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第6話
全て何事もなく回っている。例えば今日は注文漏れをしなかった。クレームを言われることも無く、むしろ常連のおば様から『髪さっぱりしたわねぇ!そっちの方がいいわあ』と褒められて機嫌がいい。更に付け加えるとしたなら珍しく十五時には家に帰る事が出来る。
(あと一時間…)
客足も落ち着いて、帰りに服でも新調しに行くか、とぼんやりと考える。
最近の透は少し以前とは変わった。それは見た目だけではなく、心情の変化が大きい。前向きとまではいかない。しかし悪夢の頻度も少なくなり、酒が無くとも眠れるようになった。勿論あらぬ容疑をかけられ、未だに苦しんでいるあの人を思うと胸が苦しい。しかし悪いのは殺した守屋と、誤った捜査をした警察だ。…透ではない。
(そう思っておけばいい、…今は)
ブザーが鳴らされ、透は注文を取りに行く。仕事中に考え事をするのは良くない。今日は失敗していないのだから。
「お待たせ致しました、ご注文は―」
早歩きで向かった先に、見知った人間が姿勢よく座っている。他の客も注目するほど守屋は浮いていて、近寄り難い雰囲気を纏っている。
「…ご注文はお決まりですか?」
「このコーヒーフロートと、抹茶のかき氷、一つずつ下さい」
彼はスカした顔で他人行儀に淡々としている。視線一つやること無く、声色も冷めたものだ。それはいつも透に向ける態度とは正反対である。
(あれ?…俺何かした?)
「…ご注文繰り返します―」
…勿論透は仕事中だ。守屋のことだから配慮あっての事だろう。いつものようにしろとは思わないが、何だかおかしな気分だ。あの笑顔が無いと、整った顔はとても冷たく感じる。勿論線引きは必要だが、そんなに冷たくしなくても…と内心落ち込んだ。
「―以上でよろしいですか?」その声は初めとすると調子が下がっている。自分でも驚きだが、彼の態度に透の細いメンタルはぽっきりいきそうだ。伸ばそうと努力していた背筋が、丸まっていくのが分かる。
(…まじで俺、怒らせてないよな?嫌われた、とか?)
猫背が振り返ってキッチンへと向かおうとする。その背中に向かって囁くように「…外で待ってますね」と守屋は声をかけた。
(…………こいつ、相当タラシだ)
とからかわれた事に気がついて、透はムッと口を結ぶのだった。
「こっちも見ませんか?」
子供のように手を引く男は、はしゃぐように館内を練り歩いた。 水中で自由に踊る魚は鱗を光に反射させて、透は目を細める。平日十七時過ぎの水族館は客足も落ち着いてゆっくり見れそうだ。…透はと言うと、片手にチンアナゴのぬいぐるみを抱え、肩には水族館限定のお菓子やグッズの入った袋を下げている。これら全て透のものでは無い。
「…あんたねえ、普通魚見る前にショップ行きます?」
真剣な顔をして水槽のサンゴを見詰める男はやはり少しズレている。
「帰りは忘れてしまうかなあと思って。」
「…この変なぬいぐるみ、本当に必要なんですか?それとも職場の人にお土産ですか?」
長細い白いボディに黒い斑模様、デフォルメされて可愛い顔。大きさもそこそこあるので、すれ違う人間が皆チンアナゴのぬいぐるみと透の顔を交互に見るのだ。人が混みあっている時間帯で無かったことが唯一の救いである。
「お土産はそっちの袋の方です。そのぬいぐるみは僕が欲しくて」
「…そうですか。にしてもいきなりすぎですよ…」
(…まさか、この変なぬいぐるみ欲しさに水族館に来たかったのか?)
仕事を終えた透を外で待っていた男は、『水族館行きましょう』と提案をした。透は彼の押しの強さに流されるまま、そのまま守屋を車に乗せて一時間かけて水族館にやってくる羽目になったのだ。
「ごめんなさい、でもいきなりじゃないと君は行きたがらないでしょう?」
「まあ、確かに…」
彼は透とどこかに出かけたいと意気込んでいた。正直遠出は得意ではない。しかし、部屋に引きこもってばかりは精神的に良くないだろう。
「…そういうのは女性と行けばいいんじゃ…せっかく有給を取ったんでしょ?」
「女性と来るのも悪くは無いんですけどね。気疲れするんですよ。お姫様扱いしないといけないでしょう?」
「…そうですかね?」
「君はそういうの慣れていてあまり面倒には思わないんでしょうね」
透のどこを見て守屋はそう思ったのだろう。暫く考えていると、守屋は透を見てふっと笑顔を浮かべる。
「僕男なので荷物、持ってくれなくて良かったんですよ」
「あ、ああ確かに…。」
守屋はぬいぐるみを透から受け取ると、ギュッと両腕で抱きしめる。それを通りすがりの二人組の女性が「可愛い〜」と噂するのだ。そして彼女らに守屋は呼び止められ、にこやかに対応する。どこから来たのか、ここの水族館綺麗ですよね、だとか正直どうでもいい会話を彼らは続けている。
(…好みの子でもいたのか?確かに二人とも可愛いっぽいけど…。てか、お姫様扱いするの嫌だったんじゃねーのかよ!)
