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第2話

「そういう対応は困るんだよねえ。君さあ、うちで働いて何年よ?」 「…二年です」 辱めるように彼女は声を大きくする。その様子を見て周りの同僚達は目配せするのだ。本来職場というものは協力し合い仕事に取り組む場所であるべきだが、ここは違う。 「君より後に入った高校生や大学生の方がよっぽど仕事してるよ。容量悪すぎない?」 その反省会は強制参加だ。閉店後店のテーブルで従業員達がその日の評価をし合う。透にとっては実に馬鹿らしい時間。 「今月で何件クレームが入ったと思ってるの?」 家から近いこのレストランで働き始めて約二年、確かに透は人より覚えも悪い。学もなければ人徳もないことは自覚済みだ。しかし他の同僚達が毎回おかしなクレーマーを押し付け、透だけの責任にしていることを目の前の店長は知らないらしい。 「…すみません」 「口だけならなんとでも言えるよ。それにその前髪どうにかならないの?背筋も降り曲って根暗で不潔」 言う必要のない誹謗中傷に、緩んだ彼らの口元は今にも笑いだしそうだ。透が傷つけば傷つく程彼らの心は満たされる。これは反省会などではなく、透をストレスのはけ口にする会であるのは確かだろう。 「とにかく今回のクレームは本部に連絡が行くと思うわ。責任取りなさいね。あとこれ、一から見直して」 ばん、とテーブルに叩きつけたマニュアル表は、接客とは何たるかが並べられた初心者用だ。 『あの歳でバイト?』 『ああはなりたくないよね~』 『良かった~、うちはまともで。』 彼らの声が発せられずとも聞こえる。これは妄想などではなく、以前彼らが影で口にしていたことだ。 透はただひたすらテーブルの木目を見ていた。背後で流れるピアノだけが透の心に寄り添うように優しい。ただ静かに耐え忍ぶ、…生きていく上で困らぬように。 辺りはすっかり日も陰り、街灯の細い明かりに集る虫達を避けながら帰路についた。オンボロアパートの剥がれかけた外壁が見えると透の呼吸は浅くなる。 (…帰りたくない) 死体を埋めた後透は家には帰らず、ネットカフェに数日居座っていた。その部屋に帰ればまだあの白濁した瞳が覗いているのではないかと嫌な想像が働いて、なかなか足が向かなかったのだ。しかし流石にこれ以上ネットカフェ生活を続けるのは金銭的にも辛い。 カンカン、と階段を重い足取りで上るとすぐに現れた人影に透は大きな溜息を吐いた。そいつは人の家の前で膝を抱えて三角座りし、うつらうつらと船を漕いでいるのだ。 「えっと、守屋さん…?人の部屋の前で何してるんですか?」 「ああ、おかえりなさい。」 守屋は半開きの目を擦りながらビニール袋を掲げた。そこには透がよく飲む缶ビールが複数本入っている。ワイシャツにきちんと結ばれたネクタイ、彼は仕事終わりにわざわざ待っていたのだろうか。 「一緒に飲みませんか?」 屈託のない笑顔に透は喉がぎゅっと絞られるような息苦しさを覚えた。あの日の記憶が鮮明に思い起こされ、生暖かい風に寒さを感じるのだ。「気持ちは有難いんですが…」その言葉を遮るように守屋は透の目の前にそれを突き出した。 「おつまみも仕入れましたよ。」 守屋が袋から取り出したのは、数日ほど前テレビで特集されていた高級おつまみ専門店の厳選珍味セットの箱だ。 「…あ!それ!数量限定で朝一で並ばないと買えないんじゃ…」 「よくご存知で。会社の同僚に貰った物です。一緒に食べましょ?」 厳選珍味セットはとても魅力的なアイテムだ。しかし死体を埋めた仲間同士で自宅飲み会などという常識から逸脱した行為に透は当然乗り気ではない。 「…それ、俺じゃなくてもいいじゃないですか。他の友人とかを誘ったらどうです?あんたなら沢山いるでしょ」 「ううーん?