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第4話
「坂森さ〜ん、髪切ったんですかあ?」
「そうだけど…」
清掃の手を止めず黙々と作業する透に声を掛けたのは普段挨拶すら返さない同僚の高山だった。一見清楚風の彼女は男好きしそうな雰囲気だが、透はその汚い中身を知っているので関わりたくない。
「え〜?めっちゃ似合ってますね〜!」
「あ、ありがとう…」
体をくねくねと捻り、落ち着きの無い様子の彼女が透の名前を知っていたことに驚きだ。何時も透を見かけては他のスタッフに目配せして嘲笑している事を知らないと思っているのか?
やけに媚びたような声で近寄って来た高山はなんのつもりか透の腕にそっと触れる。透はやんわりとそれを躱し、床の埃をホウキで掻き集めるフリをした。
(なんのつもりだ?)
喉がヒリヒリと痛み出す。これはストレスの兆候だ。嫌悪感が顔に出ないように透は背を向ける。
「今日夕方上がりですよね〜?あたしもなんで、一緒にご飯行きませんかあ?」
わざわざ透の顔を覗き込むように彼女は移動する。不愉快そうな顔を見られぬ為背を向けたのに、高山は透の気遣いを察することは無い。
「えっと、予定あるので」
「えぇ〜?彼女とかいるんですかあ?」
不躾な質問に透は眉を顰める。わざわざ持ち場を離れてまでする質問では無い。どうせ高山は自分の仕事は誰かに押し付けるつもりなのだろう。そしてその誰かは透に押し付ける。
「ねぇ〜、教えてくださいよ〜」
「…仕事中だから」
「ええ?イエスかノー、一言じゃないですかあ」
ひどく面倒だ、こんな事ならば無視されたままの方がマシである。持ち場を離れる訳にはいかないが、高山が居たのでは仕事に支障が出る。ただでさえ要領が悪いのに、だ。
「高山さん、仕事終わったの?彼嫌がってるみたいだけど。」
嫌がる透に執拗に付きまとう彼女を窘めたのは、意外にも普段は透に厳しい店長だった。仁王立ちしてその眉間には深くシワが刻まれている。
「…えぇ〜?ちょっとくらいいいじゃないですか〜」
高山は動揺し、透から一歩距離を置く。彼女も店長が苦手らしい。先程までのキンキンした声がみるみる萎んでいく。
「暇そうな貴女には油の交換してもらおうかな」
「えぇ、あたし重たい作業とかできないんでぇ…」
「何?じゃトイレ掃除してきて。随分汚れてたってさっき苦情を頂いたから。…まさか掃除も出来ないとか言わないよね?そうしたら貴女何ができんの?」
店長の高圧的な言葉がこれ以上出ないよう、高山はそそくさとトイレ掃除に向かった。彼女がいなくなると、透はホッと胸を撫で下ろす。
「…ありがとうございました」
「全く、ちゃんと嫌なら嫌だと言いなさい。そんなんだから付け上がらせるのよ」
「…はい」
彼女はふうと溜息をつくと、どこかバツが悪そうに視線を逸らす。固く両腕を組み、何か言いたげだった。透はまたいつもの嫌味が始まるのだと身構えるが、今日は少し違ったようだ。
「君、今日はもう帰りなさい。」
「え?…俺、また何かやらかしました?」
今日一日は特にトラブルを起こしていないはずだ。透は挙動不審にそわそわと辺りを見渡して心当たりを探した。
「違う違う、そうじゃなくてね。…外に警察の人が来てて、坂森くんに話があるそうなのよ」
周りに聞こえないよう店長は声を潜める。訝しげな表情を浮かべ、こっそりと教えてくれたのは、透もよく知るあの事件の事だ。
「…よくここに来てた男性のお客さんいるわよね。スタッフとお喋りするのが好きな。あの人が亡くなってたそうなのよ」
「…そう、ですか。…でもなんで俺に?」
ドロドロと背中の毛穴から汗が吹き出る。目は干上がったように乾燥し、瞬きする度眼球が擦れて傷つくようだ。
「…詳しい話はその人達にしてね。掃除用具は元の場所に片付けておくから」
彼女は透からホウキとちりとりを取り上げると、「お疲れ様」とさっさと片付けに行ってしまう。
「…はい、お疲れ様でした」
透は殺していない。ただその死体を見ただけ。いくら疑われようとその事実は変わらない。堂々としていればいいだけなのだ。
透は首を一周ぐるりと回し、深呼吸をして彼らの元へ行くことにした。
十六時過ぎ、裏口から荷物を纏めて出てきた透の目に付いたのは二人組の男だ。彼らは透を見つけると会話を中断しこちらへ向かってくる。
