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第10話
(…明?…父さん?)
その綺麗な顔を見たのは何年ぶりだろう。親子で横並びに立って、何を言うでもなく優しく微笑んでいる。後光のようにキラキラと輝いて、とても安心する夢だ。
いつも彼らは決まって酷い姿で透の前に現れた。抉れた顔、捩れた手足、目を剥いて項垂れる頭。ただ透に縋り、苦しみを訴えるのだ。
だが今日は違う。体は自由に動かせないが、汚い布団に磔にはされていない。彼らと同じ目線で立っているのだ。
(会いたかった、…会いたかったんだ二人に)
声は出なかった。しかし彼らにそれが伝わっていると不思議と感じる。透はどうにかして彼らの元へ行こうと体に力を入れるが、手を伸ばすだけで精一杯だ。
子供のようにボロボロと涙が零れて胸が締め付けられる。二人は微笑んだまま、ゆっくりと透に背中を向け光の元へ振り返らず向かっていくのだ。
(待って、待ってくれ!俺も連れて行ってくれ!!)
光は輝きを増して、透の意識を現実へと引き戻す。嬉しいような寂しいような複雑な気持ちで汚い天井を見上げた。もう悪夢に魘されることは無いのだろう、透はそう確信する。
上体を起こしてゆっくり深呼吸をする。いつもなら起き上がることも億劫なのに今日は体がとても軽いのだ。
前を向かなければならない、どんなに後ろめたい事があっても。透はあの頃の二人に会ったことでそう思える。
「…守屋さん?」
隣で眠っているはずの男が居ないことに気がついた。冷えたシーツからして随分前に起きたのだろう。
「…冷たいなあ。起こしてくれても…」
透は雑だが布団を畳み、洗面所へのそのそと向かう。顔を乱暴に洗って、歯を磨きながらテーブルの上のリモコンを手にする。いつもならリモコンがゴミの中に埋まってどこにあるのか分からないが守屋が片付けてくれたので随分楽だ。何だかダメな夫とよく出来た妻のようである。
(俺はあの人に捨てられたら立ち直れないかも…)と思えるくらいに透は守屋のことを好きになっているのだ。まさか自分が男と、なんて数ヶ月前の自分は思いつきもしなかっただろう。
『今日の全国的な気温は―』
午前九時、可愛いお天気アナウンサーが笑顔で天気予報を伝えている。週末はどうやら天気も晴れのようだから守屋とどこか出かけようと考えて一人ワクワクするのだ。
(守屋さん、部屋に戻ったのかな)
透はテレビをつけっぱなしで隣の部屋へ訪ねていく。空っぽになった部屋でニュースキャスターの声だけが響いた。
『―県の山中で、新たに二名の身元不明の遺体が発見され…』
「ね?分かってくれた?僕達はお互いに好き同士なんだよ」
男はペラペラとありもしない妄想を十五分ほど話した。自分達が運命的な出会いを果たし、いかにして恋に落ちたか。この何も無い部屋で、子供のようにキラキラと表情を輝かせた。
「…それって、貴方が勝手に言ってるだけですよね。」
傍から見て自分が醜くあってもいい。二人の仲を引き裂く悪役でもなんだっていいのだ。
ぐっと握りしめた拳はせめて『兄を殺した証拠』だけでも掴んで帰らなければならない。もし違うのなら後から謝ればいい。あの頃の記憶を何度も思い起こしても一致するのは目の前の男しかいないのだ。
「それに、男同士ですよね?…坂森さんはそんな風には見えない。」
「…何が言いたいの?」
「貴方が何か弱みを握って無理やり、って考えてます。」
穂乃美の言葉に男は顔が引き攣る。笑顔を取り繕ってはいたが、透の事を言われる度目がピクピクと痙攣しているのだ。
「それに、…貴方は人殺しじゃないですか。そんな人が坂森さんの恋人であっていいわけない!」
「僕が透くんに相応しい命じゃないってこと?」
