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兄心[2]

【夏木Side】 「ひとりっ子で、父親は孝哉さん、母親は美雪さん」 「えっ?」 リュートさんの話、か? 突然ペラペラと話し始めた香島さんに、頭に疑問符が浮かぶ。 でも、リュートさんは父親は分からなくて、母親も亡くなられたって…。 「5月12日生まれ、牡牛座のO型」 「……それって、広川のプロフィールですよね?」 「そう。神奈川県横浜市出身。現在の住居は都内の高層マンションの最上階。小中は地元の公立校で、高校は市内の公立共学の普通校。まだあるけど、全部聞くか?」 「って、高層マンションの最上階に住んでんですか…っ」 「ああ。お前には真似できないだろ」 からかうみたいにそう言うと、髪を掻き上げつつ顔を覗きこんできて、笑う。 ちくしょーっ、真似出来ねーですよ!つか、そんなん出来んの極一部の裕福層だけじゃんかよ…。 「でも、皐月が高くて大変だって言うんだよな。出勤前に余計な時間取られるとかなんとか」 「それって、帰りもトイレ我慢してたら辛い距離なんじゃ」 「そろそろ引っ越すかな。俺達結婚するし」 ……そういや、この人たち前にそんな事で揉めてたっけか。 結婚かぁ…。進んでんな。 俺なんか、男として認められてすらいないもんな。 「いッスね~。今が一番ラブラブなんじゃないですか」 恨めしそうな顔を見られないよう、テーブルに突っ伏した。 「そうだな。今が一番ラブラブだな」 喉の奥から響く笑い声は、けれど言葉とは異なり、まるで苦笑のような……。 頭に触れた手のひらは、宥めるように優しく滑る。 「だけどな、夏木。今日より明日の方が、もっとラブラブなんだよ、俺達は。 …いや、その瞬間瞬間が、最上級。重ねて行く時間の中、今が一番、皐月を愛している」 「……それ、俺の頭を撫でながら言わなきゃいけないことッスか…?」 「お前に惚気けてやりたいと思ってな。兄心、かな」 兄心…ね。 今日ここに俺を連れてきたのも兄心なんだろうし、もしかしてここに俺を引き留めてんのも…。 でも、もう……な。 「ドリア、ご馳走様でした。いくらですか?」 「いらねえよ、貧乏人」 財布を出そうとすると、頭をくしゃりと撫でられる。 「俺だって、ちゃんと働いてんで」 「しっかりしてんなあ、最近の若者は」 俺がお前の歳の頃は貰えるもんは貰って貯め込んだもんだけどな、と嘯いて、香島さんは俺の財布をポケットの中に押し戻した。 「……ご馳走様です」 「悔しいなら、未来で俺より稼いでご馳走してくれよ」 悔しいか悔しくないかって言われたら、一人の男としては確かに複雑だけど…。 普通に考えたら、有り得ない。無理だ。 この人は企業家で商売の才があって、俺は多分ずっと雇われ会社員。 もし香島さんが事業に失敗して破産したとしても、だからと言って今の香島さん以上に稼げる未来なんか俺には訪れないだろう。 それに、香島さんは破産とか、なんか絶対しない気がするし。 少なくとも広川と一緒にいる間はずっと、広川に苦労させない、贅沢させてあげられるだけの稼ぎを叩き出し続けるんだろうって、そう思う。 「じゃあ、俺帰ります」 もう一度頭を下げて、水槽前に目を向ける。 二人で水槽の魚に見入ってる。 リュートさんは広川が魚を指差すたびに、同じ魚を指さして見せて、なにかを喋ってるっぽい。 そんな遠くないけど、店内に流れるジャズのBGMが邪魔をして言葉が届かない。 まあ俺達の会話も音楽にかき消されてたなら、それに越したことはない。 水槽に照らされた髪が、青く輝いている。 ───綺麗だな。 広川に向ける笑顔は、カウンターの向こう側から俺に向けていた表情とは違い、とても自然で、すっごく可愛い。 ……なんか、逆鱗に触れたのかもな。 謝っても許されない程の、酷いことを言ったんだろう。

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