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第3話

五年前のある日。久しぶりに実家に帰った透はまだ前向きな瞳で生き生きとしていた。外は冷たい空気で枯葉を巻き上げる季節の事。 「最近どうだ?」 「ぼちぼちかなあ、何とかやっていけてる感じ。」 透の家庭は父子家庭だった。母親は透が十歳の時男を作って蒸発した、よくある話である。それから父と六歳年下の妹と暮らしてきた。辛いことも多かったが、それよりも幸せだった。自分の生い立ちを不幸に思うこと無く過ごせたのは父の努力の賜物と言える。 「あれ?明は?」 「部屋に篭ってる。…最近は口も聞いてくれない。喋ったとしても暴言ばかりで」 「ふーん、そうなんだ。」 当時十五歳の彼女がそのような行動に出ることは珍しいことではない。透には反抗期らしいものが無かったからか、真面目な性格の父は対応しきれていないのだろう。 「でもそんなのよくある事じゃない?そのうち良くなるだろ」 その答えがあまりしっくり来ていないようで、彼は口を横にきゅっと閉め、視線を泳がせた。眉間に深く刻まれたシワはどれ程の苦労を耐えて来たのだろう。 「…実は最近財布からお金が無くなってる事があってな…。小遣いは父さんができる限りやってるんだが」 「…それほんと?」 「それどころか最近おかしな連中と連んでいると榊のおばちゃんから聞いてな。暴言だけならまだしも人様に迷惑かけているようでどうしたらいいのか…」 家を出てから変化があったようだ。透はあまり頻繁に連絡する人間ではない。だからか、明るくて優しい妹が暴言を言うこと自体信じられない。 「…俺が話してみるよ」 「明?入るぞ」 許可が降りる前に透はその部屋を開ける。何ともデリカシーが無い行動だ。だがそれは以前の彼女が許していたからとも言える。 「兄ちゃん…、勝手に開けないで」 勉強机に背を向けたまま、彼女はそう呟いた。そしてゆっくり振り向くと、不機嫌そうに口を曲げている。 「ああ、ごめん。…話があるんだけど…見ないうちに雰囲気変わったな」 昔の彼女は絵に書いたような女の子だった。可愛いものが大好きで、長い綺麗な髪をいつも透に結わせていた。取り柄のない透はそのおかげか髪を結う事は得意になったのだ。 …しかしそれが今はボサボサで不揃いの髪、明るく活発だった表情には暗い影が落ちている。落ち着かないのか彼女はキョロキョロと目玉を動かして、また背を向けた。 「勉強するから。…あっちいって」 半開きのクローゼット、しわくちゃの制服。窓際には枯れた花がそのまま放置されている。床には文房具等が散らばり、少し足を踏み出せば何かにつま先がぶつかる状態だ。綺麗好きだったはずの彼女の部屋とは思えぬ程そこは雑然としている。 「明、お前親父の財布から金盗んでるんだってな」 開口一番に本題に入るべきではなかった、そう思いつつ彼女の反応を確かめる。彼女は最初こそ肩をビクリと強ばらせたが、それ以降はなんの反応も示さない。 「…」 「何故そんなことを?」 「兄ちゃんには関係ないよ」 「…関係なくないだろ」 「…」 暴言を吐くことは無いが、どこか魂の抜けたような姿は兄としては心配だ。 何かそうなる理由があるのなら、できるだけ解決したいと思っている。だが彼女は頑なに心を閉ざしたまま、細い首を曲げて俯いたままだ。 「…何か必要なものがあるのか?俺も協力するから」 父には言えないものが必要なのだろうか、透は良かれと思ってそう口にしたが、彼女は急に「そんなんじゃない!!」と声を張り上げ机を拳で叩いた。 「…何怒ってるんだ?一体どうしたんだよ」 「うるさい!!」 苛立ちに支配された彼女はペンケースや本を透に向かって投げる。恐らく父にも同じようにしているのだ、部屋が散らかっているのは物を投げつけてそのままだからだろう。 「ただ友達と遊ぶお金が欲しかっただけ!!」 「その友達って変なやつじゃないだろうな?俺は心配で…」 「誰も頼んでない!!」 その態度に冷静に対応しようと思っていた透も腹が立ってくる。