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兄心[3]

【夏木Side】 見惚れていたのは、ほんの二三秒だったと思う。 「夏木。俺はお前が此処に住むのもいいと思うけどな」 「は?」 突然掛けられた言葉に、理解が届かなくて香島さんを振り返った。 「お前、さっき言ってただろ」 「…言ってた…かもしんないけど……。こういうトコって契約あるんだろうし、勝手に住み着いちゃマズイんじゃないですか。ほら、対大家さん的に。それに…」 「それなら、此処もうちの社の持ちビルだから、言ったら俺が大家さんだな」 ───そッスか…そーですかぁ…。 なんかもう、色々馬鹿らしいよ!! 「いや、つかもう、俺来ないと思うんで。俺、リュートさん怒らせたみたいで、どうやら謝っても許されないぐらいやらかしたっぽいんで」 「そうなのか?」 「そうですね。そもそも、どうだったのかな、向こうは。俺ガキだから、全然頼ってもらえなかったし」 「そうやって諦めるのな。お前も───」 『お前も』なんて……、気になる言い方しやがってさ。 香島さんは、イスに座ったまま静かな瞳で俺を見据える。 「母親は私生児としてあいつを育てた。父親は恐らく、白人の外国籍の男だ」 リュートさんの話、か。 「それは聞きました」 「片親だったからな、産まれた時から母親の実家で、俺とは兄弟のようにして育ってきた。別に暮らしていた期間もあるが、小中高、大学まで同じ学校の1学年違いだ」 そりゃあ、仲いい筈だよ。 そんな2人が恋に落ちることはなかったんですか?───一瞬口から出かけた疑問を寸でのトコで飲み込む。 今更聞いたって意味のないことだ。 「後は自分で訊けよ。お前達は、身体ばかりじゃなく言葉でもコミュニケーションを取らないとな」 「そう……でしたね」 自嘲の笑みが口元に浮かぶ。 今さら、だって。 別れようって、意思、もう固めちったもん。 向こうだって、こんな年下と付き合ったの、後悔してんじゃねーの? 今度は全身全霊で頼れるような大人の男に───惚れてください! 「んじゃあ、失礼します!」 香島さんに向けて腰を折って、出口へ向かった。 「功太…?」 水槽を見ていた筈なのに、リュートさんが慌てて近寄ってくる。 「夏木、買い物?俺と悠さんで留守番してるから、2人で行ってくれば」 良いことを思いついた顔をして、広川は手を振った。 「いや、1人でいい」 「じゃあ、カバンは置いて行って、功太」 通勤用鞄に手が掛けられる。 ───ああ、これ、バレてるな。俺がフェイドアウトしようとしてるって。 リュートさん、自分に寄せられる好意には鈍いくせに、他のことには結構勘が利くから。 なんで止めようとしてんのか、ワケ分かんねーけど。 「財布だけで事足りるでしょう?」 なんで声が震えてんのか、もっと分かんねー…けど。 「じゃあ、中身だけ抜かせて。無いと困るから」 カバンは置いてく。いらなかったら捨てて構わない。 「今から会社に戻るから、名刺と手帳だけでも。ね?」 「だったら、カバン持ってついていく。下で待ってるから」 ……なんで、急に我儘言うかな。 少しぐらい酷い事言わないと、ここから出してもらえそうにないな。 「俺、カミングアウトしてないから、ついて来られると困る」 「夏木!」 何も言わないで、ただカバンを掴んで俯いたリュートさんの向こうから、広川が怒鳴りつけてきた。 「なんでそう言う言い方すんだよ!」 「悪い。……広川は、今のままでいろよ」 笑って頭を撫でて、扉の鍵を開ける。 「功───っ」 「リュート!」 香島さんが、声を上げた。 「放しなさい。縋り付くな、みっともない」 「……兄…さん…」 ぱたり、と。リュートさんの手が、カバンから離れて落ちた。 「みっともなく…縋り付いたって、いいじゃないか……っ」 絞り出すような声が、耳に届いた。 縋り付かれて、突き放せなくて、何度だって苦しくて堪らなくなる───そんな想いにも気づいて欲しい。 逃げ出したくなることにだって……。 「じゃあ訊くけど、リュートさんは、さ…。俺をどうしたいわけ?俺ならなんでもしてくれるからって、キープしときたいとか?」 「功…太…?」 最後に見た顔が泣き顔だとか─── 俺、ヒドい奴だな。守りたいとか言っといて。 最低だな。 こんなに泣かせて。 ヒドい奴なのに、こんなに泣いてくれて…… なのに俺は、貴方から逃げ出すんだ。 ホントはずっと、守りたかったのに、 もう、辛いんだ。 でも、俺が泣かせなかったら、貴方は泣かないで済むんだろう? だから、終わりにしよう。 心残りは、もうその綺麗な笑顔を見られないことと、いつか誰かの隣で笑う貴方を祝福出来るだけの器のない自分。 だからもう、二度と会わない。 二度と会えない。 ずっと一緒に居られなくて、 大切に出来なくて…… 「ごめんね、リュートさん」 最後に頭を撫でた掌をギュッと握りしめて、ドアに手を掛けた。 ここを開けたらもう二度と、戻っては来られない。 さよなら、初めて愛した人。 心の中で別れを告げて、ドアを引き開こうとして、 「うおっ…!?」 突然訪れた衝撃に、身体が背後に傾いた。 店の外から物凄い勢いで押されて、扉の陰に追い込まれる。 待っ…、なんだ?もしや強盗!? 慌てて這い出すと、そこにはひとりの女性が息を切らして立ちはだかっていた。

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