透はそのような雰囲気が苦手で守屋を置いてそそくさとその場から離れた。何ヘラヘラ笑って対応している、ここには魚を見に来ているのだ!と少しむくれて足の赴くまま見て回ることにする。
(お、クラゲ展示か)
吸い寄せられるように向かった先は、闇の中でライトアップされた大きな水槽だ。壁一面にクラゲたちが赤や青といった色の海でふわふわ漂うのだ。
(綺麗だ)
透はそれに釘付けになる。周りの人間など気にならぬほど、愛らしい丸いフォルムに惹かれた。自由に水を蹴り、重なっては離れを繰り返す。
透の右腕にどん、とぶつかってきたのは口をへの字に曲げる男だ。その後ろに女性の姿はない。
「透くん酷い、僕を置いていくなんて」
「…楽しそうだったじゃないですか。喋っていたらどうです?」
「…意地の悪いこと言わないでください。」
守屋は置いていかれたことにショックを受けたようで、しょんぼりと肩を落とす。両手のチンアナゴまで俯いているようで透は思わず吹き出した。確かにその姿は少し可愛いかもしれない。
「クラゲって集まるとこんなに綺麗なんですね」
「…そうかな?僕はちょっと苦手です」
「…意外ですね。刺されでもしたんですか?」
その言葉に守屋は深く頷く。シワが寄る程強く抱きしめられたぬいぐるみは苦しそうだ。
「…それ以来海には行ってません。でも行くなら透くんと行きたいな。」
「俺、海に行って何したらいいか分からないので…」
「ははは、僕もです。君と一緒に居られるならそれでいい」
(また平然とそんなこと言うんだから…)
水槽の反射光が、守屋の横顔を照らす。光と影が入り交じり繊細な色を映す瞳を透は覗き込んだ。
「なんか俺、口説かれてるみたいですね」
顔色一つ変えない男に冗談を言ってやる。彼に自分の発言を自覚させるつもりだった。透ばかりからかわれるのはフェアじゃない。
「…えっと、………」
それは予想していた反応とは違う。透の冗談など涼しい顔をして流すと思っていたが、守屋は照れくさそうに視線を外し、口をきゅっと結んだ。ライトアップのせいだろうか、彼の青白い肌に血色が現れる。冗談だとは言えない空気に透は飲まれながら、空間で遊んだ手の居場所を探すのだ。からかってやろうという魂胆は、透の首を絞めるだけに終わる。
「…や、やられたなあ〜、守屋さんはからかいのバリエーションが豊富ですね…!」
適当に誤魔化して無かった事にする、透の行動など守屋には分かっている。彼は逃げないよう透の腕を掴み、ハッキリと濁さず言葉にした。
「からかってない。僕は君が好き、恋愛感情で。…君は?それが知りたい。」
恋愛感情、彼が言った言葉に透は嫌悪感を抱かなかった。むしろ少しほっとした。透を弄んでいる訳では無いと知ったからだ。しかし返答には困ることは確かで、透は落ち着きのない両腕をがっちりと組む。しかしそうすると肩が揺れ、目に見えてソワソワと体が動き出すのだ。
「えっと、守屋さんのことは嫌いじゃないですけど…」
透はここの魚よりも視線を泳がせ、慎重に言葉を選ぶ。もし間違えたら彼は友人関係も簡単に手放しそうだからだ。透はそれを望んでいない。
「けど?」
「俺、女の人しか恋愛感情を抱いたことなくて…。あなたと同じ好きかどうか分からないです…。」
自分の中では精一杯の答えだ。苦しくなるほど脈拍が上がり、その沈黙が長ければ長いほど目の前の男を意識してしまう。もし目の前の男が恋人だったとして…そう考え出すと止まらない。様々な妄想が一瞬で脳みそを駆け巡り、透は己の思考に混乱するのだ。
「…分かりました。」
守屋はそれだけ言うと、視線をクラゲに戻した。そしてスマートフォンを取り出して写真を撮ると、何事も無かったかのように「深海生物のコーナー行きましょう」と透の手を取った。
その後巡った水槽の中身など、透は殆ど覚えていない。ただ隣の男をずっと意識し続ける羽目になった。
新幹線の席に着いた守屋は、通路真ん中、窓際の座席にゆったりと座り新聞を広げて、歩いてくる人々を物色する。何かに怒鳴り散らかす老人、電話越しで平謝りするサラリーマン、母の手を握る子供。目に入ったもの全てどれ程の価値なのか知りたくてしょうがない。