まだ成人して一年ほどしか経っていない透も大人とは言い難い。それに彼女は冷静さを失っているのだ、次々浮かんだ暴言を透に吐き捨てる。流石に透も「いい加減にしろ!」と声を張り上げる。だが感情に感情をぶつける事は得策ではない。むしろ焚き付けてしまう。 「出てけ!!」 感情に任せて彼女は手に掴んだ手鏡を振りかざす。それが手から離れると、透の額に直撃して散らかった床に落ちる。蜘蛛の巣のように亀裂が入った鏡は不吉に透の姿を歪めた。 「いつからそんな乱暴者になったんだ?…何があるのか知らないけど、余程大層な事なんだろうな。」 「…あ…」 「…これだけは言っとくけど反抗期だからといってどんな行動も許されると思わないようにな」 透は額を抑えながら部屋を後にする。透を攻撃したことへの罪悪感か、彼女はそれ以上何か行動することは無かった。思春期ならこのような事があるのだろう、透はそう言い聞かせてこの問題を自己完結させた。多少面倒な所があったのかもしれない。そのうち収まって元通りの妹になるものとした。 だが今になってわかることは、その時にもっとちゃんと彼女の話を親身に聞いていたならば、一生の後悔を背負わずに済んだということだ。 何が悪で、何が正義か。何食わぬ顔で作業する男にはそのどちらの概念も欠如しているのだろう。 守屋が死体の頭に被せてあった袋を取り外すと、口を開け目を剥いた形相が顕になる。どこか見覚えのある顔に、透はハッと息を飲む。恐る恐る片目だけで確認すると、それは紛れもなく今日透をバカにしたあの客だ。 「なんで…」 男に言われた暴言が再び透を襲う。その声だけでは無い、ざわついた脳みその中で彼らは否定し続ける。透の自信を削ぎ落とすのだ。それはどんなに耳を塞いでも止むことは無い。 『あの人って根暗だよね』 『なんか気持ち悪い』 『鈍臭い奴』 イントネーションまでも鮮明に繰り返される。嘲笑の隙間から聞こえる声に透はいくら吸っても満たされぬ肺を懸命に広げた。 『お前はなんの取り柄もない愚図だ』 様々な記憶の罵倒が飛ぶ中、自分と同じ声がそう呟く。それは段々とどの声よりも音量を上げるのだ。 『お前のせいで皆死んだんだ、だからお前も死ね』 強い言葉は他人から与えられたものでは無い。 『なぜ俺だけ生きているのか?』 『俺は生きてる価値が無い』 理性ではそんな言葉は考えつくなとするが、透の頭の中はその言葉で満たされている。自分自身で発しているのだ、どこにも逃げようが無い。 「透くん?」 長いまつ毛が触れるほど近く、その澄んだ瞳がこちらを覗き込む。いつの間に距離を詰めたのか、その整った顔が迫っているのだ。 「…わぁ!」 声を上げ仰け反った透はバランスを崩しどすんと尻もちを着く。そして生ぬるさの残る肉の感触が左の手のひらを伝って、透は飛び上がる。守屋はその様子が面白かったのだろう、腹を抱えて笑っているのだ。 「ち、ちょっと何がそんなにおかしいんですか」 涙を流すほど面白いことなど無いはずだ。守屋は自分を落ち着かせるためか数回深呼吸して、涙を手の甲で拭った。 「ごめんごめん、あまりにも君の情緒がおかしかったので。」 「…あんたがいきなり近づいてくるからですよ」 「何か思い悩んでいるようだったので励まそうと思ったんです。」 顔を近づける事が励ましになる、その考えは守屋だから思い浮かぶことなのだろう。女性ならイケメンの男に迫られて嬉しいのかもしれないが、透は驚くだけだ。 守屋は手に握られたビニール袋を丁寧に折り畳み、パンツの脇ポケットに仕舞う。人を殺した袋を再利用でもするのだろうか。 「…もしかして、この人君の知り合いでした?ごめんなさい、殺しちゃって」 透は分かっていたつもりだ。守屋という男が恐らく人を殺したことがあって、罪悪感が微塵もないことを。 「えっと、まあ…」 「そうですか、この人は君の大切な人?」 「断じて違います!この男は店の常連客です!」 透をバカにして笑うような男が大切な訳はない。声を荒らげた透を落ち着かせるように守屋は肩に手を置いた。 