頑張って作っていたであろう表情が無になる。声の抑揚も一気に無くなり、男は冷たい視線を穂乃美に向けた。ゾッとするほど生気のない顔つきだ。
「…そこまで言うのなら」
男は立ち上がり、押し入れを開けた。そしてがさごそと中を探り、古びたノートを取り出した。しわくちゃの背表紙にはなにも書かれていない。ペラペラと音を立てて、目玉を忙しなく動かしながら男は何かを探している。
(こいつ、…やっぱりおかしい)
「…なに、してるんですか」
穂乃美は鞄を抱きしめて男に問いかける。果物ナイフの位置を指で確認して、いつでも取り出せるようにした。
「何って、記録を見てるんだ。間宮優希、ああ、同じ西高校の同級生ですね。」
「…」
「感想は『ほんの少し寂しさを感じた』、と書いてあるから、僕にとって良いお友達だったんでしょうね。総合評価星二つって所かな…。あ!勘違いしないで、僕基本的に星一つも満たないことが多いので、君のお兄さんは良い方です」
口角だけつり上がっているのに、それは笑顔とは言えない。穂乃美は恐怖を感じて、ゆっくり立ち上がり距離を取る。
「…その点で言えば透くんは価値を付けることも烏滸がましい、運命の人だ。確かめなくても分かる」
透の事を思い出しているのだろう、恍惚とした表情で右手を胸に当てた。
「何のことを言ってるの…?感想って、…価値って」
「僕にとって価値ある命かどうかの感想だよ。ちゃんと記録しておかないと、可哀想でしょう?それが価値があろうが無かろうが、頂いたものには感謝しないと」
「それってつまり、貴方は価値を知るためにお兄ちゃんを殺したの?」
男は深く頷くと、ノートを押し入れに戻すため背を向ける。
目の前の男の知的好奇心の為に兄は殺されたというのか。穂乃美の悲しく暗い十年は、たったそれだけの為に作り上げられたものだった。穂乃美はその身勝手な言い分に身体中が沸騰したように熱くなる。瞼が重くなって、喉がカラカラに乾く。握りしめたナイフの刃先を、穂乃美は男の背中に向けた。
「守屋さーん、…いないのかな」
インターホンを二回鳴らしても隣人は出てこない。透はポリポリと頭を搔くと、ドアノブに手をかける。それは呆気なく回って、(不用心だ)と眉をひそめた。そう言えば以前にも似たようなことがあった。あの時は死体と遭遇してとても怖かった覚えがある。
透はゆっくり扉を拳一つほど開いて、入りますよー」と声をかけたが、誰の反応もない。気が咎めたが、恋人なのだから良いだろうとぎっと扉を引いた。
「…え?」
透はその光景を見て、つま先から血が抜けていくような感覚に襲われる。
古い壁に撒いたようについた赤、呆然と立ち尽くすその足元に転がった小さな体。その左手に握られたナイフからポツポツと赤い雨が降る。
頭はすぐに理解した。男が我慢できず殺したのだ。透はすぐに扉を閉めて、鍵をかけた。そしてその男に駆け寄ると、酷い有様に胃の奥から酸が上ってくる。放心状態の男の足元には誰かわからぬほど顔が膨れ上がった死体が転がっていた。どこそこ手に握るナイフで刺したのだろう。…顔は分からなくとも装いが知り合いに似ていて透は咄嗟に視線を逸らした。
(そんなわけない。だって、間宮さんがここにいるわけない)
「なんでこんなことしたんだ!」
「…」
「守屋さん?聞いてるのか!」
守屋は透の声が聞こえていないのか固まって動かない。握りしめたナイフからまだ血が零れている。しかし彼は微動だにせず死体を見つめていた。
「あんた、約束破ったのか!」と守屋の肩を揺さぶって、ようやく彼の意識がこちらに向けられる。
「透くん…あぁ、僕…。どうしよう」
