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第7話
「今日からバイトする間宮さん、皆教えてあげてね」
小柄で可愛らしい彼女は、ぺこりと頭を下げて「よろしくお願いします」と細い声を発する。ボブヘアーは艶々で、手入れが行き渡っているようだ。
(か、かわいい)と率直な感想を抱くのは男として当然だ。
「坂森くん、君がホールのこと教えてあげてね。」
「え、俺ですか?」
「そう、頼んだから」
店長に頼まれたのでは断れない、と透は了承する。他の人間ではなく透が指名された、それは喜ぶべきだ。しかし若い女の子とどのように接していいのか分からない。それにアイドルのように清純そうな見た目は透を緊張させる。
「えっと、まず挨拶から練習しようか…」
「はい、お願いします!」
女の子らしい甘い香りに邪な感情が芽生えそうで透は隠れて腕を抓った。仕事に集中すべきだと言い聞かせて、必死にマニュアルを思い出す。その拙い説明を彼女はうんうんと頷くのだが、それもまた愛らしい。
「―ここまでで分からないこととかあった?」
「流れは掴めました。でも少し緊張しちゃって…」
「…初めは誰でも緊張するよ。俺も未だに緊張する時あるし…」
はにかんだ顔はやはり可愛らしい。こんな彼女が欲しい、とぼんやり考えて、透は頭を左右に振った。
(…こんな年下の女の子相手に何考えてんだ俺…。それにこんなに可愛い子と付き合えるわけない…)
自己嫌悪が今は良い薬だ。自分の価値を見誤ることが無い。透は引き攣った笑顔のまま「…次は掃除を教えるね」と次の工程へ移った。
「…その子、とにかく可愛いんですよ〜」
上機嫌に酒を飲みながら透はペラペラと話した。以前よりスッキリした室内は畳が見えている。物はまだ多い方だが、明らかなゴミは転がっていない。守屋が片付けてあげようと意気込んでいたが、透自身、心境の変化からか掃除をしたようだ。
「ふーん、それで?」
「その子に今度相談に乗って欲しいってご飯に誘われたんです」
つまらなそうにテレビのリモコンを弄っている守屋とは対照的に、その日の透はテンションが高かった。デレデレとした顔でその彼女のことを話すのだ。酔いが回りだしてからずっとその調子だ。
(…あの変な人のこと話そうと思ったけど…無理そうだなあ)
缶ビールをまた彼は開け、喉に流し込む。泥酔間近の男に、この間おかしな男が探りを入れてきた話をしても無駄だろう。
「あー、緊張するなあ、慣れてないんですよねあんまり…」
「…どうして透くんは嬉しそうなの?」
少し冷たくなった風が部屋に流れ込み、守屋は寒そうに腕を擦る。どこか寂しそうな表情など酔った透の目には入らないのだろう。今日は明らかに酒のペースが早く、おかしな酔い方をしている。守屋は飲み過ぎだと止めたが本人が聞かないのだからどうしようもない。
「だって、…その子…とにかくかわいいんです」
同じ言葉を何回も繰り返す透に、守屋はついムッと口を結ぶ。表情に出さぬよう気を付けていたがあまりに馬鹿らしい。
「…透くんはその子と付き合いたいの?」
「…俺なんか、あんな可愛い子と付き合えないですよ〜。付き合えたら付き合いたいけど…あ〜、眠い…」
机に突っ伏した男は、酔い潰れたのか直ぐに寝息を立てる。守屋はそっとテレビの音量を下げて、散らかりつつあるビールの缶をシンクに持っていった。
「僕の好きには応えてくれないのに…もしかして忘れてる?」
胸の中が寂しさで満たされて、息苦しい。…誰を殺しても得られなかった感覚は新鮮だがあまり心地の良いものでは無い。
「うわ、ゴキブリ…気持ち悪いなあ。」
シンクを這いずり回るそれに、守屋は食器洗剤を惜しみなく振りかける。バタバタと足を洗剤の海で泳がせる姿に不快感を覚えて眉を顰めた。守屋は大体の生物に対して感情を持ったことは無いが、ゴキブリだけは違う。昔からその姿が苦手だった。さっさとシンクから離れよう、その時机の上の透の携帯が振動する。…誰かから連絡が入ったのだろう。守屋は躊躇うことなく携帯を取り上げて、九を四回入力する。呆気なく暗証番号を突破した。透は少し不用心だ、今度注意しておかなければ。