僕達はもう友達じゃないんですか?それに誰でもいい訳では無いです。」 ビニール袋の擦れる音までも落ち込んで聞こえるのは透の思い込みだが、目の前の男は明らかに肩を落としているのは違いない。 (…そこまで落ち込むことか?) そう思ってしまえば守屋の手のひらの上だ。透はそれに気が付かず、つい彼の望む言葉を引き出される。 「い、嫌という訳では無いけれど…」 「本当に?…無理をさせたい訳じゃないんですよ」 仕方がない、この機会を逃せば食べることは出来ないだろう。一人で部屋に帰ったところで嫌な思いをするのは変わらない。ならば美味いつまみを食べながら嫌な思いをする方が幾分かマシではないか。透は落ち着きのない両手を後ろで握る。 「俺の部屋、何も片付けてないので匂いが…と思っただけです。」 透は唇を無理やり引き上げた。しっかりと『死体を思い出してしまうから関わりたくない!』と言える性格だったなら、あっという間にこの話は終わりのはずだ。 「…も、守屋さんが構わないなら…」 その部屋に入るのは勇気がいった。自分の部屋だというのに、その嗅ぎなれない独特な匂いが微かに漂っている。ぱちん、と電気を点けて明るくなった部屋はやはり汚い。足をひょこひょこと上げながら、換気のため窓を全開にする。また蛾の白い腹がもぞもぞと蠢き、透は思わず顎を引く。 「適当に座ってください。…散らかったままですけど」 透は人が座れるよう、テーブルの周りのゴミを腕をブルドーザーのようにして部屋の隅に寄せた。 守屋は言われるがまま畳に腰を下ろす。もちろん座り心地は良いものではないだろう。そそくさとテーブルのゴミを台所のシンクへ放り投げてスペースを確保することに成功した。 「君の部屋はやっぱりとても面白いね」 とケラケラ笑う男の感性はズレているようだ。 守屋は缶ビールやおつまみをテーブルの上に均等に並べる。透は彼の向かいになるよう腰を下ろした。 「さあ、飲みましょう。おつまみもどうぞ食べてください」 彼は手際よくおつまみの封を切り、乾杯するつもりか缶をずいっと透へ向ける。 「今日も一日お疲れ様、乾杯」 「か、…乾杯」 顎を上げて流し込む酒に美味いも不味いも分からない。ただ蒸し暑い部屋で生ぬるい酒をあっという間に飲み干して、空き缶をぐしゃりと潰した。そして当たり前のように部屋の隅へそれを投げると、守屋は楽しそうに目を細める。 「いい飲みっぷりですね」 「…酒、好きなんで」 「それは良かったです。」 嫌な事を忘れるにはちょうど良い薬だ。だが今日は少し調子が悪いようで、早くも胃がキリキリと痛み出す。これは悪酔いする兆候だが、二本目に手を伸ばす。 「ところで最近家を空けていたようですが、何かありました?」 「あー、…やはり色々思うところがありまして」 「思うところ?」 本当に分かっていないのか、それとも透が話すことを待っているのか。その長いまつ毛は簾のように俯き本心を探らせない。 「よければ話を聞きますよ」 心の内を人に話すことはとても難しい。それは透が『他人は嘘つきで信用出来ない』と考えているからである。どんなに見てくれが美しくとも中身がそうとは限らない、それは痛いほど身に染みている。 「大丈夫、君が僕に対して話しても良いと思える範囲で話してください」 守屋はなんの躊躇いもなくその冷たい手の平を強ばった透の拳に重ねた。その距離の詰め方に驚いた透が思わず手を払い除けると、缶ビールが肘に引っかかり勢い良く中身を溢れさせる。彼のシャツとズボンにはビールの染みがあっという間に出来上がった。 「ああ!!す、すみません!」 実に情けない悲鳴を上げながら、透はふらふらしながらタオルを洗面所から引っ掴み、それを守屋に手渡した。彼は動じることなく衣服の水分を拭き取り、その後にテーブルに慌てることなくタオルを被せた。 