「こんにちは。久しぶりだね、透君」
ポロシャツにチノパンという軽装の男は一番に駆け寄りそう言ったが、透に警察関係の知り合いは居ない。しかし相手は透を知っているのだから会ったことがあるのだろう。
顔をまじまじと見ると、その人の良さそうな八の字眉毛で記憶が蘇る。
『本当に残念だよ…』
あの時もその眉を下げてそう言っていた。確か名前は濱村だったか。
「…あ、お久しぶりです」
「良かった、覚えてくれていたんだ」
「…濱、村さんですよね?…お元気そうで」
「そうそう!透君こそ元気そうで良かった」
窶れた男の何を見て元気だと言っているのか、透は内心毒づく。この男は当時もそうだった。警官のくせに酷く鈍感で、正義の味方面だけは一丁前だった。
(…そのせいで)
奥歯が擦れる音が響く。濱村が喋る度、ヘドロのように汚い感情がボコボコと泡立ち沸騰し、堪えようのない怒りが湧いてくるのだ。濱村はまだ何かぺちゃくちゃと話しているが透の耳には一切入らない。
「―それで」
「はいはい、濱村巡査部長、昔話はそこいらにしましょうや」
濱村の後ろからひょっこり顔を出した男は、暑さからかスーツのジャケットを肩に掛け袖を捲っている。胡散臭い笑顔を浮かべ、二人の間に割って入ってきた。濱村が黙って彼に譲ったところから、スーツの男の方が立場が上らしい。透の怒りや憎しみはどうにか第三者が加わることで落ち着いた。
(…しっかりしろ、ここでおかしな事したら疑われるかもしれない)
アスファルトが蒸しあがり空間を歪ませる。頭を冷やせる状況には無いが透は無理やり空気を飲み込んだ。
「え〜、さか…がみ?あ、坂森透さんで間違いない?」
「…そうですけど」
「聞いてると思うけど、ちょっと話聞かせてもらえんかな?」
「…俺に話せることなら…」
男は「あ!一応これね」とズボンのポケットから紐に繋がれた警察手帳を取り出す。そしてドラマの中のシーンのように開いて見せた。
「捜査一課の堂上幸之助、どうぞよろしく。」
堂上と名乗った男はペンで一本線を引いたような糸目が特徴的だ。いかにも曲者といった雰囲気で、透はボロが出せないと肩に力が入る。濱村と違いその細い目の奥は常にこちらの様子を伺っているようだ。
「ま、そう長くはならないから。そういや坂"上"さん、通勤は車で?」
「…坂"森"です。そうですけど…」
「ははは、すんませんね。名前覚えるのは苦手なんですよ。じゃ、そこの公園で話しますか」
子供達が走り回るそこで話すにはあまりに物騒な内容だ。多少の配慮か、堂上の足は誰も居ない東屋に向かった。テーブルと椅子、長引きそうな予感を察して「どうぞ」と座るよう促されたが断った。
「話って…なんですか?」
堂上が濱村に目配せすると、彼はメモ帳を取り出した。
「一昨日の夜中に坂森さんのとこによく来てた常連の…竹山崇さんが死体で発見されてね〜。」
「…店長に聞きました。詳しいことは分からないけど」
透は守屋が一体どこに捨てたのか知らない。裏山は満員になったと言っていたがまさかこうも早く見つかるとは透も思っていなかった。
「…確かにあの人はうちの店によく来てましたけど…俺になんの関係があるんですか?」
堂上は透のその言葉を待っていたと言わんばかりに目を光らせる。
「坂森さんは随分竹山さんに暴言を履かれていたそうですね〜。それでカッとなって殺っちゃったかなあと」
「そんな訳ないですよ!確かにあの時は嫌な気持ちにはなりましたけど…。それにあの人だけじゃなくて俺は他のお客さんにもよく言われるんですよ…」
今のところ嘘は一つも言っていない。だから疑われて腹が立っているという感情は表現出来たはずだ。それに犯人に罪を擦られたようで気分が悪い。…自分が無関係だという演出には最適な状況だろう。
「これはみんなに聞いてるんでね。坂森さん、一昨日の二十時頃どこで何してました?」
「…確か十九時頃には仕事が終わってそれ以降は家にいたはずです。」
「なるほどねぇ〜。それを証明できる人いる?」
口の端を上げてはいるが、堂上の顔は一切笑っていない。その横でメモを取る濱村もちらちらとこちらの様子を伺っている。早く話が終わらなければ透の心臓はプレッシャーに押しつぶされそうだ。
「まさか、…俺疑われているんですか?証明って言われても…一人暮らしですし…」
