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第9話
何かがおかしい、それは女の勘だ。
「ねえねえ、やっぱりいいよね!」
「わかるぅ〜、あたし狙ってるんだよねぇ」
作業の手を止めて彼女らは大きな内緒話だ。穂乃美は彼女らの話には加わらないが、聞き耳はぴんと立てている。…普段のどうだっていい話には興味はないが、彼女らが話題にしているのは最近気になっている年上の男性の話だ。
「前は根暗ぽくてあんまりだったけど、隠れイケメンってやつ?」
「それに最近なんだか男らしくなった?って感じ」
注文を取る彼の背中を穂乃美はチラチラと目で追う。やはり気になってしょうがないのだ。
(…最近確かに雰囲気が変わった)
穂乃美は坂森透と良い関係を築けていたと思っていたはずだ。穂乃美は透に好意を、そして相手からも同じものを感じていたのだ。それなのに最近二人の間には大きな隔たりを感じた。…何となくだが原因は分かっている。いきなり透の知り合いが兄を殺した殺人鬼だと言われて、更に重苦しい過去を打ち明けた。優しい透はそれを重荷に感じないわけはない。
(…だけど、あの男が隣人なんて危険すぎる…。)
無害を装って懐に忍び込み、自分のために人を殺す。兄が生きれなかった分をのうのうと生きて、今度は透をターゲットにするつもりだ。
穂乃美が出来ることは限られている。だからこそ好きな人が危険だと思えばこの身を投げ出す事も厭わない。
あの日兄を助けることが出来なかった幼い少女ではなく、今度こそ好きな人を助ける、穂乃美はその正義感に一人燃えていた。
肩をガックリと落としてとぼとぼと帰る穂乃美は、スマートフォンを確認してまた落ち込んだ。通知はゼロだ。
『今日良かったらご飯行きませんか』と隙を見て透にアプローチしたが、あっさりと断られてしまったのだ。
(…今日は予定があっただけ、だよね)と前向きに考えるが腑に落ちない。やはり避けられているのだろうか、と不安になって小さなため息を吐いた。もう一度だけ何か透からメッセージが来ていないか確認しよう、穂乃美は歩きながらスマートフォンを器用に操作する。
(…私から書いた方がいいかなあ。でもなんて書けばいいんだろ…。うーん、『今日はすみません』かなあ、でも返事返しにくいよね…)
体は自然にマンションの方へと向かう。視界はエントランスを捉えていたが、スマートフォンに気を取られて、穂乃美は前方に立っていた人間に気が付かない。どん、とぶつかって初めて認識した。
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと〜。歩きスマホは危ないなあ。逮捕ですよ、お嬢さん」
視線を上に持ち上げると、そこには慣れ親しんだ糸目が笑っている。片手には甘ったるいカフェオレの缶が握られていた。草臥れたスーツは先程まで何かしら仕事していたのだろう。
「叔父さん?…どうしたのこんなとこで…。仕事は?」
「つかの間の半休ってとこ〜。ちょいと話があるからお邪魔するけどいい?」
そう言いながら彼の足は穂乃美の部屋へと向かっている。対応に慣れた穂乃美はそれを咎めることなく後を追った。
陽の光はその部屋に満遍なく射し込む。可愛らしいぬいぐるみや淡い桃色の家具、それは穂乃美の性格そのものだ。壁のコルクボードには、家族や友人の写真が飾られている。堂上はソファーに座りもしないで部屋の柱に凭れた。
「どう?何か聞いた?」と問われ、穂乃美は首を横に振る。
穂乃美にとって堂上幸之助は辛い時いつも相談に乗ってくれる頼りがいのある大人だ。兄が亡くなった時、幼い穂乃美の証言を誰よりも信じ、犯人を探し続けていた。…透の知り合いが穂乃美が見た男であると言った時、彼は空いた時間を全て費やした。…穂乃美にとって彼は無条件で信用出来る人間の一人である。
