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美しい泣き顔

ほとんど同じ身長の、その唇が押し当てられる。 フワリと甘い芳香が鼻腔をくすぐる。 堪え切れずに、頭に後ろを右手で支えて、唇を強く押し付けた。 「ん……っ」 僅かに声を漏らすから、もっと暴き出してやりたくて、唇を舐めて開かせる。 それを待っていたのか、差し込んだ舌にすぐに熱い舌が絡んできた。 その慣れた様子のキスに、少し苛つく。 肩を押して唇を離すと、驚いたように見つめてきた。 こんな経験、初めてなんだろう。 そりゃあそうだ。こんな人から熱烈なキスなんてかまされたら、男はそれだけでイチコロだ。 「功太…?」 俺は最近まで童貞だったけど、逆にそれは今まで誰にも手を出さずに我慢をしてたってことで。 最近気付いた。俺は、我慢強くて理性的だ。 一度がっついたら止まれなくなるけど、それまでの抑制力が物凄いんだ。 だから、この人の誘惑も俺なら断ち切れる。 「ここ、会社から程近いし…」 「え……?」 なんでそんな、捨てられそうになってる子犬みたいな目で見てくるかな。 「俺、カミングアウトもしてないんで、別の駅でゲイバー探そうかなって思ってて」 「…功…太……?」 「だから俺、……ローズ、今日限りにしますね」 「……ど…して…?」 袖をキュッと掴んでくる。 「だって、ここじゃ見つからないでしょ」 この店には、マスターより魅力的な人なんて来ない、から。 「え…?だって…」 なんで震えてるんだよ、この人は。 これも、モテるネコの手練手管ってヤツ? 思わず震える手を包み込んで、抱きしめたくなるだろ。 「だから、新しい店開拓して、恋人探し」 袖を放させて、一歩下がる。 伸ばされた手に、首を振って拒絶した。 リュートさんの瞳が、うるりと濡れる。瞬きすると、真珠のような丸い粒がポロポロと零れ落ちた。 綺麗だな、と思う。 こんなに悲しそうに顔を歪めて泣いているのに、俺が泣かせてしまっているのに、 絵画のように整った顔のこの人は、泣き顔さえも綺麗だ。

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