「あ、この間のクラゲを待ち受け画面にしてるんだ」
守屋は満足気に微笑んだ。それは彼が携帯を触る度守屋との会話を思い出すということである。透は酒でデリカシーが無くなるタイプなのだろう。だから守谷のことを忘れた訳では無く、単に好みの女性に心が揺らいでいるだけなのだ。その心の揺らぎは下心で突き動かされていると断言出来る。
今はとにかく通知マークが表示されているアプリを開いて、ゴキブリのような不愉快の原因を探らなければ。
「…間宮穂乃美ちゃん、ねえ。『楽しみにしてます』だってさ。」
可愛らしい女の子は自分の顔を律儀に教えてくれる。画面を見つめる守屋の顔からすっと表情が消えていくのだ。(あ、これが僕の不快に思う元凶か)と納得する。
「明日、夕方六時に待ち合わせ…なるほど。」
守屋は携帯を元の場所に戻し、透の隣に座って缶ビールをチビチビと飲んだ。明日シラフに戻った彼になんて意地悪なことを言ってやろうか考えてその唇をつり上げるのだった。
「ごめんなさい、家まで送って貰っちゃって…」
大粒の雨がフロントガラスを殴るように叩く。ワイパーがそれを弾いたとしても、また直ぐに視界は悪くなった。
「いや、こんなに雨が降るなんて…むしろ連れ回したよなあ」
柄にもなくオシャレをして気合いを入れたのには理由がある。同じ職場の間宮穂乃美に食事に誘われたからだ。可愛くて愛想もいい彼女との食事となれば浮き足立つのは仕方がないことだろう。
「とても楽しかったですよ?…またどこか行きたいな」などと言われては運転に集中できない。(…誘われているのか?)と変な妄想を広げる。手汗がハンドルにまとわりついて気持ちが悪い。
「あ、ここです」
そこは五階建てのマンションだ。透のボロアパートとは違い外装も小洒落ている。透は傘を取り出して「入口まで送るよ」と格好つけた事をする。それ程彼女に意識して貰いたかったのだろう。彼女もそれを了承し、横殴りの雨の中二人は傘に収まった。
背の低い彼女が濡れぬよう、透は最新の注意を払う。必然的に距離が近づいて鼓動が高鳴った。彼女の小さな手が触れて、全神経が傘を持つ右手に集中するのだ。数メートルはあっという間でマンションのエントランスに着く。名残惜しさが二人の間で漂って、数秒無言の時間が流れた。口を開いたのは穂乃美の方である。
「ありがとうございます、ここまでわざわざ…」
「別に大したことじゃ…風邪ひかないようにね。じゃあまた…」
透が背を向けようとした時、「あの!…良かったらうちに上がっていきませんか?」と穂乃美が顔を赤らめて引き止める。流石にそこまで予想していなかった透は直ぐには返答できなかった。男としてはとても嬉しい誘いだが、人として彼女を好きになろうとしているのだから簡単にはいかない。しかし、女性からの誘いを断るのもどうなのだろう。視線を泳がせて、「いや、流石に…」と渋っていると視界の端に写った存在が透の下心を吹き飛ばした。
「…あ。なんであんなとこに…」
滝のような雨の中、傘もささず空を見ている男は普段の様子と明らかに違う。…今にも消えてしまいそうなほどその存在は雨にぼやけ、透の不安を煽った。それはおかしな事だ。…守屋はいつも透に安心を与えていたのだから。
(おかしい、…何かあったのか?それとも、約束を破って人を殺した帰り、とか…)
「…あの人、坂森さんの知り合いですか?」
穂乃美もその男に気がついて、訝しげな表情を浮かべた。
透は穂乃美に「ごめん、…今日はこれで」と断りを入れてその男の元へ走っていった。
「あ、坂森さん…!」
穂乃美のか細い声は雨に消える。
濡れたままの体は血の気が無く、髪から滴り落ちた雫はその手の甲に落ちていく。清潔なタオルなどこの車内にはない。
「なんであんなとこにいたんですか?…傘もささずに」
「………。えっと、散歩してただけです」
「こんな雨の日に?」
「………。」
