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第5話

日が昇り、そして沈む。月日というものはあまりに早く過ぎる。学生の頃はあれ程長く感じた感覚が歳をとる事に一瞬だ。 今日は仕事が休みだったこともあり、運動不足解消のため近所をランニングしていた。慣れないことはするものでは無い、直ぐに疲れて歩いていた時、ラーメン屋の暖簾が風ではためく。腹の虫が鳴いたので、透は少し早めの夕食を済ませることにした。 引き戸を開けると、狭い空間に立ち込める湯気と無口な店主がいるだけだ。化石のブラウン管テレビが夕方のニュースを淡々と報道している。 透はカウンターに座って、雑なメニューを眺める。そしてとりあえずラーメンとチャーハンを注文した。少しベタついたテーブルや、油で変色した壁、小綺麗な店より透はこのような店が好きだ。 (…一週間か) あの胡散臭い刑事からあれ以降音沙汰が無い。いい事だと思いつつ、裏で何やら調べられている気がして気持ちが悪い。ある日突然連行されるなんて事はないとは思うが。 (それにあの人の事も気がかりだな…) 守屋は透の『人を殺さない』という条件をあっさり飲んだ。それを本当に守るのかは分からない。彼にとって殺しは生活の一部だ。そう簡単に辞められるものなのだろうか。しかし彼が透に伝えた言葉は嘘ではない、そんな気がしている。ちゃんと話をしたいと思っても、あれから守屋は仕事が忙しいのかあまり家にいない。 麺が湯切りされ、ラーメン丼に注がれる。チャーシューに煮卵、メンマ、最後に葱、店主が彩りを加えたそれは思いのほか美味しそうだ。そしてほぼ同時にチャーハンが完成し、ようやく腹を満たすことが出来る。 「いただきます」 早速一口、麺を啜ってスープを飲む。味噌の風味が鼻を突き抜けて、透は思わず笑みを零した。そして次にチャーハンを口にする。これもまた良い塩加減だ。腹に貯まればなんだっていい、その考えが間違っていたことが証明される。やはり美味しいものは心を少し幸せにしてくれるのだ。 (あ、そうだ。今度守屋さんも誘ってみるか。…ラーメン食べるのかな) 彼が麺を啜る姿が想像できない。 しかし予定が合えば無理にでも連れて行きたい、ここのラーメンはそれ程美味しい。あっという間に完食したそれを誰かに共有したかった。 透は会計を済ませ、「ご馳走様でした」と満足気に店を立ち去る。次は彼も連れてこよう、と呑気に考えて。 寂れた金物屋の看板、長い階段を見上げればお馴染みの鳥居。見慣れた景色が近づくに連れ、胃がむかむかと気持ち悪くなってくる。ゆっくりとした足取りで時々立ち止まりながらそこを曲がればあと少し。ようやくボロアパートの頭が見えた時、二階の外廊下で立ち話している二つの影が目に入った。そのうちの一人は涼しげな顔をしたあの男だ。透は忍び足で邪魔しないよう慎重に階段を上る。…盗み聞きしようなどとは思っていない。 「なんで?私達上手くいってた」 女の啜り泣く声、透は足を止めてそっと頭を覗かせる。そこには髪を束ね、スラリとしたモデル体型の恐らく美人であろう女性の後ろ姿。 (あの人恋人いたのか)と意外に思う。だが直ぐに彼のような人当たりがよくおまけに顔もいい、…金も持っていそうな男は女性が放って置くわけが無いと思い直した。 「私の事好きだって言ってたよね?」 「覚えてない」 涙する女性とは正反対に守屋は冷たくそう言い放った。その顔には笑顔など一切浮かべず、終始無表情である。抱きつこうとする彼女を面倒くさそうに引き剥がすのだ。