堂上はまた濱村とアイコンタクトを取ると、大きなため息をついた。
「…そっかあ、分かりました。じゃあ質問を変えて、ここ最近で不審な行動や人物を見かけたりとかはないです?」
「…特にないです」
「そう、分かりました」
これ以上透から何も得られないと分かったのだろう、堂上は胡散臭い笑顔を浮かべ直し、「ご協力ありがとうございました」と話を終わらせる。
「…じゃあ、俺はこれで」
透は軽く会釈し彼らに背を向ける。「透君、また!」と濱村が声をかけていたが、一切振り向かない。公園の端をさっさと歩き去った。
「あ"ー、暑い…」
ワイシャツの襟元からパタパタと生温い空気を入れ替える。遠くで子供達がはしゃぐ姿は微笑ましく、その細い目は更に細くなった。夏らしく虫取り網を持って駆け回る子供や、暑さに負けず鬼ごっこを楽しむ子供は日々の暗い事件を一時でも忘れさせるものだ。
「はぁ、はぁ、…堂上警部補!…そこの自販機、カフェオレ売り切れてましたよ…」
「えぇ〜?」
「び、微糖で勘弁してください」
堂上は「あんがとー」と濱村からそれを受け取る。そして乾いた喉に流し込んだ。あっという間に空になった缶を少し離れたゴミ箱に向かって投げる。残念、それはかすりもせず地面に落ちた。結局重い腰を持ち上げてゴミ箱に捨てに行く。濱村は自分用に買ったお茶をベンチに座りぐびぐび音を立てて飲み、汗まみれの額を拭った。
「濱村巡査部長は坂上さんと面識があるんですねえ」
「"森"ですよ。…覚えてます?五年前、中央高等学校の女子生徒が四階から飛び降りて亡くなった…」
当時十五歳だった女子生徒が虐めを苦に自ら命を絶った、何とも心が痛い出来事だ。学校は頑なに虐めを否定し続け、加担していたであろう生徒たちの人権だけは守られた。…何とも後味の悪い、それだけで堂上の記憶に残っている。
「その時亡くなった女の子の兄が彼だったんです…。彼らは妹が自殺するわけない、殺されたのだと訴えていたんですけどね…。自分は出来る限り透君の話を聞いてあげていたんです」
恐らく濱村は親身になって話を聞いていたのだろう。それならば、何故坂森透は体が強ばり、険しい目付きをしていたのか。
「…その割に嫌われてたみたいだけど何で?」
「え?自分は嫌われていないと思いますけど…?どちらかというと、警部補、貴方の方が嫌われたと思いますよ。疑うにしても露骨すぎる。」
すっとぼけた顔で濱村は本当にそう思っているらしい。人の表情の変化に鈍感で、一体何を見て捜査しているのか疑問である。幸先が不安になり堂上は内頬を噛む。あっという間に口の中に鉄の味が滲み、ざく、ざくと肉が切れる音がした。
「…はっはっ〜怪しい人物を疑う事が仕事みたいなもんでしょう!」
「そうだとしても、彼は動機が薄いでしょう。それにガイシャは多方面から恨みを買ってたみたいですし…」
「まあね。」
「それなら決めつけるような発言は…」
濱村の言葉を遮るようにサッカーボールが転がってきた。彼はそれを直ぐに少年達に返してニコニコと優しい笑顔を浮かべている。
「ま、詳しい話は署に戻ってからするかあ」
凝り固まった体を堂上は天に向かって引き伸ばし、気合いを入れて立ち上がる。これから暫く休む間もなく忙しいはずだが、堂上の表情は清々しさに満ちていた。それはこの街の安全を守るという使命?単なる好奇心?本人も分かっていないものだったが。
「守屋さん!いるんでしょ!」
乱暴に扉を叩く拳には確かな怒りがあった。そして大きな不安も。
透は家に帰るなり荷物を玄関に投げて、隣の家の殺人鬼に説教をするつもりで扉を叩いている。しかしどれだけ声をかけても反応がない。中の明かりは漏れているのに、居ないふりを決め込むつもりなのだろうか。
ドアノブをがちゃがちゃと回しても開かない。開いていなくていい時に開いていて、開いていて欲しい時に開いていない、その歯痒さにボロ屋の壁を蹴りつける。返ってきた痛みに顔を歪め、痺れるような衝撃が足に広がった。
(くそ!)
それは傍から見たらおかしな事だ。透は『なぜ人を殺したのか』では無く『なんで見つかるところに棄てたんだ』と言う主張をするつもりなのだから。
時刻は十七時少し前、(よく考えれば仕事…かもしれないよな)と冷静になる。電気を消し忘れた可能性だってあるではないか。それに大声で騒げば解決する問題でもない。
(また後で、帰ってきてから出直すか…?)
