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第8話

買い物カゴに詰められているのはカップ麺や気まぐれに選んだパンとお菓子、そしてビール二缶だ。平日の昼過ぎ、普段ならばまだ会社にいる時間帯だ。…ホテルに帰って酒を飲む、それはとても清々しい気持ちになることだろう。 「ままー、あれ食べたい」 守屋の前に並ぶ母子は、後ろの殺人鬼に気が付かない。まさか、自分の後ろに並んでいる人間がそうだと思うわけはないのだが。 (ああ、早くして欲しいな) そうしなければ良からぬ考えが頭に浮かぶ。好奇心を抑えられるうちに、コンビニから立ち去らなければならない。 「しょうがないなあ。一つだけだからね」 (…この子を殺しちゃったらお母さん、悲しむよね。) 幼い子供が亡くなると、周りの人間は皆可哀想だと口にした。例えば会ったことすらない子供でも、大抵の人間はそう言うだろう。きっと目の前ではしゃぐこの子を殺したら世間は可哀想だと言う。そうなれば、罪悪感とかいう奴で死にたくなるのだろうか。 ゴクリ、と飲み込んだ生唾は周りに聞こえそうなほど大きい。人目など気にせず目の前の子供の首を絞めたい衝動に駆られる。伸ばしそうになる右手を必死で左手で抑え、手の甲に爪がくい込んで血が滲んで治りかけていた傷が開くのだ。 (駄目だ!約束を破る訳には…) 「次の方どうぞ〜。」 ようやくレジまで辿り着いた。母子は出口に向かったのでひとまず安心だ。「袋いりますかあ?」と面倒そうに聞いた彼女に次は視線がいく。 目の前の店員は、先程の子供とどちらが価値があるのだろう。世間が騒ぐのはいつだって子供だろうが、…まさか何かの手違いで彼女の方が騒がれたり…考え出すと止まらない。 「…千七百十五円です」 小銭を出す手が震え、上手く取り出せず後ろにどんどん人が並んでしまう。店員は傷だらけの守屋の手を訝しげに見つめ、一歩距離を取った。トレーに乗せられた一万円札は赤い染みを付けている。 (…どうしよう、日に日に酷くなってる) 初めは眠りが浅いだとか、寝付きが悪いだとかその程度だったが、 最近は些細なことで苛立ったり、こうして街に出ただけで強いストレスを感じる。 「…ッチ、会計終わったならさっさとどけよな。」 と背後から割って入ろうとする男にどん、と肩をぶつけられて、財布に入れようとしていた小銭が地面にばら撒かれた。逃げるように小銭は四方八方に転がってしまうのだ。もし悠長に拾っていては、価値無しの命を間違えて殺めてしまう。それほど守屋は飢えていた。 (早く、早く人のいないところに行かないと…) 小銭をそのままにしてコンビニから出る。だがそれで終わりではない。 街中には誘惑が多すぎる。すれ違う人間が善人であればある程その価値を知りたくなるのだ。人目など気にせず全速力でホテルへ帰らなければ、その一心で地獄のような道を行くのだった。 「はあ、はあ…」 扉が乱暴に閉められる。肩が上下に揺れて、ダラダラと額から汗が吹き出して、やっと辿り着いた静寂に両目から涙が零れる。 「悲しいわけじゃないのに、何故…だ?ああ、お腹空いてたのかな」 ふらついた足でよろよろとベッドまで向かう。尻もちを着くように腰掛けて、先程コンビニで買ったパンを食べることにした。封を切る指は血だらけで汚かったが、別に構いはしないだろう。 「いただきます。」と感謝し口に含もうとした時、テーブルに置いたままの不快な着信音がチロチロと鳴り出した。『明見さん』、その表示に守屋は眉を寄せる。 (…三週間も経っているというのになんの用だろう?仕方がない、一度出たらあとはかけてこないだろう) 「…はい、守屋です」 『兄を殺された』、彼女は確かにそう言ったのだ。冷えきったラーメンは湯気ひとつ立たない。小さな嗚咽がやけに耳にこびりついて離れず、じくじくと胸の奥を刺すような痛みが強くなる。 