透の言葉に守屋は鈍く頷いた。ちらりと横目で様子を伺うが、やはりいつもの男ではない。虚ろな瞳はこちらに向けられる事無くただぼんやりと外を眺めているだけだ。
信号は全て赤色で、この気まずい時間を長引かせる。先程とは違う手汗が滲んでくるのだ。
「…散歩にしても傘くらい持ち歩いて下さい。一瞬あんたが人でも殺しちゃったかと思ったんですから。」
ははは、と喉を絞り出して笑ってみせる。ただその場を和ませようと言った事だった。
「…僕は約束を破ったりしませんよ。そうしないと君は僕と一緒にいてくれないから。…でしょ?」
明るい声色は、あまりに痛々しい。透が心配しないようにという気遣いからか、無理やり笑ってみせる。
「いや、…そんなつもりは…」
「今日は楽しかった?」
「え?…えっと…」
透は重大な事に気がついた。なんと言っていいのか分からず口をはくはくとさせる。守屋は透に好意を寄せている。それに答えを出さなかったくせに、透は他の女性とデートをしたのだ。彼の態度がいつも通りだったから、透は有耶無耶に出来ると思っていた。我ながら最低な行動と思考回路だ。
「…ごめんなさい、俺」
「いいんですよ。昨日散々その子への恋心を聞きましたから。」
心当たりがある。途中で記憶がすっぽりと抜けていた。あろう事か恋心を寄せている人間に彼女の話をしたのだろう。あまりにデリカシーに欠ける行動に、透は低く唸った。
「僕は君と一緒にいていいの?確かに僕達は約束した。だけどお互いに納得していたから成り立っていたよね」
「そんなこと言わないでください。…俺はあんたが居て嫌だとか思ったことないです」
ちょうどスーパーが右手にあったので、透は話し合うために車を駐車場に停めた。サイドブレーキを引いて、パーキングに入れて…透はエンジンを切る。
「そっか。じゃああの子を諦める?」
「…諦めるって…えっと」
守屋の気持ちに答えられないにしろ一緒にいるなら彼女を諦め、彼女を諦めないのなら守屋と決別するべき、それが彼の主張だ。
「簡単ですよ。どちらが自分にとって価値があるのか秤に掛けたらいいんです。軽い方を捨てれば良いだけの話だ」
「…そんな簡単にはいかないでしょ。…あんたには簡単かもしれないけど…」
曖昧な答えに彼は悲しそうに目を伏せた。雨が更に強く降り続け、終いには雷が向こうの空からこちらにやってくる。
「透くんはあの子の事好きなんだね。」
「好き、というか…その…」
「乗せてくれてありがとう。僕は買い物してから帰るので君は先に帰ってください」
透の言葉を聞く前に、守屋はシートベルトを外して車から降りる。豪雨の中スーパーへ向かう背中にこれ以上余計な事を言いたくなかった。きっとこの優柔不断なまま彼を引き止めたとしても傷つけるだけだ。
「何やってんだ…俺」
ごん、と頭をハンドルにぶつける。クラクションが反応して慌てふためく姿はあまりに滑稽であった。
どん、と足元に落下する音。久しぶりの悪夢に、透は全身が泡立った。劈くような悲鳴と、低い唸り声。ズルズルと体を引っ張ってまた彼女はやってくる。足元から上ってくる彼女から目を逸らさずに、じっと耐えなければならない。
『痛い、痛いよぉ、助けて、助けてよ』と掠れた声で繰り返す彼女に透は謝り続けた。暫く我慢すればチャンネルが変わって現実に戻れる、そう思っていたからだ。
それは透の胸の位置まで折れた指で這い上がって、じっとこちらを凝視する。そして彼女は視線をゆっくり上の方へ向けるのだ。
(…なんだ?なにかいつもと違う…)
透も彼女の視線を追うように目玉を上に向ける。そしてすぐ後悔した。それはこちらをじっと見下ろす男がゆらゆらと足を揺らしていたからだ。
(お、親父まで…俺を責めるのか…)
落窪んだ虚ろな目は透が最後に見た姿のまま、ギシギシとロープを軋ませている。ぽっかりと空いた口から『助けてくれ』と低い声が雑音混じりに流れる。機械的で…抑揚のない声でずっと同じ言葉を繰り返すそれは、生前の父のものでは無い。
(あの女を殺したじゃないか!なのに何故いつまでも俺を責めるんだよ!!)