緊張の糸が切れたのか、守屋はその場にへたり込む。そしてボロボロとその両目から涙を零すのだ。その反応に透は面食らう。いつもの彼ならば死体だろうが何だろうが動揺などしない。それなのに体をブルブル震わせ、両手で自分の体を抱きしめる。
「最低だ、…酷い、こんなことするつもりじゃ…。」
「何があったんだよ」
怯える守屋を透は落ち着かせるためギュッと抱きしめた。おかしな光景だ。転がる死体の前で男二人抱き合うのだから。
「ごめんなさい…ぅう、僕、…」
透はその背中をしばらく優しく撫でる。明が泣いていた時、透は同じように背中を撫でてあげた。その効果あってか、守屋は少し落ち着いたのか、ゆっくりだが口を開く。
「僕、君との約束を絶対守るつもりでした。…けれど、憎しみの前には勝てなかったんです。…こんなことありえない、僕は今まで人を憎いと思って殺したことなんて無かった。嘘じゃない」
また涙が目の端に溜まって、透はどんな言葉を掛けていいのか分からない。嘘かホントか、それは今まで彼の死体への接し方を見ていれば分かる。
今回のように必要のない傷を付けるような男ではない。
「…あんた、手怪我してる」
守屋の左手のひらは痛々しい傷が刻まれている。ナイフから伝っていた血は、彼のものも含まれていたのだろう。
「腕、上げててください。タオル、洗面所にあります?」
透は清潔そうなタオルを洗面所から持ってくると気休めにしかならないだろうが止血を試みた。
「良かった、そんなに深くはなさそうですね」
ぎゅっと絞ったタオルにはじんわりと赤が滲んでいく。不器用だがこれ以上出血することは無いはずだ。
「…ありがとう」
涙と返り血で汚れた顔は頼りなくて、透は自分が守ってやらなければいけないと感じる。その頬を優しく撫でて、乾いた血を取ってやった。
「落ち着いた?」
「…うん。」
改めて部屋を見渡す。これはいくら掃除してもどうにもならないレベルだ。昔見たスプラッター映画よりはまだマシだが、透はどうしていいのか分からない。
「透くん、この子、何かあったら警察に僕が殺ったって分かるって言ってた。」
その言葉に透は転がった死体が誰なのか認めなくてはならない。見覚えのある鞄、黒いボブヘアー、小柄な体。
「…だからきっとすぐに見つかります。君は何も知らない振りをしてどこか遠くに逃げてください」
もし透が守屋に全て話していたら結果は違ったのだろうか。目の前で震える男に間違った選択を取らせてしまった、それは透が間違ったからだ。
「…逃げないですよ。俺は…」
「何言ってるの?僕は君との約束を破ったんだよ。」
「…逃げない、俺はあんたを置いて逃げない…!」
恐怖で奥歯がガチガチと震えていた。だが、透は全ての責任を取るつもりで彼を選んだのだ。虚しさや胸の痛みは全て自分のものである。
「…あんたのブルーシートで遺体を包みましょう、できるだけ血は拭いて…。その前にあんたは血を洗ってください。」
度が過ぎれば頭はやけに冷静になる。透は立ち上がると息絶えた彼女に心から謝罪した。透と関わった事で、守屋の存在を知ったのだ。込み上げる涙をぐっと飲み込む。
「日が落ちてからがいいはずだ。…明日、二人で埋めに行こう」
聞きなれない着信音が、どこからか鳴っている。それに二人は青い顔を見合わせるのだ。
壁の血は透の部屋から持ってきたボロボロのタオルで拭き取って、守屋は遺体をブルーシートに包んでいた時だった。
「…透くん?鳴ってるよ」
「俺、自分の電話は部屋に置いてますよ。守屋さんのじゃないんですか」
「…違う。僕のじゃない」
未だに鳴り続ける着信音を辿ると、部屋の隅に転がった鞄の中から聞こえてくる。透が恐る恐る鞄を探ると、彼女のスマートフォンからその音は聞こえているようだ。画面には『叔父さん』と表示されている。 透はまだ鳴り続けるそれを構わず鞄の中に戻した。ようやく着信音が止む。