「あの人が、…本当に間宮さんのお兄さんを?でもそれならなんで警察は…」 透の視線は堂上に向けられる。彼はコップの氷をガリガリと噛み砕きながら「それは確固たる証拠がないから」と言う。だが透は知っている。案外警察は間抜けな連中だと。現に透が殺した女の事も、守屋が殺した男の事も、何一つ見抜けていないではないか。 「ああ、ちなみにですがね。少し前捕まったでしょう、…アレね、嫌疑無しで不起訴処分になりました。」 「…なんの事ですか」 「だからまた坂森さんを疑わなくてはいけなくなりましたね」 見透かしたように堂上がニンマリと笑う。この男はやはり曲者だ。…少しでも侮った自分が情けない。透は「…俺はやってませんよ…。そう言ったでしょ」と呆れた振りをしてみせる。誤魔化せたとは思えないが、何も言わないよりはマシだろう。 「それに…証拠が無いのに、何故守屋さんが殺ったと言えるんですか?」 透は知っている。守屋が証拠隠滅する事に拘っていないことを。彼は男を殺したあと、ベタベタと死体を触っていたし、本当に隠したいなら住宅地に遺棄などしないだろう。指紋や頭髪など恐らく死体には着いているはずだ。それなのに証拠が無いと言っている。それは自分達が無能であると言っているようなものだ。…それとも透を試しているのだろうか。 「だから貴方に聞いてるんですよ。何かおかしな行動をしてませんでしたか?…って。」 その細い瞼の奥の黒い目は確実に守屋が人殺しであると言っている。そして、透が何かしら手を貸していると疑っているのだ。どう答えたなら、この男を納得させることが出来るのか透には分からない。とにかく何も知らない、という事がいいだろう。 「証拠が無いってことは犯人ではない、という事はないんですか?…何故あの人が犯人だと思ったのかその経緯が無いと」 透と穂乃美の"大切な人を亡くしている"という共通点は本来ならば二人の距離を近づけるものだろう。それが犯人が守屋ではなかったら、の話だが。 (ううう、なんで俺があの人の罪悪感まで背負わないといけないんだ…) 胃が絞られ、体が重くなる。これは心が負荷に耐えかねているサインだ。酷くなればまた脳みその中から嫌な幻聴が聞こえ始める。そうなる前に早く話を終わらせなければいない。 「…私が見たんです。あの男が兄を殺したところを」 穂乃美の言葉は透のストレス爆弾をまた一つ膨らませる。今なら少し指で触れただけで破裂しそうだ。体が拒絶からか逃げようとする。それを理性で硬い椅子に縛り付けているのだ。聞かなくてはいけない、透は言い聞かせて彼女の話をじっくり聞いた。 十年ほど前、季節はやっと暑さも落ち着いた頃、両親が二日ほど家を空ける事があった。穂乃美は一回り年の離れた兄と家で留守番する事になったのだ。 彼は乱暴者で、どうしようもない人間だったが年の離れた穂乃美だけは良く面倒をみた。勿論兄の権限だとこき使う事もあったが。 『おい〜、穂乃美。まじでそこで寝んの?』 『うん、だってお兄ちゃん扇風機強くするから、寒いんだもん』 穂乃美はその日、寂しさから兄の部屋で一緒に寝たいと申し出た。初めは嫌がっていたが、穂乃美が不安そうな顔を見せるとしょうがないと部屋に入れてくれる。 『でもよぉ、押し入れで寝るんだったら俺の部屋じゃなくても…』 『穂乃美が怖い時直ぐにお兄ちゃん呼べるもん。それに扉は開けとくんだから』 『まあ、別に俺はいいけど…。せめて上の段にしろよ、ホコリすげーからさ』 兄が近くにいると安心した。だからかその狭く暗い空間でも直ぐに眠ることが出来たのだ。 床を足で踏み鳴らす音、衣擦れと、誰かの乱れた呼吸。 一時間か、数十分か、穂乃美は物音で目が覚める。その時まず思ったのは(あれ?ふすま、開けておいたのに…)だった。 兄が閉めたのか、ほんの数センチだけ空いたそこから光が漏れている。音はまだ続いている。