助けて欲しいのは透だって同じだ。この悪夢から救い出して欲しい、と誰かに叫ぶがここには透以外誰もいない。目も瞑ることも出来ず、耳を塞ぐことも出来ない地獄のような悪夢。部屋がぐるぐると回転し始め、ぐちゃぐちゃになったそれを見つめて透は発狂寸前だが、責め苛みはいつまでも終わらない。
ドンドン、と扉を叩く音が空間に広がる。部屋の端からジワジワと薄闇の空間が消えていくのが分かった。
「いんだろー!おーい!」
インターホンを連打する訪問者は、気が短いのか不躾にボロ屋の扉を叩く。巻舌で捲し立てるように何度も叩くものだから、悪夢もすっ飛ぶのだ。ハッと覚醒した体は汗だくで布団からはみ出し汚いゴミの上でおかしな体勢になっている。
「居留守か〜?…ったく、心配して来てやってんのに…おーーい!このドアぶち壊すぞ!」
普段ならば腹が立つが、悪夢から抜け出せずにいた透にしてみれば感謝しかない。重い腰を持ち上げて、玄関先へと向かう。
「…はい、どなたですか」
扉の先には派手好きなのか趣味の悪いアロハシャツを着て、ピアスだのネックレスを身につけた柄の悪そうな男がいた。どこをどう見ても半グレにしか見えず、透は肩にぐっと力を込める。男は透の顔を見るなり「やっちまった」と鼻をひくひくさせ、頭を搔いた。
「…えっと〜守屋の部屋って…ここじゃなかった?」
「…守屋さんは隣の部屋ですけど…。お知り合いの方ですか?」
「あ〜、…すんません。同じ会社の同僚でして…。守屋帰ってないんですかね」
会社の同僚、…このような半グレの見た目でも働ける会社とはなんだ?と疑問に思ったものの、見た目で判断するのは良くないと思い直す。
「守屋さんは…多分、一週間程…帰ってないみたいです。てっきり仕事が忙しいのかと思ってたんですけど…」
あの一件から、何となく顔を合わせづらくて…透は守屋を避けていた。それは彼になんて言葉を掛けていいのか、どう接すればいいのか分からなかったからだ。
「いや、実は職場にも顔だしてなくて。…あんなことがあったから…」
男はコンビニの袋をガサガサとさせると、落ち着きなく視線を泳がせた。何か彼にあったのだろうか。
「…あんなこと?」
「いやあ、これはペラペラ喋るような内容じゃないから…」
男は言いたいのだろう、口をモゴモゴと動かして必死に理性で留まっている。あと一押しが必要だ。会社で何か起きたとしたならば、透には一つ思い当たる事がある。
「もしかして、…恋人関係ですか?モデルみたいな…」
「お!まさか聞いてる?…なら話してもいいか」
どうやら当たりだったようだ。そう言えば以前彼女は言いふらすと宣言していた。その後どうなったか透は守屋に聞かなかったし、彼も何かある素振りは一切しなかった。
「その子が社内中に『あいつは男と浮気していた!』って言って回っててね。…あいつを敵視してる連中が取引先に変な噂を流して契約取らせないようにしたりだとか色々あったんだ」
その話が本当なら、守屋はとても辛い状況にあったはずだ。それなのに一切そのような様子を見せずにいたのだろうか。何だか胸が圧迫されて苦しくなってくる。罪悪感がまた脳みそに埋め込まれる。
「あいつは変人だけどよ、仕事を無断欠勤するようなやつじゃねえし…。病気か?って思って来たんだけど、家にも帰ってないとなると益々心配だ」
彼が握っていたコンビニの袋は守屋へのお土産といったところだろう。どうしたものかと頭を抱える男は、守屋の部屋のドアノブにそれを掛ける。「もし帰って来たら、会社に電話するよう言ってくれないか?」と透に頼み、彼は肩を揺らしながらその場を後にした。