透は気が付かれぬよう頭を咄嗟に引っこめる。 「…私、認めない!社内で言いふらすから!」 「好きにしたら?」 人の玄関先で痴話喧嘩は勘弁して欲しい。近所のコンビニで時間を潰そうかとも考えたが、これ以上は足が悲鳴をあげる。既に左の腿がつりそうだ。 「なんでそんな事言うの!?」 「君に価値を見いだせなくなっただけ」 「酷い!価値って何!?」 女性の怒りがヒートアップし始める。それもそうだろう、経験の少ない透ですらそのような言い回しはしない。透はまた様子を確かめるため覗き込んだ。だが守屋の視線はこちらを捉える。 「あ!透くん!」 透は顔を引っ込めるのもおかしいと思い、ギクシャクした声で「あ、はは、こんにちは…」と不自然な挨拶をする。部屋に帰るなら今のうち、透は白々しく彼らの横を通り過ぎようとした。 「ねえ、今日お酒飲みませんか?沢山買ってあります」 彼女をそっちのけで守屋は透の腕を掴む。無表情だった彼の顔は満面の笑みが、低く冷淡な声が跳ねるように明るく、先程までの態度が嘘のようである。 「あ、…いや、でもなにか話があるんでしょう?また今度にしましょうよ…」 透は横から痛い視線を感じ、息が詰まった。二人の話に割って入るつもりはない、そこを通らずして部屋に帰れないのだからしょうがないではないか。それに腕を振りほどこうとしても、彼は両腕を駆使してそれを阻止する。 「も、守屋さん俺部屋に帰るんで…」 「じゃあ僕も連れてってください。」 「い、いやでも…」 空気を読む気がない守屋の代わりに透が女性の様子を片目で伺う。予想通り美人な彼女は涙を浮かべ、透を睨みつけるのだ。 「まだ話終わってない!…そもそもその人誰?」 「なんで?君には関係ない」 「関係なくないでしょ?私達の大切な話の最中に割って入って来たんだから…」 彼らは透を挟んでまだ続けるつもりだ。それに彼女の中では透が悪いらしい。見下したような視線を透に送り続け、『さっさと失せろ』と訴えている。正直美人でも高飛車な女性は苦手だ。 「透くんは僕の大好きな人。将来外国で結婚式を挙げる予定だから」 いくら早く切り上げたいからと言ってその嘘は盛大すぎる。もっと他の嘘は無いのか、流石の彼女も目を丸くして数秒言葉に詰まった。 「…はあ?あんた達そういう感じなの?」と怪訝な顔をして二人を交互に見やる。流れていた涙はピタリと止むから面白い。 「ね?透くん」 女性には悪いがここは話を合わせておくべきだろう。そうでなければいつまでもこの外廊下で三人険悪ムードを続けなければならない。 「ま、まあそんなとこです…あはは…」 透が無理やり顔面の筋肉を上げ笑顔を見せ、同時に彼女も口角をヒクヒクと引き攣らせる。唯一自然な笑顔を浮かべられているのは守屋ただ一人だけだ。 「…アホらし。…明日から社内の扱い変わると思うよ?二股で、しかも男の恋人がいる、最低野郎だって認識してもらえるかもね!」 彼女はそう捨て台詞を吐いて、カンカンとヒールを鳴らしながら階段を降りていった。 急に騒がしさが引いて、透はどうしたものかと頭を掻く。その横で上機嫌に鼻歌を歌う守屋は、明日から自分がどのような扱いを受けるのか認識していないようだ。 「今日も君の部屋で飲みましょう。お酒持ってくるので足の踏み場位は確保しててくださいね」とさっさと自室に引っ込んだ。仕方が無いので彼の言う通りにする事にした。 「いやあ、最近仕事が忙しくってようやくお話出来ましたね」と、透よりその汚い空間で寛ぐ男は酒を口に含む。その隣で透は烏龍茶を飲みながらテレビのくだらないバラエティー番組に目をやった。 