「…大切な人を殺してしまったらきっと君に嫌われてしまうでしょう?それは嫌だったので聞いてみただけですよ」 透基準で物事を考えているようなセリフには正直悪い気はしない。透を肯定し認めてくれる人間がいなかった事も影響しているのだろう。守屋が透へ向ける言葉はいつも優しく安心させる様なものばかりだ。例えぶっ飛んだ発言をしても、彼の明るい笑顔や振る舞いが狂気を濁らせて、おかしな魅力を生んでいる。 「その男は…嫌いだったんで」 「本当?良かった。ああ、でもそれなら君に取っておけば良かったかな」 守屋は死体の乱れた服装を直し、何が気に入らないのか死体の髪の毛の分け目を変える。「よし、」と納得した彼は押し入れの襖をがらりと開ける。そこはアウトドア用品が仕舞われていた。畳まれたテントにロープ、ランプや携帯用のコンロ。その他影になって見えないものが大量に押し込められている。恐らくそれらは健全には使われていない事は確かだ。 彼は新しいブルーシートを取り出し、それを手際よく広げる。そして死体を転がして梱包するように丁寧に包んでいくのだ。それに紐を巻き付け、最後には綺麗なリボン結びをして完成だ。 「それどうするんですか?…あの裏山に捨てに行くんですか?」 「いやあ、もうあそこは満員なので、他の場所を考えてます」 「…でもあそこは」 満員、確かあそこにはまだ何個か穴が空いていたはずだ。それを全て埋めてしまったというのか。この男は一体一日にどれ程の人間を葬っているのか。何故そのようなことをするのか興味はあるが、聞く勇気はない。 「山菜採りの人に見つかってしまって…」 「見つかったって大丈夫なんですか!?」 もし現場検証されてしまえば他に埋まっているものの事も知られてしまうかもしれない。そんな焦りでつい声が大きくなる。 「大丈夫、ちゃんと一緒に埋めましたよ。心配しないで」 「…そうですか。ならいいですけど」 最低な行いが今は透の不安を和らげる。透はこれから自己保身の塊になってしまった自分自身から目を背け続けなければならない。 「そう言えば透くんは僕に用があったんでしょう?」 「…えっと、クリーニングした服を渡そうと思って…俺そろそろ帰ります。お邪魔しちゃったようですみません」 透は無理やり糸で引っ張ったような笑顔を浮かべて玄関へと向かう。守屋は案外それを簡単に許し、「何かあったら一緒にまた飲みましょう」と透の背中に投げかける。 彼はきっとこの後死体を遺棄するのだろう。透は何も考えないように頭を左右に振り、自分の部屋に戻った。 無駄なシワなどひとつも無いシャツに選ぶのは紺に赤いラインの入ったネクタイだ。朝の心地よい風を感じるためベランダの窓を開ける。真夏の日差しはまだ弱く、木の香りと蝉の声が男の一日の初めとなる。虫の死骸が転がっていようとそれは変わらない。むしろ男の目にはそれが夏の風物詩だ。 ジャケットを羽織り、カバンを片手に日常を始めるのだ。建付けの悪い玄関の扉を開けて、ノブに下げてある紙袋に気がついた。昨晩は忙しくて忘れていた、男は嬉しそうにそれを取り、優しく玄関の内に置いておく。そして隣の部屋の扉が目に入ると、とてもふわふわとした気持ちになった。まだ寝ているのか?と想像し、今夜のことを考える。 (とびっきり楽しい一日になる、また彼は驚きそう!いや、怒るかな) かんかんと下りる階段の音に合わせて鼻歌を歌うほど今日は機嫌がいい。ぐしゃりと木から落ちた蝉の腹を踏みつけてもその気持ちは変わらない。きっと仕事も捗って、充実した一日になることだろう。 「最近流行りのハンサムな髪型ね!任せろ!」 何故潰れないのか分からぬ寂れた床屋は、昔透が中学生位まで通っていた懐かしの場所だった。パーマ液の匂いと、流行に乗り遅れた雑誌、店主好みの歌謡曲が流れるこの店に足を向けたのは、何か変わりたいという願望からかもしれない。お洒落な理容室は透にはハードルが高いのでここへ来たがそれでも少し緊張した。 レバーを何度も踏まれ、ぎこぎこと目線が低くなる。