「…最近あまり話す時間が無くて。今日も予定がありそうだったから」
「予定、ねえ」
「…なにか、嫌な予感がするんだ。私の気のせいかもしれないけど。あの男は…どうなった?」
「どうやら一週間ほど前に帰宅したみたいだ。職場には行っていないから辞めたんだろうねぇ。呑気に買い物してたよ」
堂上はぼんやりと壁の写真を眺めて、少し寂しそうに眉を下げた。カフェオレの缶を振って、中身が無いことを確認し、ギュッと潰す。
「あの二人、一体どんな関係なんだか。…ただの隣人、なのかねぇ。」
「…どういう意味?」
「これは憶測だけど、…守屋の殺人の共犯者じゃないかと思ってる」
「そんな!坂森さんが人殺しに加担するわけ無い!あの人は優しい人なんだよ!なんでそんなこと言うの?」
声を荒らげて否定する穂乃美に、堂上はその細い瞳を見開いて驚く。穂乃美が騒ぎ立てることなど滅多にないからだ。
「…確かに坂森透は滅多な事がないと殺さないだろうね。普通の人間みんなそうさ。でも何か弱みを握られていて強要させられたら?穂乃美の言う通り優しい人間ならば同情して…てこともある」
落ち着かせるように堂上は穂乃美の肩に手を置く。それに少し平静を取り戻した。堂上の言うことは確かだ。穂乃美は透は無関係だと信じているが、可能性のひとつとして頭の片隅に置くことは必要だろう。
「…おっと」
堂上のスマートフォンが鳴り出し、彼は直ぐにそれを取る。優しい叔父の表情は刑事の顔へと変わるのだ。
「…直ぐに向かいます」と電話を切った堂上は、小さくため息をついた。どうやら事件発生のようだ。
「穂乃美、くれぐれもあの坂森透に肩入れし過ぎないようにね。異変を感じたら行動せずに叔父さんに電話しなさい」
釘を刺して彼は慌てて玄関に消えていった。穂乃美はただ一人不安に取り残される。連絡のないスマートフォンを握りしめて。
(…私が坂森さんを助けないと…!)
「この!この!!」
小さなテレビの前で晩御飯をどちらが作るかを決めている。かちゃかちゃとコントローラーを騒がしく操作している透とは違い、守屋の動作は不慣れで遅い。
久しぶりにゲーム機を引っ張り出して遊んでいる。今プレイしているのは古い格闘ゲームだ。一緒に遊ぶ人がいなかったから暫く眠っていたが、一人でするよりもずっと楽しい。
「よし!俺の勝ち!」
「あらら、負けちゃった」
「今日は守屋さんが飯作ってくださいね」
「しょうがない…次は負けないから」
守屋は仕事を辞めたらしい。本人はなんとも思っていないようでお気楽に自由人を謳歌するつもりだ。『どうせ暇だから』と透がバイトに行っている間に掃除してもらっている。散らかっていた部屋は守谷のおかげか少しずつ整理されていくのだ。
「うーん、僕カレーくらいしか作れないよ」
「お!いいじゃないですか。」
「…出来るかなあ。」
手をきっちり洗って、台所に立つ背中は姿勢が良い。透はそれをぼんやりと眺める。手際よく作業を熟す男はきっと何にしても器用なのだろう。
「…玉ねぎとお肉しかない。まあ出来なくはないだろうけど」
「あんたなら絶品カレー出来るでしょ」
「ハードルを上げないでよ」
晴れて二人は恋人同士、ハッピーエンド、とはならない。問題は山積みで、透は今それを後回しにしている状況だ。
守屋は透がいる限り殺人をしないだろう、だから大丈夫とも言いきれない。何かしら証拠が揃うかもしれない。また嫌なことを考えて、透はブルブルと頭を振った。
今は楽しいことを考えるべきだ。…せっかく料理を作ってもらえるのだから、子供のように胸を躍らせて待つとする。