「…どうして間宮さんがここに?」
間宮穂乃美の隣でニンマリと笑う糸目の男は、透の食事の時間をぶち壊しにした。
落ち込む日は気分を変えなくては、そう思ってラーメン屋の暖簾を潜った。今度は味噌以外のラーメンも食べてみようと意気込んでやってきたが、入った瞬間全身の筋肉がぴんと張り詰める。
それは以前透を殺人犯だと疑っていた刑事と、間宮穂乃美がラーメンを啜りながら話をしていたからだ。
「坂森さんもここ知ってたんですね。」と少し驚いたように穂乃美は箸を止めた。
「あ、はは。近所なもんで…」
視線を合わせられないのはこの間彼女の誘いを強引に断ったからだ。しかし穂乃美は直ぐに「ここのラーメン美味しいですよね!」と気にしていないように振る舞う。一先ず透も何事もないように心がけた。
(それにしても…なんで間宮さんがあの刑事と一緒に…?知り合いだったのか?)
今日はさっさと食べて、何事も無かったように帰る事が一番賢いだろう。引き返そうものならあの糸目の奇天烈刑事がおかしな疑いをかけるに違いない。透は穂乃美の席から一つ空けて腰を下ろし、即座に以前食べたラーメンとチャーハンを注文した。
「坂上さん、でしたよねえ。その節はどうも〜」と、頭を覗かせる。胡散臭い笑みが視界の端にいるが、透は目を合わさずお冷を口に含む。
「…"森"です。…えっと堂上さんでしたっけ」
「覚えててくれたんですね〜。余程根に持ってらっしゃるようで」
その挑発に乗らぬようぐっと歯を食いしばる。ムカつくものはムカつくが、今は店主に(早く作ってくれ!)と念を送ることしか出来ない。
「叔父さん、失礼なこと言わないで!…坂森さんごめんなさい」と穂乃美が堂上に釘を指した。どうやら二人は叔父姪の関係らしい。…知りたくない事実だ。
「はい、ラーメンとチャーハンね」
ようやく完成したラーメンとチャーハンに、透はほっとする。相変わらず美味そうな湯気を上らせるものだから、腹がギューギューと鳴った。穂乃美と堂上は何やら声を潜めて話している。構うものか、口を開けてその麺を啜ろうとした時、穂乃美がそれを制止した。
「あの、坂森さん…ちょっとお話があります」
丸めた雑誌を躊躇うことなくそれに命中させる。…壁に体液を擦りながらずり落ち、ぴくぴくと空を搔くように足をばたつかせて息絶えるのだ。後脚が折れ曲がり、|臀《しり》から腹の中身が飛び出て実に不愉快な気分である。
「…薄気味悪い」
男は備え付けの冷蔵庫からタッパーを取り出す。慎重に蓋を開けると、そこには少しくすんだ黒い外骨格の虫が無数に詰められている。今にも飛び出しそうな触覚や足に触れぬよう注意しなければ。コンビニの割り箸を開封して丁寧にそれを挟むと、折れ曲がっていた足がちぎれて落ちる。嫌そうに顔を歪めながら落ちた足一本も残さず押し込んだ。
「うぇ、清潔そうなホテルだと思ったのになあ。ま、集まったから良しとするか」と大きな独り言を呟きながら、蓋をしっかりと閉じる。これは気持ち悪いがとても重要な物だ。男はまた冷蔵庫に入れると、そそくさと手を洗いに行く。
ゴシゴシと泡立てて手を洗っていると、ズボンに入れてあるスマートフォンがチロチロと音を立てて騒ぎ出すのだ。どうやら昨晩天気を見るため電源を入れたが、切るのを忘れていたらしい。
「…はあ」
眉間に深くシワを寄せて濡れた手をタオルで拭く。その間もずっと鳴りっぱなしで五月蝿いので仕方なく"誰"かだけ確認しておこう。
画面には『|明見《あけみ》さん』と表示されている。事ある毎にかけてくるので嫌気がさして直ぐに電源を落とした。