それどころか激しさを増していて、穂乃美は怖かったが隙間に顔を押し付けた。 暖色の間接照明、開きっぱなしの雑誌、ぐちゃぐちゃにシワの入った布団。その上でバタつく足は徐々に力なく伸びていく。穂乃美に見えるのはそれだけであったが、その足が兄のものではないかと嫌な予感が働いた。 (お、お兄ちゃん…?) しん、と音が無くなる。この暗闇が恐ろしくて、襖を開けて確かめようとそっと手をかける。細く小さな指でほんの少し隙間が広がった。だが直ぐに誰かの気配を感じて穂乃美の指は固まった。音程の外れた不安定な鼻歌が聞こえて来たからだ。それは男の声だが兄のものでは無い。 何やら動かなくなったそれの向きを変える為にずりずりと体を引っ張っているようだ。 (…そんな…) そしてついに見えた兄の姿はだらりと脱力して…幼いながらに生きていないと確信した。 見慣れない男の背中。体型は中肉中背で、兄よりは身長は無いだろう。そいつは兄の頭を持ち上げて、丁寧に枕を入れる。乱れた服を正して、広がった腕や足を真っ直ぐに整えるのだ。 『…方角良し、これは僕からの気持ちだよ。受け取ってくれる?』 返事はないと分かっているはずだが、男は花を一輪一輪兄の枕元に並べる。男は兄の顔を覗き込んで、『君なら、…と思ったのに』と惜しむように兄の頬に触れた。 形の良い鼻、薄いが整った唇、きらきらと涙に濡れる茶色の瞳。穂乃美は確かに見た。その悍ましい物体を目玉から視神経を通し脳みそに焼き付けたのだ。 『…』 隙間の光が遮られる。 立ち上がった男の背中がすぐ間近で光を遮っているのだ。穂乃美は見つかってはいけない、そう思って口を両手で塞いだ。目の端には恐怖と悲しみの涙がたれ流されていたが、その雫一粒でも落ちたなら気が付かれそうだ。 男はしばらく部屋を見渡して異常がないかを確かめる。穂乃美は体を極限まで小さくしてその目に入らぬよう祈った。 (見つかったら殺される…!) 『そう言えば…歳の離れた妹、いるって言ってた』 その言葉に思わずひゅっと息を吸い込む音が鳴ってしまう。太鼓のように鳴る心臓さえ男に聞かれている気がして、気を失いそうだ。 男は部屋を出て隣の部屋の扉を開けた。…穂乃美を探しているのだ。壁一枚挟んだ向こう側で男の微かな足音が聞こえる。 穂乃美が居ないことを確かめたあと、また兄の部屋に戻ってきて何やらゴソゴソと作業し始める。これは予想だが、使った物を片付けているのだろう。 『そろそろ帰るか。…じゃあまたね。優希くん。次会うときは極楽浄土で』 と男は兄に最後の別れを告げて、まるで何事も無かったかのように掃き出し窓をからからと開けてその場を後にした。 自分以外の人間が、どうやって罪悪感から逃れているのか透には分からない。ベランダでタバコを吸いながらちらりと隣のベランダに視線をやるが、彼は帰っていない。 間宮穂乃美の話を聞いた透は目に見えて窶れていた。職場で彼女と会ってもなんだか気まずく、自然体では居られない。『何かあった時に』と彼女は叔父である堂上幸之助の電話番号を教えてくれたが、電話することは無いだろう。 彼女は兄を守屋に殺された。透は彼女に心から同情して、守ってあげたいと強く思った。だがもう一方では守屋を庇っている自分がいる。それは自分を守るためではあるが、全てではない。淡い恋心を叶えるために彼女を選んだとしよう。すると常に透は堂上の影に怯えながら生活しなければならない。透の罪を肯定し安心を与える悪魔を選んだなら、人として終わる気がする。 …今こそ彼が言ったように秤にかけるべきなのだろうか。 (ウジウジ優柔不断じゃいられないよな…) しみじみと考え込んでいる最中、透の部屋のベルが鳴らされる。宅配か?とタバコを床に落とし足で火を消して、のそのそと玄関に向かう。…訪問者はとてもせっかちなのだろう、ほんの数十秒も待てないらしく、何度も何度もベルを鳴らすのだ。 