「本当にすみません!クリーニング代は払います…」 「いいんですよ。この服に愛着は無いので。それに僕が君を驚かせてしまったのだから気にしないで。」 守屋は恐らく本心からそう思っているのだろう。しかし、透が着ているような安っぽい服とは違う。恐らくどこかいいブランドのスーツに違いない。 「…そうは言っても…とりあえずこれ着てください。」 透はまだ袖を通していないTシャツとスエットパンツを守屋に手渡した。彼は「ありがとう」と礼を言うと、さっさと服を脱ぐ。青白い肌は白熱灯の元で更に血の気がなく、本当に生きているのかと不安になる程だ。透が彼は脱いだ服を丁寧に畳んで、またゆっくりと腰を下ろした。 「僕には少し大きいけれど、着心地のいい服ですね。」 「安物ですけど…それより服はクリーニング出しとくんで貰っておいていいですか?」 「別にいいのに。でも君が変に罪悪感を拗らせてもいけないのでここは言葉に甘えさせて貰いますね」 守屋はそう引き下がる。金銭的には辛いところだが、ここで守屋が汚れた服を持って帰っては後悔することは間違いない。 「おつまみ食べません?このわた、鮭とば、後はからすみもありますよ。あとナッツも買ってきてあるんです。飲みを再開しましょう」 どん、必ずそう音を立てて現れる。 (ああ、またか) 悲鳴のような耳鳴りと、男の唸り声のような低音が入り交じる空間から、体を引き摺るようにこちらへと向かってくるのだ。それは薄闇の中では黒い大きな毛玉から手足が生えているように見える。だが足先から徐々に上ってくるそれは、毛玉などではなくボサボサの髪と血で黒ずんだ顔だ。捩れた腕でしがみつきながら透の胸元までやって来ると、ぶくぶくと血の泡を吐いて荒い呼吸を繰り返す。 『…どうして?…私を助けてくれなかったの?』 ここは自分の部屋の布団の上。まるで磔にされたように固まった体はいつも目玉だけ動かせる。勿論見ないという選択も出来るが、透はそれを選ばない。 『私、を見捨てたの?信じてたのに』 ただ息が詰まり、それにかける言葉を見つけられぬ自分が腹立たしい。 (俺は助けたかった。でも出来なかったんだ) 発することの出来ない声は彼女には届かないだろう。曲がった指で、透の存在を確かめる。冷たく硬い、これこそ死者そのものである。絡まった髪が額に触り、透の背筋は泡立った。 『痛いよぉ、痛い、助けて、』 彼女は抉れた目で訴えかける。ドロドロとした液体が透の顔を覆い尽くした。それは焼けるように熱く、凍えるように寒い。 (ごめん、ごめん…ごめん俺のせいで、ごめん…) 精神の肉をすり減らしながら、透は呪文のように繰り返す。 ほんの数分か、それとも数時間か、悪夢の中では曖昧だ。その意識が薄れて、ある時ぱちんとチャンネルが切り替わる時がある。それは開放される合図だ。 「うあ"ぁ…!…はあ、はあ、…」 再び意識が覚醒した時、全身水を被ったように汗だくになっていた。光で照らされた黄ばんだ天井、一斉に鳴いている蝉、ここは現実だ。 重い上体を起こしてそれが間違いではないことを確認する。周りには透以外誰もいない、大丈夫だ。ふっと安堵の息を吐くと、目の奥が刺されるように痛んだ。 「…頭痛てぇ」 薄汚れたカーテンは風を招き入れ、転がった空き缶を微かに揺らした。テーブルの上に整列している空き缶は、透が整えたものでは無い。いくら酔っ払っていたとしても有り得ないことだ。そして灰皿を文鎮にした置き手紙には、丁寧な文字で、 『昨日は楽しかったです。また一緒に飲みましょう』 と書いてある。守屋は酒に強いのか全く顔色を変える事無く飲み続けていた。推測するに透は彼のペースに飲まれて呆気なく潰れたのだろう。しかし一体それのどこら辺が楽しかったのだろう。不意に視線を上にあげると、時計の針は九時を回っていた。