「…君は飲まないの?お酒、好きなんじゃなかったですか?」 「いや、今日は控えめにするつもりです…それより、あんな事言ってよかったんですか?今後会社で居づらくなるんじゃないかと…」 恐らくあの女性は宣言した通り周りに言いふらすだろう。透は彼女と面識もない、同じ職場でもないのでダメージは少ないが、守屋は違う。 「うーん、そうでしょうね。でも別にいいです」 自分の事にも興味が無いのだろう、彼は飲み終わった空き缶をテーブルの角ぎりぎりに置いて、次の酒に手を出した。 「…あんなに美人な女性と別れてよかったんですか?それにあの『結婚式を挙げる』なんて嘘…、通用するとは思ってなかったですよ…」 「ははは、君の驚いた顔、面白かったな」 「…からかわないでください」 そう言った透に「僕は現実になってもいいけど」とまた透を弄ぶ。クスクスと肩を揺らして、渋い顔をした透を笑うのだ。 「はあ、…あんたって一体なんなんだ…」 「ごめんね、つい楽しくて。…嫌いになった?」 「別に…そこまででは…。でもちょっとムカつきます」 「まあまあ、いつもの事です。気にしないで。」 「…全く、自由だな…」 この男は透の転がし方を良く理解している。元々ノーと言えない性格を見抜き、不快にならない範囲で飴と鞭を上手く使いこなすのだ。 「それに君との約束、守っただけなんですよ?呆れず褒めて欲しいな」 少し酔いが回っているのか守屋は透の肩に凭れかかる。ほんのりと甘い香りがして、(イケメンて匂いまでいいの?)と目眩がする。その頬は少し紅潮し表情も憂いを帯びて、何故かドキドキと胸が高鳴った。 (…ははは、いくら顔がいいからって節操ないぞ俺…。) 長いまつ毛を見下ろして、透は自身のおかしな感情に?を浮かべる。落ち着くため控えようと思っていた酒をごくごくと喉に流し、平然を取り戻した気になった。 「え、えーと…約束て…それとこれ、何も関係ないでしょ。それともあの女の人を殺すつもりだったんですか?」 「ええ。そうですけど…君と約束したので止めました」 彼は透の首筋に頬擦りするように戯れ、見上げるように微笑む。吊り上がった唇はこんなにも艶っぽかったか?と無意識に考えて、咄嗟にそれを否定した。 「ち、ちょっと煙草吸ってきます」と立ち上がった透を止めたのは、テレビのニュース番組だ。 『―街の住宅地で三十五歳の男性の遺体が発見された事件で、警察は二十四歳の男を死体遺棄の疑いで逮捕しました』 どこかの住宅地が映し出され、アナウンサーが淡々と事件概要を読み上げるのだ。…どうやら警察は透でもなく、守屋でもない、全く関係のない人間を逮捕したようだ。 『―その後の捜査で男が竹山さんの遺体を住宅地に遺棄したとして、先程死体遺棄の疑いで逮捕されました。逮捕されたのは―街―地区に住む、二十四歳土木作業員の男で調べに対し、容疑を否認しています』 「あれ?捕まったんですね。」と他人事のように眺める守屋に罪悪感が生まれることは無い。 (…ああ、俺はなんてことを…。無関係の人を俺が地獄に突き落とした様なもんじゃないか…) 透は荒れ狂った内心とは裏腹に、ぼんやりとテレビを眺めた。体から血が抜かれたように、手足が冷たく感じる。それと同時に心の温もりさえ無くしたような気がした。罪悪感で潰された心臓からもう血が出なくなった、そんな感覚だ。 「…ははは、警察って、案外、適当なんだ。あんなに俺を疑ってたくせに、馬鹿ばっかだよなぁ…ははは」 守屋に断りを入れず煙草に火を付ける為ライターのヤスリを擦る。加えた煙草をじりじりと焦がす音と吐き出す煙は透の腐った一部の考えを口にさせるのだ。 