「はい、…て、えっと、…」 「いやあ、急にすんません」 扉の向こうにいたのは、守屋の働く会社の同僚と自称する男だ。今日はスーツを着て、髪を七三分けにしているので半グレには見えないが、人の家のベルを何度も鳴らす行動だけは変わらない。 「…守屋さんまだ帰ってないですよ」 「あー、うん。それはそうじゃないかと思ってます。会社にも来てないんで。」 この男が以前訪ねてきてから三週間。その間も会社へ行っていないとなると、透は不安になる。…彼は今どこで何をしているのか、まさか事故や事件に巻き込まれていないだろうかと余計な事まで考えなくてはいけない。 「お隣さん、あいつと連絡取れた?」 「いえ、俺守屋さんの連絡先知らなくて…」 「え?そうなの?てっきり知っているもんだと…」 それは透自身も驚いている。彼に深い悩みやトラウマを打ち明けて、酒を飲んだり出掛けたりしていたが、彼と連絡を取れる手段はない。思えば透は彼の年齢も…名前すら知らないのだ。 (俺、あの人が殺人鬼って事くらいしか知らないんじゃないか) 「ほら、コールしても全然出ないでしょ」と男は守屋に電話を掛けているようでスマートフォンの画面をこちらに見せる。確かに呼び出しているが出る気配がない。 『…はい、守屋です』 数回呼び出した後、予想外にそれは繋がった。「つ、繋がってますよ」と男に教えると、彼は目をむき出しにして驚いた。恐らく何度もかけたが守屋は出なかったのだろう。「もしもし?」と自らの左耳に押し当てて会話をするのだ。 「お前、大丈夫なのか?…いや、まあ会社は予想している通りだが…今どこにいるんだよ」 彼らが何を話しているのか透に知る権利はない。透は守屋を傷つけた自覚がある。だから彼が酷いことになっていたなら罪悪感に心がぽっきり折れてしまいそうだ。 男はこちらをちらちら見ながら会話している。本気で守屋を心配していたのだろう、彼もまた安堵している。 「え?…俺?俺は今お前んとこのお隣さんと話してたとこよ。…そうそう。うん、…代われって?…えっと、お隣さん、守屋が代わって欲しいつーから」 男に差し出されたスマートフォンを透は素直に受け取った。何を言っていいか分からない、どう接すれば?などとは考えないようにした。 「…守屋さん?」 『透くん?…元気にしてた?』 久しぶりに聞いたその声はなんだか細く元気がない。向こう側は静かな場所なのだろう、しんとしている。 「あんた今どこにいるんですか?」 『適当なホテルです。場所は秘密ですよ。』 「ふざけてないで、どこにいるか教えてください。…今から行きますから」 『…心配しないで。約束はちゃんと守ってますから。君の事も誰にも話していない』 「そういう話じゃない!!」とつい歯痒さで声が大きくなる。 『…怒鳴らないで』 透は守屋が人殺しをしていないか、透の事を誰かに言ったのではないか、という心配をしていない。単純に彼自身を案じている。だが彼になぜ分からないのかと責めることは透には出来ない。責めるならば自分の不甲斐なさだけだ。 「…すみません。俺が言いたいことはそういう事じゃないんです」 『…僕は人の感情に疎いから、つまり君が言いたいことって?』 ふたつの存在を皿に乗せることすら怖がっていた。どちらかが重いなら軽い方を捨てなければならない。かと言ってどちらも均等だったとしてもどちらも手にする事は出来ないのだ。結局選ぶのは秤などではなく透自身だ。 「…あんたが約束を守り続けるって言うなら、…俺にだって約束を果たす義務がある」 誰かが選んだのではない。その言葉は紛れもなく透が選んだのだ。 背の高いビルの隙間から夕日が下る。雑踏からほんの少し離れた広場にはカップルでベンチは埋まっていた。肌寒くなったと言うのに、半袖で辺りを見渡して不安そうに両腕を組む、きっと彼は身一つで出てきたのだ。落ち着かないのか足踏みしてみたり、スマートフォンを取り出して時間を確認する素振りを見せた。