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母親[2]
【悠Side】
香島小雪と言う。
皐月の母親の美雪さんとは一文字違いだが、その差は歴然だ。
愛情深く夫と息子を愛し愛される母親と、一人の人間しか愛さずにそのたった一人の一番にすらなれない憐れな女と。
全身で愛されている皐月と、興味すら持たれていない俺と。
俺は皐月に愛されることで、この女に勝ったつもりでいるのかも知れない。
「座る必要はない」
長居をするつもりはないから、そう告げる。
「煩い、こっち」
麗 に手を取られ座敷席へと引っ張りこまれ、靴を脱がないまま畳に腰掛けた。
皐月と夏木は女将に大きく頭を下げ、逆にリュートは避けるように顔を背け、俺の後を追ってくる。
「リュート」
女の声がした。女将の声だ。
リュートは立ち止まって、しかし振り返ろうとはしない。
「貴方は久しぶりに顔を見せたと思ったら、挨拶ひとつ出来ないの?そっちの子達も頭は下げてたわよ」
「…ご無沙汰してます」
俺も挨拶はしていないつもりなのだが、どう言った理由なのか…。
そう言えば彼女とリュートの母親は、姉妹だというのに仲が悪かったな、と思い当たる。
「あのっ!」
夏木が庇うようにリュートの前に立ち、女将に頭を下げた。
「私は夏木功太と申します。リュートさんと真剣にお付き合いをさせて頂いております」
「そう。それで?」
「一生涯、大切にするつもりです。ですから、リュートさんのお母さんが亡くなられた時に、見捨てずにいてくださった貴女に、御礼を伝えたくこちらへ参りました。リュートさんを育てて頂き、有り難うございました!」
関心を示さない女将に、先程よりも深く頭を下げる。
「……育てたのは、母と悠でしょう?私は関係ないわ」
もう呼ばれたのは何時ぶりが覚えてすらいないが、流石に名前は覚えていたか、と妙な事に感心した。
「それでも、貴女がお金を出してくれていたから、リュートさんはここまで生きてこられました」
夏木の言葉に、女将ではなくリュートが反応を示す。
「功…太……」
リュートの見つめる先で、夏木は四度目のお辞儀をした。
「話を聞いて頂き有り難うございました。私達はこれで失礼致します」
夏木の手が、リュートの肩に掛かる。
リュートは頭を下げ、促されるように出口へと向かった。
「夏木」
引き戸を開ける手前で、振り返った夏木に車のキーを投げ渡す。
「有り難うございます」
今度こそ戸を開いて、夏木はリュートを連れ店を出て行った。
感心したように夏木を見送っていた皐月が、ツイと服の裾を引いた。
見上げてくる瞳に、気持ちを悟る。
自分も挨拶していいか、と訊いているのだろう。
少し夏木に格好つけられすぎただろうか。
「皐月はいいよ」
俺から紹介するから、と思いを込めて見つめると、皐月は小さく「はい」と頷いた。
夏木を見習って───では格好悪いだろうか。
しかし、アレを見せられては自分も大人にならざるを得まい。何時までも子供でいる方が余程格好悪い。
「ご無沙汰しております」
頭を下げると皐月も、「はじめまして」とそれに続いた。
ああ、こんな時もいい子で可愛い。触れた指先をきゅっと握りしめる。
「…その子が、麗の言ってた貴方の恋人?」
「はい」
妹は、育てられていないくせにこの母親が好きで、昔からこの店によく遊びに来ていた。
今も地元から出ずに実家暮らしでいるのは、母親と少しでも一緒に居たいから…なのかも知れない。
「広川皐月と申します。よろしくお願いします」
皐月が頭を下げる。
「…そう。悠、座敷じゃなくて、カウンターに座りなさい」
女将は背を向けて、カウンターへ戻っていった。
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