向こうで赤い光が夜の道を微かに照らす。水の流れる音に草の匂い、風は優しく肌を撫でた。見上げた星空はあまりに壮大で、魂が吸い取られていくような感覚がある。
夕食を済ませた二人は夜の散歩に出かけた。目的などはない、ただ特別な空間を求めていたのだ。この河川敷はその要望にピッタリだ。大の大人が土手で汚れなど気にせず寝転がる。
「今日はなんだかとても穏やかな気持ちです」
守屋は静かに星を眺める。その手を空にかざして、ふわふわと漂わせた。何かを掴みたいのか、それとも手放したいのか彼の手は開いては閉じてを繰り返す。
「俺も、久しぶりに平穏を満喫した気がします。…ゲームして、あんたのカレー食べて…」
「美味しかった?」
「はい。とっても!また作ってください」
「次も君が勝ったらね。あの格闘ゲーム、練習させてください。」
「練習しても結果は同じですよ。」
「そう言われると俄然やる気が出るなあ」
その会話は学生に戻ったようで、透は目を細めた。よく友人達と他愛もない会話をしてふざけていた。…帰ったら父がいて、明もいる。深い悩みもなく過ごしたあの頃が透の一番の絶頂期だったのだ。
そのどれも無くなってしまったものだが、透は今ささやかな幸せを噛み締める。
「明日も明後日も、…こんな日が続くといいのに」
呟いた言葉はあまりに愚かだ。人の未来を奪った人間が望んでいいことでは無い。だが言うだけはタダなのだ。言えるうちに言っておく。天誅が下ったならその呑気な言葉さえ言えなくなるのだから。
「そうだね。きっと大丈夫」
重ねられた手から純粋な愛情を感じさせた。守屋は本当に透を想っている、その呼吸一つでそれが伝わってくるのだ。
「もし、僕の事が警察にバレたら君はどうする?」
その言葉に透は顔が引き攣った。ここが暗くて本当に良かったと思う。守屋はもしもの話をしているに過ぎない。そこで透がおかしな行動を取れば隠し事があるのではないかと疑われるだろう。
「…どうって、あんたはずっとバレなかったんでしょ」
「それはそうだけど、君がどうするのか気になっただけですよ。」
透は自分の心に向き合ってどうするのか考えるが、答えなど出ない。一緒に自首する気もするが、彼と出会う前の頃のように自堕落に罪悪感と暮らしている気もする。
「その時になってみないと分かりません。でもあんたが居なくなったら今以上に苦しむでしょうね。」
「そうか。…透くんは苦しむんだ」
胸がなんだかチリチリと切なさに炙られた。守屋がいなくなると誰がこの心を癒し、誰が罪を許し、誰がこの命を認めてくれるのか分からない。透は重ねられた手のひらをぎゅっと握り締める。
「だからどこにも行かないでください」
川のせせらぎよりも小さく頼りない声で、透は願った。このままなんの証拠も出ず、静かに過ごしたいと。
「おい、智也、本当にこっちであってんのか?」
大きなリュックを背負って、彼らは不安げに辺りを見渡した。舗装されていない道は正規ルートから外れていたが、道と言われたらそう見えなくもない。智也、康一、瑠美の三人は流行りのキャンプをするためゾロゾロと連れ立って入山した。先頭を歩く智也に他二人は不満げについて行く。
「大丈夫大丈夫、地図もあるしコンパスも持ってきてる。それに俺はこの山ジジイと何回も登ってるから!」
「そうは言っても…なんだか薄暗くて気味悪い…。ねえ、引き返さない?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、なんのために何万もするテント買ったと思ってんだ?それに知ってる道だって言ってるだろ!」
自信ありげな智也を信用して二人は後をついて行ったが進めば進むほど不気味な空気が木々の隙間から吹き抜けていくのだ。それは身震いするほど陰湿な風だ。智也は鈍感だから気が付かないのだろう。ずんずんと前に進んでいく。