人混みに怯えているくせに小さな勇気を振り絞って自分に会いに来たという事実に胸が満たされていく。 (もう少しだけ観察しよう)とこそこそと木陰から見ていると、その目がこちらを捉えた。 「あんたね、居たなら声掛けてください…」 今にも泣き出しそうになって顔を地面に向ける、きっと透は安心して涙腺が緩くなっているのだ。それが堪らなく嬉しくて、思わず彼に抱きついた。 「ちょ、…人が沢山いるんですけど…」と困ったように、だが引き剥がさぬ透に久しぶりの充足感を覚える。不安や衝動も嘘のように消え去るのだ。 「会いに来てくれてありがとう、嬉しいです」 周りの人間の価値なんてどうだっていいと思えるほど、彼の温もりが守屋には必要だった。 「…あの、ここじゃ話が出来ないので人のいない所に行きませんか」 透の言葉に守屋はそっと体を離した。嬉しすぎて行動が暴走する事は滅多にないが足が勝手にスキップしそうだ。やっとまともに見た彼の顔はまた少し窶れている。眠れていないのだろう、薄らと出来た隈…やはり彼には自分が必要不可欠といえる。 「そうだね。実はここから僕の実家が近いんです。良かったらそこでもいい?」 「そうなんですか?…でもご両親とかいらっしゃるんじゃ…」 「今二人とも旅行してるんだ。嫌じゃなければだけど」 「嫌という訳じゃ…」 「じゃあ決まりです。案内しますね」 守屋は透に会った時、予感していた。そしてその予感は今日確信に変わる。 (透くんをもし殺してしまったら、僕はきっと死にたくなる!) 守屋の実家まで十数分、話しながら歩いてきたのに透は守屋が刑事に疑われている事を言えずにいた。 「お邪魔します」 どこにでもあるような二階建ての家は築年数は経っているだろうがとても綺麗に掃除されている。玄関の靴箱の上には小さな招き猫の置物やよく分からない木彫りのモニュメント、…旅行先で買ったのだろうか。その横に家族写真が飾られている。そこには幼い守屋とその両親が笑顔で写っているのだ。 (…家族と仲が良さそうだ。あの人も人の子、か)と妙な感覚を覚える。仲睦まじい家族に胸が締め付けられた。 「透くん、二階の奥の部屋に行っておいて。僕お茶入れるので」と彼は一人台所に消えていく。仕方が無いので透は暗い階段を恐る恐る上る事にした。 ぎしぎしと軋む階段を上ると一本に伸びた廊下がぼんやり浮かんでいる。左右に部屋が一部屋ずつ、そしてその奥、正面に扉がある。恐らくそこが彼の言っていた部屋だろう。人の部屋を開けるのは気が引けたが透はそっとドアノブに手をかけた。 その部屋は勉強机や背の高い本棚、ローテーブルとベッド等が置かれている。…今住んでいる部屋よりも広くまともな部屋だ。難しそうな書籍から絵本まで、ジャンルに拘りは無い。その中に、一つ気になるものを発見した。 (あ、卒業アルバム…) 透はまだ階段を上ってくる気配が無かったので悪いとは思いながらそれをそっと抜き取った。守屋という男を少しでも知るいい機会だ。 (西高校…男子校出身なんだ。…二十六年度…てことは守屋さんは俺の二つ年上) 赤い背表紙の年数で初めて守屋の年齢を知る。そして適当にページを捲ると集合写真に守屋の姿を見つけた。学ラン姿の彼は変わらず涼し気な顔で立っている。守屋の友人だろうか、肩を組む男子生徒はいかにもやんちゃをしていそうな風貌だった。 (ヤンキーの中に居ても堂々としてるのは流石だ。) 透は更にページを適当に捲った。守屋はどこのクラスだろう、生徒写真を探していると、ある写真に目が止まる。それは先程守屋の隣にいた生徒だ。曇りなく豪快に笑った笑顔の下に『間宮優希』と記されている。 (…間宮さんのお兄さん、…友達だったのか) 守屋が穂乃美の兄を殺した、そう確信して透はゴクリと唾を飲み込む。卒業アルバムに載っているということは、守屋は卒業後に彼を手にかけたのか?…透は同じページに守屋を探すがどうやらクラスは違うようだ。