「誰からだった?」その問いかけに透は答えられない。
(あの刑事はきっと俺の住んでいるところを知ってるはずだ。…連絡が取れないとここへ来るかもしれない)
それまでに全ての証拠を消し去ることは不可能だ。ではどこか遠くへ逃げるか。だが逃げると言ってもどこに逃げたら良いのだろう。考えが纏まらないうちに、また彼女の電話が騒ぎだす。
「…守屋さん。服着替えて、財布とケータイ持ってください」
ブルーシートをちょうど二重にしようとしている守屋に透はそう声をかける。
「え?でも…」
「いいから、さっさとしてください。俺も部屋に取りに戻りますから」
時間が一分を刻むにつれ胸騒ぎが大きくなる。この部屋にいるのは良くないような気がして、透は守屋の意見を聞かず、一人自室へ駆け足で戻った。
扉の外は良い天気で、誰がこの部屋で行われている事を想像できるだろうか。
自室に戻った透は財布とスマートフォン、そして鍵をポケットに全て押し込む。他になにか持っていくべき物があるだろうかと辺りを探すのだ。
『―の山中で身元不明の遺体七名が発見された事件で…』
「…ああ、嘘だろ」
見覚えのある山に、警察関係者がワラワラと入山している。透が一番恐れた光景だ。何故テレビをつけっぱなしにしていたのかと後悔する。
悪いことが重なり気が滅入りそうだったが、バツンとテレビの電源を切った。透は何も見なかった事にして、身支度を急いだ。
「…いやあ、ホントに助かりましたよ。濱村巡査部長」
「いえ、ちょうど署に帰るとこだったので。でもどうしたんです?警部補があんなに全速力で走るなんて…何かありました?」
人の良さそうな八の字眉毛は心配そうにハンドルを握る。濱村裕二は真っ青な顔をして寂れた商店街を駆け抜ける堂上をたまたま見かけて車に乗せてくれた。
『私に何かあったらあの男に殺されたと思って欲しい』と七時二十四分、穂乃美からメールが送られてきていた。それから五時間程経過している。
スマートフォンで何度も電話をかけるが通じない。堂上は嫌な予感を感じ、全てほっぽり出してあの男の家に行く。あれ程穂乃美に勝手な行動をしないよう釘を刺しておいたのに、やはり兄妹の性格は似るのだろうか。それに加えて穂乃美は坂森透に好意があった。だから尚更周りが見えなくなる。
内頬がブヨブヨになるほど噛み締められて、血なのか肉の塊なのか分からぬ程傷だらけだ。これは堂上が強く不安を感じている証拠だった。
「…何も起きていませんように」
「え?なんです?道、こっちでいいんですか?」
「ええ、できるだけ飛ばして!」
濱村は困ったように「わ、わかりました」と呟く。いつも飄々としている堂上が、血相を変えてそう言うものだから彼も異変を感じているのだ。運悪く信号機が赤に変わり、濱村はブレーキを踏んだ。
「クソッ!」と思わず苛立ちを口にする。隣の濱村は肩をビクッと強ばらせた。
「どうかしたんですか?何だか変ですよ」
「…私が目をつけていた守屋という男覚えてます?」
「ええ。勿論。あの男前の営業マンですよね。自分は新幹線以来接触はないですが…って、今向かってるのってまさか」
「そう、…嫌な予感がしましてね」
ようやく青に変わった信号機を潜り、激しい動悸に襲われながら何度も電話をかける。
風呂にでも入っていて気が付かなかった、そうであって欲しいと願いながら。
『203』号室の扉は半開きになって風に揺れていた。そこは坂森透の部屋である。駐車場に車は停められておらず本人は居ないのだろう。しかしただ外出しただけで扉を開けっ放しにはしない。
堂上は躊躇うことなくその開けられた扉の中に足を踏み入れる。狭い室内は、玄関先で全て把握出来た。部屋の隅にまとめられたゴミや、丸められた布団、…特に変わったことは無い。