暫く歩くと、そこだけ木々をぽっかり切り抜いたような開けた場所に出た。背の高い木はそこの空間を見下ろしている。
「ほら!ここなんかいいんじゃね〜?」
はしゃぐ一人を除いて、その空間の不気味さを二人は目配せで確認する。
「なあ、…なんかここの空間だけ土の色違くないか?」
「なんだか掘り返して埋めた跡みたい…。」
「は、はあ?なんだお前ら。キメェこと言ってんじゃねえ…」
背筋がゾクゾクと悪寒を感じ取る。無言が続いて、三人は周りの状況を把握する。恐怖は確認して無かったことにしたい、それはこの土を踏んでいる三人の総意だった。
「…なあ、あの地面から突き出てるあれ、…なんだ?」
指さされた所に目玉が六つ集中する。そこの土だけ少し他の地面とすると凹んでいて、何か獣が掘り起こしたのだろうか。そこから赤い何かが突き出ている。それはツルツルとした布のような物だ。
「お、おい、康一、お前見てこいよ!」
「はあ?嫌だよ。そう言うお前が見てこいよ!こっちに向かったのはお前だろ!」
「馬鹿みたいな喧嘩しないで!…私が見てくる」
不甲斐ない男どもでは始まらないと、瑠美は恐怖を押し殺してジリジリとそれに近づいた。
凹んだ土はやはり何か人間ではない動物が掘り起こそうとしたのだろう、耕したように柔らかくなっている。近づいて分かったことは、突き出た赤いそれは、ポリエステル素材の袖のようなものだということだ。不気味な風に乗って微かに臭う。彼女は嫌な予感を感じてそれには触らなかった。その背後からようやく彼らはやって来る。
「な、なぁーんだ。ゴミか!何ビビらせようとしてんだよ!誰かが不法投棄でもしたか?」
強がりで智也は、その袖のようなものをグッと引っ張った。だが中々その全貌が見えず、更に意地になって力を込める。その度微かだった臭いが確実に強くなっている。
「ちょっと智也、止めた方が…」
「はあ?ビビってんの?だっせぇー!」
最後に力を込めた時、ボロボロと土が盛り上がってそれの全貌が明らかになる。
智也が握ったその布の先には腕のようなものが引っ付いていて、その先には肩、そして黒い髪の毛のようなものがズルズルと引き出される。まだ所々肉が残ったそれは強烈な腐臭を漂わせた。
「うわぁあ!!!」
土から上半身だけ出たそれはどこをどう見ても人間だ。その場で腰を抜かした智也は自分が手をついた地面にまた柔らかい部分があることを触って知った。情けないがズボンには生暖かい失禁の跡が滲み出す。康一は思わず胃の内容物を地面に吐瀉した。
「やばい、やばい…やばい…」
背を低くしてみれば、所々動物が掘っている跡。それに他の場所と色の違う土、恐怖を感じたのは人間の本能からだ。
腰が抜けた彼を、二人は引き摺るように立たせてすぐさま下山を決行した。冷静さを失った智也以外正しい道を知らなかったが、運良くGPS地図アプリを瑠美が事前にインストールしていたおかげでどうにか山を下ることが出来たのは不幸中の幸いだ。直ぐに警察に通報し、恐怖の山登りを終えた三人は長い事情聴取で心身ともに疲弊して『二度と山にキャンプに行くものか』と心底思う羽目になったのである。
朝七時過ぎ、守屋は新聞とコンビニの袋を提げて家に帰っていた。心地よい日に照らされて朝露が葉からポロリと零れ落ちて水気の多い空気を吸い込む。
(どうしようかなあ)と新聞の見出しに目をやりながら珍しく不安げな顔で守屋は悩むのだ。
『山中に五名の死体、殺害後埋められたか』
その記事に守屋は心当たりがある。何度かその山に死体を埋めに行ったからだ。まさかあっさり見つかってしまうとは思ってもいなかった。記事を読むとどうやら獣が死体を掘り返したせいで見つかったようだ。まだ全てが見つかった訳では無いが時間の問題だろう。