「大丈夫?…酔ったのかな?」 「こんなんじゃ何人殺しても、同じじゃないか、だからあんたも殺すんでしょ?」 苦しい筈なのに、笑いが込み上げて、透は喉を鳴らして笑いを堪えた。今ならどんなにつまらない番組でも笑える自信がある。 「…透くん?大丈夫?」 「ははは、大、丈夫ですよ。あは、はは」 笑っているはずなのに、心配そうにこちらを見やる守屋の顔が滲む。小刻みに震えた指の間から落ちたタバコは畳に転がって、崩れるように透はへたり込んだ。 「俺のせいじゃない…はは、そうだ、違う…」といつものように暗示を自分にかける。だが毎回それは成功する訳では無い。緊張が緩和したからか、張り詰めていた糸が切れた。だから今日は自分でも感情をコントロールする事が難しいのだ。 情緒不安定な透を守屋は包み込むように抱きしめ、そして子供をあやす様に優しく頭を撫でる。 「…君は優しい。だから苦しみにも敏感なんだ」 「違う、俺はそんなんじゃない…。優しい人間は人をそもそも殺さないでしょ?俺はあんたが思うような人間じゃない…」 透は守屋の肩を弱々しく押し返した。そこに出来た空間は『孤独』そのものだ。 「俺は、あの女を憎くて殺した、そして卑怯にも罪を償わず、…そしてまた隠蔽して…そんな人間のどこが優しい?」 瞼の裏であの女がもがき苦しむ姿が浮かぶ。その爪で必死に抵抗して、やがて痙攣し動かなくなったその肉の塊。 「だったら僕に教えて。君がどういう人間なのか」 広げられた両腕は透が何者でも受け入れてくれるのだろう。躊躇いながら、その空間を埋めるように身を寄せた。 その記憶を辿ることは簡単ではない。口にすることすら億劫である。 「…五年前、俺は妹を卑劣な虐めで亡くしました。」 妹、明は愛らしい性格で何事も前向きな女の子だった。兄妹仲もよく、透と父は溺愛していたように思う。そんな彼女を襲ったのは、生きる価値のない悪魔達だ。 「…アイツらは妹に酷い仕打ちをしておきながら、…今ものうのうと生きてんですよ」 思い出すだけで透は強い憎しみを抱く。握りしめた拳がギシギシと音を立て、顬には青筋が浮かぶ。守屋は透の怒りを鎮めることなくただ黙って聞いていた。 「…明がそんな事になって、俺と親父はもう、めちゃくちゃで。お互い顔合わせただけであの時の事を思い出すから疎遠になってたんです。でも、その年の命日は一緒に墓参りに行こうって約束してた」 開け放たれた窓から入る優しい光は、そのぶら下がった体を鮮明に瞼に焼き付ける。 透は花束をその場に投げ捨て、彼の体を持ち上げようとした。しかし、彼はもう既に事切れた後、持ち上げた体は冷たく、薄く空いた瞼から生気のない濁った瞳が見下ろしている。 揺れる足元から滴る汁が床に溜まっていた。脱力した体、蹴られ倒れた椅子。薄暗い彼の部屋は酷い有様で、酒の缶が散乱し、脱ぎっぱなしの服や新聞が山積みだ。その中で、笑う娘の遺影の周りだけは綺麗に整頓されている。 通報した透の元に来た警官は父を降ろしてくれた。しばらく色々と質問をされたが、透の記憶は曖昧である。だが娘の遺影に察するものがあったのだろう、憐れむような視線と態度は覚えている。放心状態だった透の代わりに父方の親戚達が手続きを済ませて通夜と葬式が行われた。 透はただ二回目の喪服に身を包み、涙を流すことも出来ずそこにいる。痩せこけた父はやけに穏やかな顔をして、…きっと明と会うことが出来たのだろう。 「はは、…二人とも俺を置いていっちゃったんです。俺も何度か死のうと思った、だけど価値のないこの命を手放せなかったんです」 透は無意識に自分の手のひらを虚ろな目で見る。