今日はクリーニング屋に寄らねばならないので早めに支度をしなければならない。 「…ああ!?しまった!間に合うか…?」 慌ただしくまた一日が始まろうとしている。彼女らにはもう無い新たな一日、それをまだ透は自覚していない。 十五時、その頃には客足も落ち着き、店内は一時の静けさを守る。常連のおしゃべりな男は可愛い女店員を捕まえて話に花を咲かせていた。 「いやあ、今朝のニュース見た?物騒な世の中になったもんだ」 「え~とあの大学生の?犯人、捕まってないんですよね~」 透はテーブルを拭きながらその会話を聞いていた。喋っている暇があるなら作業をしろ、と内心毒づく。 「実はあれ、うちの隣の部屋なんだ」 「え~!?怖い~!お客さんは大丈夫なんですかあ?」 彼らの話題はこの町で起きた猟奇殺人の話だ。どうやらあるマンションで大学生三人が刺されて亡くなっていたようだ。詳しくは知らないがネットニュースの一面に載っていたので透も小耳には挟んでいた。 「お客さんは気がつかなかったんですかぁ?悲鳴とか聞こえてたりして」 「いやぁ、それが、毎晩毎晩大音量で音楽流したりどんちゃん騒ぎだったから悲鳴や物音は分からなかったんだよ。」 「そうだったんだぁ、でも三人も一気に殺せるのかなあ」 「警察が家に来たけど詳しいことは教えて貰えなかったんだ。おい、…ちょっと、これ下げて」 男は女店員ではなく透にそう言った。先程まで鼻の下を伸ばしていた癖に、見下したように顎で使う。 (香水くさ…) 全身ブランド物を身につけふんぞり返る。透が一番嫌いなタイプだ。ここはさっさと汚らしい皿を片付け退散した方がいい。 「君さあ、幾つ?」 席を離れようとした透にその男は高圧的に話しかける。 「今年で二十六ですけど」 皿を持っているというのに男は構わず続ける。ニヤリと上がった口の端はどんなに良い物を身につけていても隠しきれないほど品がない。 「はっ、二十六にもなってバイト?まあ見るからにどん臭そうだから、どこにも採用されないか」 「ちょっと~言い過ぎですよぉ」 「でもこんなんとは付き合いたくないでしょ」 「まあそうかも」 ゲラゲラと笑う彼らの声は聞こえているようで聞こえない。きっと透の脳みそが遮断しているのだろう。彼らは分かってやっている。透のような人間は逆らわず自己主張せず、とても殴りやすい事を。 「何?なんか言いたいことでもあんの?」 「…いえ。」 それに男の言葉はあながち間違ってはいない。学もなく根暗で男なのにフリーター、言い返したくともなんと言えばいいのかすら思い浮かばない。男の言葉よりも自分の情けなさに悲しくなった。 「じゃあさっさと運べよ。邪魔。」 透はようやくその場を離れることを許された。背を向けた透に聞こえるように「あんな根暗なのと一緒に働くの辛くない?」と続けた。 (俺の尊厳なんて無いみたいだ) 透は俯いたまま、それを洗い場に戻しに行く。何故傷つけ踏みにじった男の食い散らかした皿を自分は文句言わず運んでいるのだ、たった数千円のために。 そこには他の作業をしている同僚達がいる。だからと言って彼らが励ましや透の考えに同調してくれる訳でもない。目線を逸らし、『関わりたくない』とその場から離れた。滲んだ涙をこっそりと袖で拭うことが出来たのは幸いだろう。 (守屋さんならどうしたかな…) ふと頭に浮かんだ涼し気な顔はきっと何にも動じることなく毅然としているのだろう。文句を言われたところで傷つくことも無さそうである。そもそも彼は透のようにバイトで食いつなぐような生活はしていない。それは彼が着ているものから簡単に推測できる事だ。守屋が誰かにとやかく言われる事は有り得ないのだ。 (でもあの人なら…) 『大丈夫』 そう言ってくれる気がした。 散々な一日はようやく終わる。一つだけ良いことといえば帰りに寄ったクリーニング屋のおばあさんがお菓子をくれた事くらいだ。