「警部補!勝手に入っちゃダメでしょう」
後ろから追いかけて来た濱村は、階段で息が上がったのか肩を上下に揺らしている。
堂上は「失礼」と濱村の横をすり抜けて、隣の『202』号室の前に向かった。
「ちょっと!やめた方が…」と静止する濱村の声を聞かず、堂上は一応インターホンを鳴らした。乱暴にドアを叩いても全く反応がない。
穂乃美はやはりここには来ておらず、守屋はただ外出しているだけ、そう考えたい。だが刑事の勘はそうでは無いと言っている。
本当はこの部屋に入りたくなかった。嫌な予感が本当になるのではないか、という恐怖が全身を支配していたからだ。唾すら喉をスムーズに通っていかない。
「…穂乃美」
堂上はドアノブを回す前に、彼女に再び電話をかける。頼むからその着信音が聞こえないで欲しいと願っていた。
しかしその壁の向こうから聞こえた着信音は、堂上が切ったら静かになる。もう一度かけるとまた鳴り出すのだ。
堂上は躊躇うことなくドアノブを回した。
扉を開けたら部屋全て見える。畳に滲んだ赤い血、何も無い部屋の中心にはブルーシートに包まれた何かが横たわっているのだ。違う、あれは大切な家族なわけが無い。そう何度も頭の中で言い聞かせても、現実はそうでは無いのだ。見知った鞄からはみ出たスマートフォンはまだ鳴り続けている。
「…そ、そんな…応援を呼びます」
濱村はそう言ってバタバタと階段を駆け下りていく。堂上は通話を終了させた。…勿論彼女のスマートフォンは騒がなくなった。
そのブルーシートを引き剥がして、彼女かどうか確かめたい。だが刑事としてそれは出来ず、ただその場に立ち尽くす。震える手はスマートフォンを持っていることすらままならないで、打ちっぱなしのコンクリートに叩きつけられた。
それを拾い上げると亀裂の入った画面には、無情にも十三時五分と表示されるだけである。
その女を殺したのは、紛れもなく透の意思だった。
|野崎優花《のざきゆうか》と知り合ったのは二年程前、透の働くレストランに彼女が訪れたのだ。何を気に入ったのかいきなり連絡先を渡してきた、それがきっかけだったように思う。
『あたし、親に捨てられて身寄りないんだよねえ〜』と軽く言った彼女と何となくで付き合うようになって、トントン拍子で同棲までした。お互い自堕落な生活を好むどうしようも無い人間だった為に部屋はいつも汚くて、金はいつも酒やタバコに消えた。彼女はスロットに好んで金を入れては大損しては透の財布から金を抜いていた。
それも全て年下だからと許していた。それが愛なのだと拗らせていたのだ。
『ねえ、あたしが二十歳になったら結婚してくれる?』その言葉に特に違和感も持たず了承した。ただぼんやりと『家族が欲しい』という願望に従っただけだ。そのまま何も起こらなければ透は今頃彼女と結婚していたに違いない。幸せかどうかは置いておいて。
『…あの、明ちゃんのお兄さんですよね』
成人式の会場の外、まだ式典が続く最中。透は彼女の晴れ舞台を見送るため長い待ち時間を過ごしていた時だった。
一見花の無い地味な彼女は振袖を着ているので新成人だろうが、式には出席しなかったようだ。
『…明の知り合い?』透は苦虫を噛み潰したような顔で彼女に問いかける。
『…私、明ちゃんとは同じ高校だったんです。クラスは違ったけれど…』
透は確か大きなため息をついた。その時は清々しい祝いの日に、辛い出来事を思い出したくないと思ったのだ。特に中央高等学校の生徒とは口も聞きたくない。全員そうとは言わないが、学校ぐるみで虐めを隠蔽したのだ。あの時透達は世間の冷たさを肌で感じた。一部近隣住民達は『父子家庭』だからこうなったのだと吹聴し、話のネタにして笑う。そんなことが罷り通る世の中なのだと痛感した。