何も掴めなかったその手を、守屋はぎゅっと握りしめてくれた。骨の感触と、透の熱が馴染んでいく冷えた指先。 「…価値がない、か。君はどんな物差しで価値を決めてるの?」 「…それは…」 守屋の言葉に透は即答できない。しかし、「君が殺した女の人は価値があった?」の問いには即答できる。 「あんな女、価値なんてない!!」 張り上げた声に守屋は目を丸くして、ぱちくりと瞬きをする。透は大きな声を出した事を謝罪して、目を六秒ほど閉じた。少しの落ち着きを取り戻すにはこうする他ない。 「でも、あの女の人は君の恋人だったんじゃないの?」 守屋は部屋の隅を指さした。そこには女性物の雑誌や化粧品、衣服などがゴミ袋に纏めて詰められている。他のゴミに埋まったそれをよく見つけたものだと透は感心した。 「…たしかに、前までは」 奥歯がギリギリと擦れ出す。あの女のことを思い出すだけで、人を殺めたと言う罪悪感より腹の奥から上ってくるどす黒い感情の方が勝つのだ。 「でも、俺はあの女を殺した事だけは後悔してないですよ。…妹や父にどれ程罪悪感を抱いたとしても、あの女にだけは…」 「君はあの女の人を憎んで殺したんだね。…興味深いな」 興味深い、今までの話を聞いていて何故そのような言葉が吐けるのだ。透は勇気を出して心の内を明かしている、それが目の前の男に伝わっていないのだろうか。透がせっかく落ち着きを得たのに、またその一言で声が大きくなる。 「あんた、俺を馬鹿にしてるのか?」 「そうじゃないよ。僕が憎しみで人を殺したことがなかったからその違いに驚いていたんです。怒らないで」 守屋に悪意が無いことは見て取れるが、それは冷静かつ精神が健康な人間だけだ。透の細い精神は荒波に揉まれ伸びたり縮んだりそれでまた細く弱りを繰り返す不健康だ。人の言動の真意など見分ける余裕はない。 「あんたはなんで殺すんだよ、どうせ人を痛めつけるのが好きなイカれた性癖…とかじゃないのかよ」と攻撃的に吐いた言葉に怒ることもなく、守屋は淡々としている。 「僕?…僕はただ彼らが僕と比べてどれ程価値があるのか知りたくて」 「…なんだそれ。だから殺すのか?」 「ええ。僕は求めてた。僕が殺した後、どうしようもなく死にたくなるほど価値のある命を。」 透はてっきりイカれたサイコパス野郎だと思っていた。…勿論守屋の動機は十分イカれているが、人を切り刻む事に快感を覚えるなどの動機とすると地味なものだ。だが簡単に要約すると、心中したくなるような人間に価値を見出しているとも取れる。 「今まで殺した人達は残念ながら紙くず程の命だったわけだけど…」 あまりに酷い暴言だが、守屋が穏やかに話す為不思議とそう聞こえない。勿論、容認すべき発言ではないことは確かだが。 「価値なんて、見る人が変われば変わるでしょ…。あんたにとって紙くずでも、他の人はそうとは限らない」 「そう、これは全て僕の主観の価値。君は自分を価値のない人間だと思い込んでいる。それも君の主観。」 とん、と胸に手を置かれる。守屋は透の鼓動を確かめるように目をつぶり耳を澄ませるのだ。 「…なに?」 「ほら、君も」 透の手を自身の心臓に押し当てる。そのリズムは、秒針のように規則的ではない。時々跳ねて、時々小さく、それは正しく生きている証拠だ。離れた手のひらが名残惜しい、そう感じるくらいに彼が与える安心感が透を癒し、救っている。 「ねえねえ、今度どこか出かけませんか?」 「なんで今の流れでそうなるんですか…」 「本当は今日、君にその話をしようと思ってたんです。