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ひとのかたちをしたやさしさ 1

人はなんてあっけないのだろう。 さっきまであんなに威勢よく怒鳴っていたのに 昨日まであんなに力強く殴ってきたのに 今はもう何も言わない。 動きもしない。 人の形すら、 少し嫌な夢を見て、ツツジは目を覚ました。 見知らぬ天井と身体を包む暖かな温度に、夢であったことにホッとしたのも束の間 夢ではなかった出来事を思い出して身震いをする。 叫び声と共に落下していった馬車。 身体を起こそうとして、足に違和感を感じる。 自分の足なのに自分のものではないような感覚だった。 いつも通りに力をうまく使えない身体をなんとか引っ張り上げ、上半身を起こした。 正面に大きなガラス窓があり、その向こうには美しい青空と緑が広がっている。 部屋の中は暖かく、その正体は静かに燃えている暖炉のようだ。 パチパチと炎が揺らめいている。 部屋はベッドと一人がけのテーブルと椅子、小さなクローゼットが置いてあり奥の方には洗面台も見える。 綺麗に貼られた落ち着いた色合いの壁紙や、控えめなりにセンスの良いシャンデリアなど上等なものばかりで ツツジにとっては豪邸だった。 窓があり陽が差す部屋というだけでSランクである。 「ここって天国だったりする?」 壮絶な記憶から一変し、穏やかな世界にツツジは苦笑した。 馬車の落下を見送った後の記憶は曖昧だ。 確か酷く寒くて、気持ち悪すぎて一歩も動けなくて。 珍しく過去を思い出そうと頭を使っていると、部屋の扉が静かに開いた。 「あ、起きてる」 開いた扉から二つの顔が覗き込んでいて、ツツジはそれを凝視した。 茶色い髪の青年と、黄緑色の長い髪の子ども。 子どもは部屋に飛び込んでくると、青い瞳を輝かせて微笑んだ。 「え、あぁ…えっと…?」 ツツジは戸惑いながら二人を交互に見やった。 確かに物覚えは悪いがこんな個性的な髪色の子どもは見た記憶がない。 「元気か」 「え?」 「元気か元気じゃないかどっち」 「…えーと…まあ元気な方ですかね…」 青年に無表情に問い詰められ、ツツジは反射的に頷いてしまった。 何をもって元気なのかは自分でもわからなかったが、少なからず最後の記憶の時ほど死にそうではなかったもので。 「よし。なら僕はもう必要ないな」 青年は頷くと、部屋に入ってきた。 彼の身につけた紺色のボイラースーツとブーツは随分と年季が入っており、 クラシカルな部屋には少々ミスマッチだった。 一人がけのテーブルの上に食器の乗ったトレーやカゴを置くと 青年はさっさと部屋を退出した。 「蜂蜜、扉は開けておくからな」 そう言い残し本当に開けっ放しで男は去っていってしまい 不思議な髪色の子どもと二人きりにされてしまった。

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