鏡に写った男は何とも根暗な印象で店主のハサミを追った。やはり昔からある店だから腕はいいのだろう。迷いが一切感じられない。 「にしても兄ちゃん随分放ったらかしにしてたね〜」 「ははは…中々自分の事に気が回らなくて」 「駄目よぉ!まだ若いんだから勿体ない!おじさんの頃には――」 店主のお喋りな口は動き続ける。それに適当に頷いてその場をやり過ごすのだ。バリカンの音が聞こえ、首が随分涼しく感じた。ふと床を見ると、黒い毛玉が大量に落ちている。自分にこんなに毛が着いていたとは。 「前髪どうする?バッサリ行く〜?暑いから切った方がいいと思うけどなあ」 フランクな彼の提案に透は迷った。自分に一体何が似合うのか分からない。視線を泳がせる透に店主は「目に掛からんくらいにしよか!」と提案する。透は彼の提案に頷いて、目をそっと瞑る。髪の毛が顔に散らばり鼻がムズムズしてくるが、じっと我慢だ。「よし!いい感じじゃないの!さすが俺!」と店主は満足気である。透は雑にタオルでゴシゴシと顔を拭かれ、ようやく目を開ける。 根暗な奴、そう言われないほどそのスタイルは透に似合っていた。襟足やもみあげがスッキリ刈られ、清潔感と涼しさを兼ね備えた最強ヘアスタイルである。それによく雑誌で見るようなお洒落な雰囲気も掴めている。 「おお、なんか自分の顔ちゃんと見たの久しぶりかも…」 「いい顔してんのに勿体ない!良かったねえウチに切りに来て!」 目の下の隈や窶れた顔、それが少し若返った気がして透は笑顔をこぼした。作りものではなくて自然と生じた喜びは、こんな感じだったのか。 (なんか…世界ってこんなに明るかったか?) 単純だが髪が妨げていた物は大きかったようだ。これであとは猫背とタバコや酒を止めれば完璧になる気がする。別人になったような感覚は透を前向きな気持ちにさせた。 ガサガサ、玄関先で奇妙な音を聞きつけたのは、その家の長女だった。夜遅くリビングで勉強していたからだろう、些細な音も聞き逃さない。なんだろう?彼女はペンを置き壁に掛かった時計を見る。深夜二時と少し、一体こんな時間に野良猫だろうか。 彼女は教科書を開いて再びペンを握る。 からん、缶を蹴るような音。彼女は(そう言えばうちの玄関にガサガサなるようなもんあったかな)と不審に思う。 「…早く寝ようかな」と一人呟いて音をたてぬよう教材を纏めて両腕に抱えた。部屋を出て廊下に出る。ぼうっと浮き上がった道の先に玄関が見えた。自室は玄関のすぐ近くの階段を登らなければたどり着けない。 何だか怖い、彼女は玄関先から何か不吉な物が廊下を這ってこちらに来るのではないか、という想像を働かせる。馬鹿なことを考えぬようつま先立ちで階段まで辿り着けば、また背後からガサガサと音が聞こえるのだ。 (…これはただの猫、それかお母さんが何か置きっぱなしにしてたかも) 恐怖はその正体が分からないから恐怖なのだ、彼女は勇敢にもその正体を確かめることにした。 異常があっては大変だ。扉を開けて見るだけ、…どうせ見えるのは道路の先のお向かいさんちの家の門だ。何も無くて猫がひと鳴きする、そうして安心して眠れるはずだ。 大丈夫と自分に言い聞かせ彼女は扉を開ける。ただ自身の不安を解消したかっただけだ。 扉を開けた彼女は直ぐに正面の門袖に横たわる青い物体に気がついた。それは人の大きさほどのもの。 (…なに?) スリッパを履いて、引き寄せられるように彼女は一歩踏み出す。また一歩、そしてまた一歩。そこに何があるのか認識できるようになるまでその足は進む。 月明かりに照らされたそれをリンドウの花が囲んだ。花弁が全てその物体に向くように、一輪一輪丁寧に置いたのだろう。彼女はそのうちの一つを手に取り、目の前の包まれた物体に視線をやる。 ブルーシートは麻紐でグルグル巻になって、ピクリともしない。しかし形は明らかに人なのだ。 「…」 そしてリボン結びされた麻紐を彼女の指先はゆっくりと解いた。

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