…水族館とかどうでしょう?」 「…いやいや、男二人で水族館はちょっと…」 現状はなにも変わらない。どれほど慰めあったとしても、良心がある限りその恐怖と戦い続けなければならないだろう。だが暫くは目を背ける事も必要だ。ここまで来たらとことんおかしな方向へ突き進んでみるのも良い。どうせ行先は真っ暗なのだから。 悪魔が帰ってきた足音がする。かん、かん、かんと階段を上り、部屋の前でがさごそと何やらやっているのだ。だが直ぐに鍵を回す音が聞こえ、扉の向こうから悪魔が現れる。 「ただいま」 「ん"ー、ん"ぅ」 そう身動きの取れぬ芋虫には目もくれず、悪魔は嬉しそうに郵便物を握りしめている。丁寧に封を切り、中身を確認して満足気に微笑んだ。 「…坂森透…透くんって言うんだ。ねえ、知ってた?」 誰の名前だろう?恐らく次の犠牲者か?そんな事より拘束を解いてぶん殴ってやる!そう意気込んだはいいものの、後頭部がズキズキと痛み、体も痺れて上手く行きそうもない。 「僕、今日外回りだったんです。その時たまたま君を見つけて一目でああ、嫌いだって思った。なんでか分かる?」 質問に答えさせるつもりは無い。悪魔は口のテープを剥がすつもりなどなく、ただ一方的に話しているだけだ。 「…透くん、とても悲しそうな顔してました。きっと君が酷いことを言ったんでしょう。駄目ですよ、人を傷つける様なことを言ったら…」 思い当たることがあった、確かに今日はいつも通っているレストランで使えなさそうな男の店員をバカにした。あの店員の差し金で少し痛い目に合わせよう、そのような魂胆だ。 「見るからに価値無しで気が引けるなあ…。あ、でも透くんが喜んでくれるならいいよね」 押し入れをガラリと開け、悪魔はビニール袋を床にふわりと落下させる。人の頭が一つ入るだろう大きさだ。そして次にロープを手にすると、「よいしょ」と言いながら馬乗りになる。 動きが更に制限され、足をばたつかせてみるが悪魔は涼し気な表情のままだ。 「なにか遺言ありますか?」 「ん"ーー!う"ーー」 「うーん、分からない…。テープは死んだ後に剥がしてあげるね」 袋が頭に被される。勿論抵抗したが簡単に視界に膜が形成され、首にロープが巻き付けられた。それはほんの一瞬で、今まで何度もそれを経験したとしか思えないスピードだ。 ただ少し痛い目に合わせるつもりでは無いのか?本当に殺す気なのか?どうしよう、どうしよう…。そう考えているうちに込められた力で、喉が絞られ足が跳ねる。人の死は案外呆気ないものだと意識が無くなる直前にそう悟った。 事切れたそれを見下ろしながら、男は首を傾げた。 「やっぱり…罪悪感のひとつも感じなかったなあ。…でもこの謎の爽快感はなんだろう?…不可解だ」 約束通り、一度袋を剥がしてテープを取る。そしてそのおぞましい顔を彼が怖がらないようにとまた袋を被せた。 「さて、記録記録…」 男は押し入れから秘密のノートを取り出した。それは随分古いもので、背表紙はしわくちゃ、紙は黄ばんでいる。 『男、(僕より年下かな?)透くんに暴言を吐いていたから殺してみた。価値は無いが、スッキリした。へんなの。こんなことってあるんだ』 小さな文字でそう記録し直ぐに押し入れの奥へ片付ける。これは男の日記のようなものだ。やけに機嫌がいい男は少し音程の外れた鼻歌を歌いながら手を洗いに行く。その頭の中にはどうやって彼にこのことを知らせるか、しかない。 「なにがいいかなあ〜」

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