が少し淋しくなった気がした。
なんだか余計なことを言ってしまったようで、後悔する。
香島さんは俺の隣に座ると、慣れた様子でカクテルとブラントンを注文した。
「ブラントンって、確かウィスキーでしたっけ?」
「ああ。コニャックだね。皐月もそれが良かった?」
「あ、ううん。俺、ウィスキーの匂いがダメで、ハイボールも飲めないんです」
やっぱり香島さん、オトナの男って感じで格好良いな…。
憧れの目を向けると、香島さんはまた髪をサラサラと撫でてくれる。
頭撫でるの、クセなのかな?
「リュート、ブラントンキャンセル、代わりにカミュ・ナポレオンを」
「えっ、えっ!? 大丈夫ですよ、俺!」
匂いがダメでなんて言ったから、気を使わせちゃったんだろうか。
「皐月は、ブランデーなら大丈夫?」
俺の頬に垂れていた髪を指先でひと束掬うと、香島さんは顔を覗きこんできた。
「飲んだことないです」
答えると、弄んでいた髪を耳の後ろに掛けられる。
「じゃあ、ひと口飲んでみる?」
「いいの?」
「ああ、皐月になら、あげるよ」
なんだろう…?
ドキドキする。
香島さんに見つめられて、香島さんの声や吐息が耳の穴に入り込んで、それだけのことなのに、やけにドキドキしてる。
まだ一杯目を飲み終わったばかりだけど、もう酔いが回ってるんだろうか?
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