(透くんが知れば大変なことになるだろうなあ)
守屋を思い悩ませるのはその一点だけだ。彼はまだ眠っているはずだからこのニュースは知らない。だがいずれ知る事となるだろう。それが守屋が殺した人間だけならまだ良かったが、裏山に埋めたのは透の殺した死体もある。
(…見つかったのがあの子じゃなきゃいいけど。)
いくら守屋が悩んだところで起きたことはどうにも出来ない。今はとりあえず家に帰って透を起こして朝ごはんだ。
「おはようございます!」と小さな少年は守屋に挨拶をする。黄色い帽子からして一年生だろう。新品のランドセルを背負って友達の元へと走っていった。
価値があるだろう彼の背中を、なんの興味も湧かず見送るのは異常事態だ。
(透くんが僕のものになってくれたからかな?)と自分の機嫌を取る。プラスに考える事が人生を楽しむコツだ。
もう少しでアパートに帰りつくという頃、守屋の眉間に一本のシワが入った。
小柄で可愛らしい雰囲気の女の子がわざとらしく電柱に凭れてスマートフォンを触っているのだ。守屋が知らんぷりしてその横を通り過ぎると、その視線は後頭部に刺さる。
(…なんでここに?偶然じゃないだろうな)
守屋はその女の子を知っている。透が可愛いと言っていた間宮穂乃美だ。守屋は面識のない彼女には申し訳ないがゴキブリと同じくらい不愉快な存在だと思っている。
(…ストーカー気質な子を可愛いだなんて透くん趣味悪いよ…)
守屋はそそくさと早歩きで自宅へ向かう。帰ったら透に気をつけるよう言っておかなければ。しかし微かな足音が守屋が進む度追いかけてくるのだ。どうやら透を待ち伏せているのではないらしい。
「僕に何か用ですか?」
守屋は後ろを振り返りそう問いかけると、彼女は真っ直ぐこちらを見やる。顔を合わせただけで守屋の背筋が泡立った。直接彼女に何かされた訳では無いのに、体が拒絶しているのだ。
「貴方に用があります。」
「えっと、…人違いじゃないですか?僕、貴女と面識がないんですけど…」
彼女はぐっと唇を噛んで、「…貴方は私のことを知らないかもしれないけれど、私は十年前から知ってる」と震える声で呟いた。何故彼女から怒りをぶつけられなければならないのか守屋は分からない。
「そうでしたか?…まあ僕が覚えていないだけですかね。それで用ってなんです?」
朝食に買ったチキンが冷めてしまうので早めに終わらせたい。時間が経つと味も落ちるだろう。それに目が覚めて透がテレビを付けてしまうかもしれない。逸る気持ちは足を家の方向へと向けさせる。
「単刀直入に言います。坂森さんに近づかないでください」
間宮穂乃美ははっきりとそう言った。まるで自分が百パーセント正しい事をしているといった顔をして。
(…はあ?何言ってんだろこの子)
やはり不快だ。どう頑張ってもその感情は無かったことには出来ない。今までに内臓がグツグツと煮えて、歯を食いしばるなんて事はなかった。それなのに目の前のか弱そうな女の子に対して強い感情に支配されそうになる。
「…えっと、君は透くんの知り合い?」
「はい。私は貴方がしたことを全て知ってます。…だから坂森さんに関わらないでください」
誰かを憎しみや怒りで殺す、そんなことはあっていいはずがないと言い聞かせる。守屋はあくまで『価値』が知りたいだけで、もはや他の人間の価値などどうだって良くなったこの頃、平穏な解決策として話し合いが一番だ。
「でもそれは透くんが決めることじゃない?あ!良かったら一緒に来る?三人で話し合おうよ。」
『私に何かあったらあの男に殺されたと思って欲しい』
穂乃美は叔父である堂上幸之助にそうメッセージを送った。忙しい男だから、きっと見るのはずっと後になるだろう。