余程顔色が悪かったらしい。 車のエンジンを停止させ、モタモタとキーを抜き見慣れたボロアパートに肩を落とす。透は現場で暮らせるほど図太くは無いし、かと言って引っ越す金も無い。 (…殺した後は全てから解放されると思ってたのにな) 思えば彼女を殺してからもうすぐ一週間経とうとしている。それが済めば悪夢から目覚める事が出来ると思っていたが、誤算だった。 (あれ、居ないのかな) 透は隣の部屋に灯りが着いていないことを確認し、ほんの少し心に空白を感じる。普段ならば誰かにそう感じることは殆ど無いのだが、余程今日は精神的に不安定なのだろう。一人でこの汚部屋に帰ることを拒んでいる。 (…これ、ノブに掛けとくか) 紙袋を守屋の家のドアノブに下げた時、『ドスッ』と扉の向こうから奇妙な物音が聞こえた。 「…いるのか?」 透は耳を扉に近づけ中の様子を伺う。虫の鳴き声と、時々聞こえる足踏みしているかのような音。ドス、ドス、と不規則なそれは一分ほど経った頃には聞こえなくなっていた。 何だか嫌な予感がする。何が、とは分からない。このまま何も無かったことにして部屋に戻ることが最善であることは確かだ。 「…守屋さん…?いるんですか?」 そう声を掛けても反応がない。開かないだろう、そう思って透はドアノブに手を添える。だが不用心にもそれは簡単に回った。何度も自分に『止めておけ』と理性は警告するが、まるで惹き付けられるように透は開いた。 玄関、そこには一足の革靴が綺麗に踵を揃えて置いてある。透はあまり良くないと思いながら自身も靴を脱ぎ、部屋に踏み込んだ。狭いワンルーム、構造は透の部屋と同じだが暗い室内は家具など一切ない。だからか、その部屋の隅、壁に寄りかかった人影がより一層濃く目に映る。 「守屋さん、すみません、変な音がしたので勝手に…」 一歩前に踏み出すと、畳のはずだ。しかし透の足の裏が踏んだのはビニールのような感触だ。それに鼻をツンと刺すような匂いがこの部屋に充満している。冷静に、もう一度よくそれを見てみる。放り出された足、脱力した腕、そして何か袋のようなものを被った頭。 「…あ、」 違う、それは生きていない。 心臓が破裂するのではないかという程鼓動が刻む。手足が痺れ、半開きの口からは微かな悲鳴も上がらない。先程までうるさかった虫は全部死んだのか?という程音がない。悪夢の続きのような耳鳴りが左から右へと伝染していくのだ。 透は縺れた足をするように後退させたが、すでに遅かった。静かな足音が左手からやってきたのだ。 「あれ?…透くん?ですよね?」 安心感のある優しい声に透は答えることも出来ない。もしそうだと言ったとして、彼が透を殺さないとなぜ保証できる? 守屋は何も答えない透に「電気つけますね」と一言断ってから部屋の明かりをつけた。 「ああ、やっぱり透くんじゃないか。驚かさないで下さい。」 洗面所で手でも洗っていたのだろう、ハンカチで丁寧に指の付け根から先を拭いている。勝手に入ったことに怒る様子もない。 「まさか君から訪ねてくるなんて、分かっていたなら部屋を片付けておいたのに…」 部屋が明るくなったことでハッキリとした。やはり壁に凭れているそれは死んでいる。スーパーのレジ袋を頭から被され、口を麻紐で縛られている。顔は分からないが服装からして男性だろうか。匂いの原因はズボンに滲む失禁のせいだ。 床には全面ブルーシートが敷かれ、直接畳に汁が染み込まないよう配慮してあるが、透にはその光景が地獄にしか見えない。 「な、なにしてるんですか」 歯ががちがちと震え噛み合わない。そんな中でようやく発した言葉は守屋の異常さを際立たせるだけである。 「救急車、呼ぼうと思ってたんですよ」

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