激しい感情で疲れた体が踵を返した時、殴るように叩いた扉は呆気なくがちゃりと開く。
「いらっしゃい。」
まるで先程の騒動が全く聞こえていなかったように、涼し気な顔が覗いていた。
夕日が照らした部屋は相変わらず物がない。今日は畳が顔を出していたので、(…良かった、誰も殺してない)と安堵する。
「居たなら直ぐに出てくださいよ…」
「ごめんね?ドアスコープを覗いたら見慣れない君がいて、少し観察してました」
「観察って…守屋さんにはおかしく見えました?」
透は自身の頭を無意識に触る。毛があったところに無いせいか、守屋の視線が以前より刺さる気がした。
「いえ、似合ってますよ。僕はその髪型も好きだなあ」と表情一つ変えずにサラリと言えるのは場数を踏んでいるからだろう。きっと会社の女性陣にも似たようなことを言っているに違いない。
守屋は押し入れから水を二本取り出し、そのうちの一つを透に渡す。真夏に冷やされていないそれはお世辞にも美味しそうではない。喉は潤うだろうが…彼は本当に拘りが無いのだろう。
守屋は畳の真ん中で三角座りをしながらちびちびと水を摂取するのだ。透も取り敢えずその正面に腰を下ろし、早速本題に入った。
「…実は今日うちの職場に警察が来ました。この間ここで死んでいた男の事で…」
透は今日あった出来事を事細かに説明した。その時自分がどう思っていたか、…相手の刑事の様子などを守屋に伝える。彼は透が話終えるまで口を挟まず真剣な眼差しで聞いてくれた。きっとなにか考えがあるのだろう。透はただ、『大丈夫』と言って欲しかったのかもしれない。だが返ってきた言葉は、「そっか、そんな事もありますよね」だ。
「あんたね、俺が疑われたんですよ!それもあんたのことで!」
「お、落ち着いて?」
「落ち着いてられるか!」
他人事のような言葉は望んでいたものでは無い。張り上げた声はぶつかる物が無いからかよく響く。それが透の耳に反響し、更に感情の制御を難しくさせた。
「あんたみたいな好きで人を殺すような人間ならなんとも思わないんだろうけどな!」
「そんな事ないよ」
守屋は少し困ったように眉を下げて「誤解しないで」と透を宥める。守屋は冷たい手のひらを迷うことなく透の拳に重ねるが、透はそれをバチンと払った。
「触るな!」と透が拒絶した時、彼は寂しそうにその手を引っ込めた。傷ついた、そのような顔をするのだ。
「…あ、すみません。…俺…」
「…ごめんね、僕は言葉を間違える。…君が追い詰められていることは分かっていたのに。」
覗き込む瞳は、ただ透だけを写した。まるで暗示にかけられているように透の瞳にも守屋しか写らない。瞬きする度、その焦点は守屋だけ鮮明にするのだ。
「君が辛いなら、僕があの人を殺してしまったことを話してください」
「な、に言ってんだ?…守屋さんはそれでいいんですか?」
「君に嫌われるくらいなら」
何故そこまで言えるのか。昔からの親友などでも無い人間に。それとも守屋は何か透の使い道を見出しているのだろうか。彼は左頬を指で掻くと、「…なんて、僕が言っても君は信じてくれないよね」と自信なさげに呟いた。ぎゅっと足を抱えて小さく縮こまる姿に、単純だが放って置けないという気持ちになる。
「そ、…そんな事は」
「本当に?…君は僕に呆れたでしょう?」
「呆れたというか、…それは間違いじゃないですけど、嫌いだとかは言ってないです…」
関わらない方がいいとしながらも透は守屋の望む言葉を口にする。透はどうも弱々しく下手な対応をされると突き放すことが出来なくなるようだ。
「…これからも僕と仲良くしてくれる?」
その問いに少し考える必要があるだろう。彼は恐らく衝動的に人を殺すはずだ。それは透にとって大きなリスクを抱えることになるだろう。
「なんで俺なんですか?…貴方なら他にも沢山居るはずなのに」
明確な答えが欲しいとする透に彼はゆっくりと俯いていた顔を上げる。日差しでその瞳は更に明るく輝いて眩しい。
「前も同じ事を君は聞いたよね。…僕は君といる時間が好きなんです。心が安らいで、優しい気持ちになれるんだ。多分君が優しい人だから、それが僕に影響したんでしょうね」
『お前のせいで』
『気持ち悪い』
『何故生きているんだ』
どれほど蝉が鳴き叫ぼうが、どれだけ透を呪う言葉が頭の中で巡ろうが、彼の優しい声をふとした瞬間に求めている。
気が付かない間に孤独で穴が空いた心は、守屋の言葉で埋まっていくのだ。透は自身の手が微かに震えている事に気がついて、隠すように腕を組む。透の答えは既に決まっていた。
「あなたが…これ以上人を殺さないなら…」
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