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たった一人
「何アレ、吐くとかって?イヤミな感じ」
吐き捨てるように、アイドルが言う。
「マネージャー、私帰る。車回して」
「……調子に乗ってんなよ…」
「はあ?調子に乗ってんの、そっちなんじゃないんですかぁ?私に会いたくて急いで帰ってきたんじゃないの?あ、そだ。サインあげようか、オジサン」
「サイン…な……」
この女じゃ話にならない。
マネージャーと呼ばれた男に視線を移す。
「サインじゃなくて、名刺を頂戴できますか…」
怒りで声が震える。
男は嫌そうな顔をして、それでも名刺ケースから1枚取り出して差し出してきた。
それを片手で受け取ると、逆側の手で名刺ケースも奪いとる。
渡された名刺をチェックして素早く胸ポケットに仕舞いこみ、中に大量にストックされてる名刺とを比べる。
「では確かにお名刺、頂戴致しました」
そこから1枚を抜き取って、それも胸ポケットにしっかりと仕舞った。
男は苦虫を噛み潰したような顔になる。
手持ちの、他人の名刺を渡すとか、社会人として有り得ない。卑怯な男。
タレントがタレントならマネージャーもその程度の質ってことか。
「アンタもマネージャーならタレントの暴行に目ぇ瞑って、あまつさえ協力までしてんじゃねーよ」
胸にドン、と名刺ケースを押し付けて返す。
「それからお前!」
素知らぬ顔で出て行こうとしているアイドルに指を突き付ける。
「あの綺麗な人に触れていいのは、この世でたった一人きりなんだよ!二度とあの人の目の前に現れんじゃねえ、ブス!!」
「はぁあっ?!誰が───」
「ゆかりっ!帰ろう!」
そんな暴言、生きてるうちに吐くなんて、想像もしなかった。
紺色のスーツの男に押し出される綺麗な衣装をまとった女の子。
テレビの中では邪気のない笑顔を振りまいている、綺麗な顔のアイドルを見送って、
俺は───床に崩れ落ちた。
悲しくて、悲しくて、涙が溢れて止まらない。
ヒドイことをされて傷付いたリュートさんに、
大切な人を傷付けられた夏木に、
そして、相手がヒドイことをしたからと、怒り任せに罵ってしまった俺の残酷さに………
張り裂けてるんじゃないかって思うほどに、胸が痛い。
自分の中からドロドロとした汚いものが溢れ出して止まらない。
残酷な、俺の醜い気持ちが、喉に詰まってしまったのかも知れない。
息が…苦しい……
うまく息が出来ない───
俺はいつも、皆から言われるんだ。
そんなに世界は綺麗じゃないって。
そんなおキレイな考え方をしていたら、こんな世界では生きてはいけないだろうって。
だけど俺は、そんな世界があってもいいんじゃないかって。人が人を傷付けない世界があってもいいんじゃないかって、そう思っていたんだ。
それは、テレビの中で輝いている人や、それを支える仕事をする人……誰もに否定されなきゃいけないほどの綺麗事だったんだろうか───?
「ひぅっ、…ゆ、さぁん…っ、ゆーさんっ…!」
───たすけて、悠さん……!!
どうしたらいいのか、わからないんだ。
俺の考えが間違いだって認めれば、楽になるの?
俺から溢れだす汚いものを飲み込んで咀嚼してしまえば、世界に馴染んで生きていけるの?
すべての人が優しい世界なんてある訳無いんだからって、夢に篭って意識を殺せばいいの?
そこに答えを見出だせなくて、弱い俺は助けを求めることしか出来ない。
嗚咽を漏らして俺は、悠さんが来てくれるまでただ只管に、その場で泣き崩れていた。
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