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バカだから[1]
【悠Side】
まだぬくもりの残る膝の間を見下ろす。
するりと腕から抜けだした感触が、信じられずに……いや、余りに想定から離れていて、その場で固まったまま暫く動けなかった。
実家に行こうと誘えば、皐月は「行く」「行きたい」と、即答するものと思っていた。
少なくとも、「行ってもいいの?」と前向きな返事をくれるものと……。
甘えていたのだろう。
愛されていることに、無意識に寄りかかっていたのだろう。
少し考えれば分かることだ。
俺の実家は、皐月の実家とは違う。
どんなに皐月が素晴らしい恋人でも、歓迎される環境が整っていない。
俺自体が、母親に認められていないのだから。
そんな処に、好んで行きたがる訳がない。
傷付く為に一緒に行ってくださいと、信頼する恋人に言われたのだ。
余計なことで頭を悩ませてしまった。
先程の申し出は忘れてくれと、そう伝えよう。
夏木とリュートが挨拶に行きたいのならば、俺一人がそれに付き合えばいい。
皐月は……ベッドルームか?
目星を付けてドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
わざと閉めきっているのか…。
部屋を出る時に遮光カーテンは開けたから、この時間ならば陽が入りそれなりに明るい筈だ。
明るくされることを嫌がるかも知れない。
目を凝らすと、ベッドに座り込む影が見えた。
部屋は暗いままに、隣に腰を下ろす。
「皐月…」
その体を抱き寄せようとして、皐月が震えていることに気付いた。
室内は寒くなどない。
静かに声も立てずに、泣いているのだ。
「皐月、おかしな事を言い出して、」
すまなかった、と伝えるはずだった言葉は、
「ごめんなさいっ!」
皐月からの謝罪の言葉に打ち消された。
「いや、お前は悪くないよ。さっきのことは…」
「俺っ、バカだからわかんなくて…っ」
馬鹿だから分からない───?
どういう事だ?
ただ行きたくないのならば、そんな言い方にはならないだろう。
俺の生い立ちを複雑だと思い込んで、理解ができないと言っているのか?
だから、会いに行けないのだと謝罪している───?
───いや。
考察したことを口には出さずに首を振る。
そうだ。皐月の頭の中は、俺などでは計り知れない宇宙だったな。
例えば「0」が答えになる式を作りなさいと言う問いに、俺はまず「1-1」を思いつく。そして、「1があれば出来るだろう」と答える。
それに対し皐月は、様々な式を通って最後に漸く「×0」で答えに辿り着くような、複雑な計算式を唱えるような子だった。
いや、もしかしたら計算の途中で「0」にしなければならない事すら忘れて、どうしたら式が終わるのかと悩んでそして、諦めてしまうような……。
だから俺は、答えを「0」にするのだと教えてやる。
そうすると、正解を導き出せたわけでもないのに、皐月は安心して、笑うんだ。
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