『悪いけど話したくない』と正直に告げると、彼女は涙目になりながら、だがどこへも行かない。小さく『ごめんなさい』と謝罪の言葉を口にする。これ以上何も聞きたくない、透は自らその場を離れることにした。しかし、その震える手が透の腕を強く握り引き止める。
『優花ちゃんとお付き合いしてるんですか?』
充血した瞳は逸らされることなく向けられる。透が頷くと、彼女は声を荒らげてこう言ったのだ。『あいつは明ちゃんを虐めていた女だ!』と。
『そんなわけが無い…。優花は通信の高校に行ったって言っていた』
『中退したんです。…妊娠したとかで』
『そんなこといくらでも嘘つけるだろ!』
『嘘じゃない!…どうしても信じて貰えないなら…』
彼女はスマートフォンを取り出し、数十秒操作して透の目の前に画面を突き出した。そこは誰かのブログのようだ。そして何かの動画が添付されている。
『これ、当時は誰も気が付かなかったかもしれないけど私がたまたま見つけたんです。…こんなのご家族の方に見せるなんて心苦しいですけど…』
彼女が再生した動画は十六秒の短い動画だ。その中には無理やり服を脱がされ馬鹿にされる妹と、彼女の制服を取り上げて猿のように手を叩いて笑う面影のある顔。『この動画売って金にするから〜!』と聞き覚えのある声で言った女に、周りの人間はまた笑う。ケダモノに囲まれた明は泣いていた。
…透はそのケダモノと結婚しようとしていたのだ。
『ねえ、透〜?いつ結婚してくれるの?二十歳になったらしてくれるって言ったじゃ〜ん!もう半年以上経つんですけど』
この蒸し暑い部屋は汗の|饐えた《すえた》匂いとタバコの煙で充満していた。虚ろな瞳のまま透は缶ビールを喉に流し込んで、空になったそれを乱暴に放り投げた。
人を殺す、それは簡単ではない。だから透はあの日から毎晩苦悩した。それとなく彼女に探りを入れたこともあったが、その度あの動画で明を笑っていたケダモノだと認めざるを得ない。
『結婚式は―』
彼女の声など聞こえていない。透は壁に引っ掛けられた喪服に目をやった。埃被って白くなったそれには黒いネクタイがしわくちゃのままポケットから垂れている。
その背中は結婚情報誌に夢中のようでこちらの様子など気に止めていない。
『優花、…昔誰かを傷つけた事ってあるか?』
『えー?何いきなり。そんなの覚えてない』
『いじめとかなかった?中央高等学校って昔騒がれたろ』
『もー、無いってば!あたし違うクラスだったもん』
『通信じゃなかったのか?』
『…え?通信のはなしじゃないの?あたし知らない』
理性では駄目だと思っていても透はそれ以上の怒りと憎しみを膨らませている。雑誌をめくる指は、ウェディングドレスを探し、明を傷つけた指にリングを嵌めるつもりなのだ。透は垂れ下がったネクタイをそっとポケットから引き抜く。
その首にネクタイを巻き付けることに躊躇いなどなかった。女は苦しいのかその長い爪を振り回して抵抗した。透はただ『苦しめ』と呪いながら力を込める。
ビールの缶を蹴飛ばして壁にぶつかる。しゃくり上げるような呼吸もやがて小さく、そして無くなった。
明は卑劣な虐めでぐちゃぐちゃになって死んだ。
父は彼女の遺影の前に首を括った。
それに比べてこの女への苦しみがまだ足りない、痙攣して動かなくなった後でも、透はしばらくそのままだった。涙が零れるのは、この女のせいで透達家族の人生はめちゃくちゃになったからだ。
蝉が騒いでいる。その小さな空間に夕日が入り込んで、透はようやく握っていた手を離した。
転がる死体と立ち尽くす一人、このごみ溜めで透は人生を放棄したのだ。
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