「一週間か、…透くん元気にやってるかなあ。」
そう言いながらソファーに腰掛ける。本来ならばゆっくりと思い出に浸れるはずだが、壁を黒い物体が触覚を揺らしながら這いずり回っている姿を発見してしまう。もう既にタッパーは満員だ。
「こんな部屋じゃ寝れやしないじゃないか」
男は|眼輪筋《がんりんきん》をぴくぴくと震わせながらフロントに電話する。…明日から違うホテルに滞在しようと考え、「ゴキブリが沢山出るので部屋、変えてください」と申し出るのだった。
話がある、そう言われ透は何かよからぬ事になるのではないかと予感する。それは穂乃美を挟んだ向こう側の男がこちらを窺うように覗き込んでいたからだ。彼女と話すことは嬉しいが…その奥の堂上とは話したくない。
「話って…?何か俺に関係があることだったり…」
声が上擦らぬよう咳払いをして、やましい事など何一つない顔で会話するのだ。足が落ち着きなく揺れぬよう、腕で押さえつける。
「…実は、ある人物について坂森さんに聞きたいことがあります」
「…人物?」
透の事を根掘り葉掘り聞かれるのかと心配していたがそうではないらしい。一時の心の安寧は確保出来た。
「この間私、家まで送ってもらったでしょう?…その時坂森さんの知り合いの方なんですけど…」
「…え?」
(まさか、…守屋さんの事を聞きたがっている?)
収まりかけていた貧乏揺すりが酷くなって、やけにラーメンの湯気が顔にかかって熱い気がする。油まみれになった顔を透は擦った。
糸目の奥がぎらりと光る。…それは状況が良くない方向へと向かっている証拠だ。
「あの男の人です。…知り合いなんでしょう?」
「ええ、まあ。…俺の隣に住んでる人だよ」
「お隣さん…ですか。坂森さんは、…大丈夫なんですか?」
穂乃美はそれを聞くと表情を暗くした。テーブルの上の小さな手がかすかに震えている。「大丈夫というのは?…どういう意味?」と返しても彼女は口を噤んだ。見兼ねた堂上が肩肘を付きながら話に割って入る。
「話が進まないからさっさと言いますねぇ〜。坂森さん、お宅の隣人なんですがね、…なにか怪しい行動とか見かけたことない?」
堂上は躊躇うことなど無く核心に触れる。彼はもう笑ってはいない。事件の捜査をする刑事の表情になっているのだ。
「例えば、夜中にガサゴソ音が聞こえる、とか。おかしな匂いがする、とか。庇おうなんて馬鹿な真似はしない方が身のためですよ〜」
「…特には…。ちょっと変わってるとは思いますけど」
彼らは一体守屋の何を疑っているのか。この間の男か?それともそれ以前に彼が殺したであろう人のことか?…正直どれの事か分からない。なんにせよ透が守屋のことを話すわけはない。罪を犯しているのは自分も同じなのだから。
「確かに彼、変わってますよね〜。通勤に態々新幹線で一時間、なんて中々に面倒くさいじゃないですか。」
「…そうなんですね。俺そこまで知らなかったです。…あの人一体何したんですか?」
(…こいつ、どこまで知ってるんだ?)
透はチャーハンをレンゲに乗せて、余裕ぶって口に含む。あんなに美味しかったはずなのに残念ながら味がしない。堂上は少し考えると、穂乃美にアイコンタクトを送る。彼女は震える肩を抱きながら、深くゆっくり頷いて重い口を開くのだ。
「あの…男はね、私の兄を殺した男なんです」
涙が目の端に溜まって、…やがてそれは油まみれのテーブルに小さな水溜まりを作った。
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