(あれは見るからに…あっちは少し重い?いやいやあれは世間的には価値がある方なんだろう…。)
その衝動を抑え込むため新聞で視界を塞ぐ。透との約束を守らなければと言う使命感が守屋にはあった。
(…透くん帰ってるかな?早く会いたいなあ)
少し猫背で、何時も引き攣った愛想笑いを浮かべる。大きな子供のような男だが、守屋は透を気に入っている。人目見た時から他の人間とは違う何かを感じたのだ。それが友情以上のものだと気がついたのも早かった。『魅力的な人間はあっという間に誰かのものになる』、職場の同僚がいつかそんなことを言っていた。…だから誰かに盗られぬよう彼に自分の素直な気持ちを伝えたのだ。返事は曖昧なものだったが別に構わない。透は伝えた直後から確かに守屋を意識していたのだから。
(今度部屋を片付けてあげよう、あんなに汚れてたんじゃどこに証拠が落ちてるか分からない)
透のことを考えているうちは、他の人間など目に入らない。機嫌良く鼻歌を歌っていると、「すいませ〜ん、隣いいです?」と中年の男が座る。その男は他の座席が空いているにも関わらずわざわざこの席を選んだ。
「…座りたいのならどうぞ」
守屋は横目でその男をチラリと観察する。スーツにカバン、サラリーマンだろうか。「いやあ、どうしてもここの席が良かったんでね」と胡散臭い笑顔を浮かべるのだ。守屋は無視して新聞に視線を向けるが、なんのつもりか男はこちらをじっと見ている。今までも知らない人間から視線を貰うことは多かったが、それはほんの一瞬で隣の男のように舐め回すようなものでは無い。
(うーん、あまり良くない感じだ。変な人なのかな…)
守屋は席を移動しようと考えるが、男は足を放り出して退かす気配がなく、意図的に逃がさないようにしている。守屋は諦めて窓の方に凭れるが、ガラスの反射でまだ男がこちらを見ていることに気がつき、気味が悪く感じてブラインドを下ろした。それでも視線が刺さって落ち着かない。
「…僕に何か用がありますか?さっきからこちらを見てらっしゃいますけど…」と思い切って聞いた守屋に男は缶コーヒーの蓋を開けながら否定した。
「いいえ?ほら私目が細いでしょう、そのせいかと」
確かに男は目が細い。だが問題は目の大きさではなく、人が不快になる行動だ。守屋は男に「じゃあ顔を向こうにやっててください」と冷たく言い放つ。
「ははは、随分冷たい対応ですね〜。聞いていた話と違うようだ」
「…?僕のこと知ってるんですか?」
男の視線がちらりと斜め前の座席に向けられる。そこに座る体育会系の男とアイコンタクトを取っていることに気が付いた。
「商社営業マンって儲かるんですか?いやあ羨ましい限りですよ。」
ぐびぐびとわざとらしく音を立ててコーヒーを飲み干した男はどうやら守屋の素性を調べているらしい。何が目的なのか分からないが、考えられるとしたら守屋の日頃の行いに対して警察関係者が目をつけたということか。
「うーん、すみません。どうしてもあなたの事を思い出せなくて。取引先の人でしょうか?」とわざとらしく返した。どれ程身辺を洗われようが一切取り乱すことは無い。守屋は自分が真っ当に生きてきたと言う自負がある。その悠然たる態度に付け入る隙はないのだ。
「あ、それとも違う部所の人ですか?…それか、僕の遠い親戚とか」
あくまで落ち着いた声色で間を確かめながら守屋は問いかける。『本当に思い出せず困っている』風に装って相手の出方を伺うのだ。
「…もしかしたら、私の勘違いだったかもしれないですねえ〜」
男はぽりぽりと頭を掻き、諦めたのかそそくさと荷物をまとめて席を立つ。そして何事も無かったように別車両へ移動を開始した。その後ろで体育会系の男がチラチラとこちらを確認しながら追いかける。やはりグルだったのだろう。
(透くんに言った方がいいかなあ。…でもこれは僕の話だし、…心配させちゃうかも)
守屋は新聞を丁寧に畳んで、誰も座らぬよう通路側の席にそれを置いた。そして更に鞄を置いて完成だ。
(…これで流石に変人は来ないはず)と自分を棚に上げてゆったりと残りの時間を過ごしたのだった。
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