自分勝手な行動はしないようにと叔父に言われた。しかし穂乃美はそれに反して殺人鬼の後をついて行くのだ。鞄の中には一応護身用で果物ナイフを忍ばせて、スマートフォンでこっそり音声を録音している。穂乃美の目的はまず透を男から離すこと、そして兄の殺人を認めさせ、刑務所にぶち込むことだ。
兄を殺した男なのだから、勿論恐怖はある。しかしこのままこの男が罪も償わず透の隣人をしているのは許せない。兄を殺した時と同じように透を手にかけるかもしれないからだ。
古いアパートは人が住んでいるのか?と言うほど薄暗く、正しく殺人鬼が潜むには恰好の場所だ。錆びた階段を上り、男はある部屋の前で立ち止まる。
「ここです」
「…ここ、坂森さんの部屋ですか?」
「そうだよ。透くんの部屋。鍵空いてると思うけど」
男は「入るね〜」と言うと自分の部屋のように入る。玄関には靴が二足、一つは透のものだろうか。奥の部屋は異様に物が少なくて穂乃美は躊躇った。玄関の扉がぎっと音を立てて閉まる。
「あれ?入らないの?」
「ここ、本当に坂森さんの部屋ですか?」
「…」
「坂森さんはどこにいるんですか!?」
(まさか、坂森さんは既に…)と嫌な予感が脳裏を過ぎって穂乃美はいつでも逃げられるようドアノブに手をかける。
男はコンビニの袋を床にそっと置くと、涼し気な顔をして畳に腰を下ろした。ちんまりと足を抱えて、呆然と立ち尽くす穂乃美を待ち構える。
「うん?どうしてそんなに怖がってるの?」
「貴方が人殺しだからでしょ!!」
「怒鳴らないで、なんの事だかわからないです。君は透くんの話をしに来たんでしょう?それなのに何故人殺しなんて物騒なこと言うんだい?」
男は穂乃美が録音していることに気がついているのかいないのか、二人の空間になってもボロを出さない。
「でも、さっき三人でって言いましたよね?…坂森さんを殺したんでしょ!」
「待って待って、どうして僕が透くんを?彼は僕の恋人なんだよ?」
(…は?何言ってんの?この人…)
なんの冗談か、穂乃美は顔が引き攣った。咄嗟についた嘘にしては男は堂々としている。
「そんな訳ない!坂森さんは貴方のこと、ただの隣人って言ってた…」
「そりゃ、男同士だと中々大っぴらに出来ないですよ。確かに僕は嘘をつきました。ここは透くんの部屋じゃなく僕の部屋です」
それらしい事を並べ立てる男は、困ったように眉を下げた。
「透くんはまだ隣で寝てます。向こうの部屋はその、…女性に見せられるような状態じゃなかったのでここに招いただけなので深い理由はないですよ」
穂乃美は自分の記憶に段々と自信がなくなっていた。目の前の男が本当に十年前に兄を殺した男なのか、ただの似たような人間で、穂乃美の勘違いで押しかけてしまったのではないのか。
自分の行動に不安になるほど目の前の男は普通だ。
「…そんなの信じられません。」
「…困ったなあ。話が進まないので簡潔にすると、君は僕と透くんが一緒にいるのが嫌なんだよね?それは僕が殺人鬼で、透くんを殺すと思っていたから」
穂乃美は頷いた。まるで子供を宥めるようにゆっくり落ち着いた声で男は語りかける。
「でも僕と透くんは恋人同士で、僕は殺してない。どうしてそんな勘違いを?」
「…」
穂乃美は喉まで言葉が出ているのに声にならず、拳をギリギリと握った。この男は明らかに穂乃美を言いくるめようとしている。 そして本当に自信が無くなってくるのだ。
「君は透くんの事が好きなんだ。そうでしょ。だったらちゃんとお話しようよ。…ね?」
男は左手で畳を優しく叩いた。穂乃美に座るよう促しているのだ。
「…貴方がおかしな事をしたら、直ぐに警察に繋がるようになってるんで」
穂乃美は脅し文句を吐きながら、ゆっくり靴を脱いで家に上がった。
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