次のページだろうか。 「懐かしいなあ。もう十年も前になるのか」と背後からぬっと顔を出した守屋に透はアルバムを床に落とした。 「うわあ!…も、守屋さん…ご、ごめんなさい勝手に見て」 透はそれを拾い上げて元の場所に直す。夢中になりすぎて守屋の気配を感じ取れていなかった。 「ん?構いませんよ。僕、見つかりました?」 「集合写真のやつだけ見つけました。男子校だったんですね」 「楽しかったなあ。そこ座ってください。お菓子も持ってきましたよ」 守屋は黒いトレーから湯のみ二つ、そして茶菓子を並べる。透は促されるまま出口を背に座った。守屋はテーブルを挟んで向こう側にちんまりと三角座りするのだ。 「ねえ、透くんはどうして僕を選んだの?あの子の事好きだったでしょう?」 透はやはり言い出せない。間宮優希を十年ほど前に殺害し、その現場を妹が目撃していた事、…そしてその叔父である刑事に目をつけられている事。話すなら今このタイミングだろう。 (待てよ…もし、間宮さんが見ていたと知ったら、…この人は行動に移すかもしれない) そうなれば最悪の結果になる。守屋が間宮穂乃美を手にかけるような事があれば堂上の欲しがっていた証拠を自ら提出するようなものだ。それだけは何としてでも阻止しなければならない。…透は穂乃美の兄の話や堂上の件について話さないことにした。 「確かに好きでした。…でもそれだけです。」 見た目も声も性格も、間宮穂乃美は完璧だった。愛嬌もあるし守ってあげたくなる、しかし一番重要なものは心の解放だ。彼女を選べばそれは出来なくなる。 「それにあんたの事…単純に忘れられそうもなかったからです。…居心地が良くて、正直あんたに告白された時戸惑いました。でも嫌じゃなかった」 透の迷いはただ守屋が男だからという所だけだ。もし彼が女性だったなら事は円滑に進んでいたはずだ。だからフラフラと感情を迷わせ、言動を二転三転させてようやく考えが纏まりつつある。 「じゃあ、試してみます?」 「…試すって?」 「うーん、そうだなあ。手始めにキスから。男友達とキスはしないでしょう?」 守屋は涼し気な顔のままそう提案した。その薄い唇がキュッと吊り上がり、透はドキリと心臓が絞られる。確かに試した方が早い。 「君が躊躇うなら僕がしましょうか?」 「い、いや、…俺がします。…目、瞑って下さい」 守屋を選んだ時点である程度の覚悟は出来ていた。たかがキスくらい何ともないだろう…と言い聞かせる。 守屋は頷いて、ゆっくり瞳を閉じる。長いまつ毛が伏せられ、あとは透が行動するのみだ。 体を机から乗り出してその頬を震える手のひらで包み込む。意を決してその唇にそっと唇を重ねた。そこには男女の違いなんてものはあまり感じない、あるのは透を包み込む安心だけだ。 「…どうだった?」と唇がゆっくりと離れ、彼に問われた時透は名残惜しさに何も答えられなかった。そんなことは今まで無かった。性欲で突き動かされた事はあっても、心の底から湧き出る深い愛情は誰にも感じたことの無いものである。家族?恋人?親友?そんな形に捕われるものではない。 「…やっぱり嫌だった?」 不安そうに彼は自分の肩を擦る。その不安を取り除けるのは透しか居ない。透の不安もまた彼が取り除くのだから。透は真っ直ぐに守屋の瞳を見る。 「俺は、…あんたが必要だってことが今わかりました。」 守屋を選んだことでこの先の人生がどのような事になっても自分で決断したのだ。これから死ぬまで透は罪悪感を抱え続けるだろう。だがその決断から逃げも隠れもしない、そのくらいの男気は自分にある筈だ。 「これから…よろしくお願いします」 差し出した手を守屋は躊躇うことなく握る。どちらも骨ばった男の手だがそれでいいのだ。 「こちらこそ、よろしくね。透くん」

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