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驟雨

「一雨くるかな、」  天嘉の見上げた空には、これからの先行きを不安にさせるような重く分厚い雲が空を覆っている。  山の天気は変わりやすいというが、出だしからこうではなんだかやるせなくなる。住民に聞くと、バスは疎らなようで、待つよりも坂道を上がっていったほうが早いと言われた。  車輪のついたスーツケースでこの急斜面をあがるのか。滑り止めがまるでタコの吸盤のように夥しく坂を覆う。天嘉はスーツケースの持ち手をきつく握り直すと、気持ちを切り替えるようにフッと息を吐きだした。  まるで蛇の胴体がうねるかの様な道筋だ。ガロガロと不平を訴えるような車輪の音がなんだかうざったい。  天嘉は額に滲む汗をカットソーの袖で拭う。季節は少し肌寒くなってきた頃なのだが、山はなんだか湿度が高くじめじめとしていた。  肌にまとわりつくカットソーの裾をはためかせたりと悪あがきをしながら騙し騙しやってきたが、バス停が見えてくる頃には灰色のコンクリートの上をポツポツとシミができ始めていた。  山の天気は変わりやすい。天嘉が雨宿りしなきゃなあと目先のバス停に向かってスーツケースを押し出した瞬間を待っていたかのように、バケツをひっくり返したかのような大雨が降り出していた。   「最悪…、これから面接なんだぞこっちは…。」    履歴書を入れたボディバックを服の中に隠し、慌ててトタン屋根の古めかしいバス停に駆け込んだ。  短い距離とはいえ、急勾配な坂道である。天嘉はスーツケースを引っ張り上げるようにしてその距離を駆け上がると、雨に濡れたその細身な体を狭いバス停の停留所に滑り込ませた。  丸太だろうか、木でできたベンチが置いてあり、壁に貼り付けられているバスの時刻表は風化が酷くて読みづらい。山の気温は心なしか肌寒さを覚えるようなものになっていき、暑いと思っていたその体を抱きしめるように濡れた体をさする。    驟雨は霧雨のように薄く細やかな雨へと変わっていく。まるで檻のように地面から突き出した針葉樹林は、その逞しい幹を森の奥まで並び連ねる。わずかな隙間から見える空間は、朝だと言うのに暗く、気のせいか薄青を纏ったようなその雰囲気は、どこか神聖なものにも見える。    神聖なものは怖い。天嘉はその木々の隙間から、仏のような顔をした山神がこちらを覗き見る想像をして、背筋が寒くなった。   「っ、朝だってのに…。」    山の気温は、濡れた天嘉の体温を奪っていく。ここに来るまで疲れていたせいだろうか。狭い停留所の壁にもたれ掛かるように身を委ねた。何だか少しだけ、頭が痛かったのだ。    ここから上まで、どれくらい上がるのかはわからない。このスーツケースを押して山の中腹まで歩いてきたつもりだったのだが、現在地を看板で確認する限りでは入り口からそこまで変わっていないように思えたのだ。    御嶽山。確か山岳信仰の霊山だったはずだ。だからこんなに、この自然の大きな存在感に怯えてしまうのだろうか。天嘉は頭の痛みに眉を潜める。なんだか体調が思わしくなく、瞼も重くなってきたのだ。  ここで寝ていたら、もしかしたらバスの運転手さんが気づいて起こしてくれるかもしれない。そんな一縷の望み、というか他力本願な考えに、吐息を漏らすような笑いが口から溢れた。  ああ、具合が悪い。涙まで滲んできた。偏頭痛持ちだから、もしかしたら気圧の変化にやられたのかもしれない。力の入らない指で、ボディバックから痛み止めを取り出そうとして、薄く目を開いた時だった。   「……、」    天嘉の手が、動きが止まる。目の前に何かが立って、その頭を見下ろしているのだ。  ゆっくりと呼吸をする。先程まで感じなかったような饐えた匂いが狭い停留所内を支配している。  こくり。小さな天嘉の喉仏が上下する。  天嘉の履き潰したスニーカーの先に、薄水色だったのだろうか、少し黄ばんだような布地がはためいていた。    風に遊ばれて、はためいているのだ。  あんなに雨が降ったのに、濡れている形跡もない。そして、地面からなんの支えもなくカーテンのように浮いているのだ。    声を出してはいけない。行き場を失った指先が、慎重に襟元を握りしめた。喉が渇く。不整脈のような忙しない鼓動が、先ほどとは違う震えを天嘉に与えていた。   「こんいいちははあ」    何十にも重なったような複音の声が天嘉に話しかける。   「ここんに、イイチイわワ?」    反応するな、怖い。怯えを見せるな。目を瞑れ、目を瞑って、寝たふりをしろ。じわりと冷や汗が背筋を濡らす。小さく呼吸を繰り返す。慎重に、できるだけ深く呼吸をゆっくりとすれば、眠っていると思われるかもしれない。   「こんんいいちあ」    ずしん、と鉛を含んだように空気が重くなる。何度も唾液を飲み下しながら、キツく目を瞑り続ける。そっと、何かが顎に触れた。爪先で輪郭をなぞるように、そっと触れては離される。幼児が恐る恐る小動物に触れるような、例えるならばそんな触れ方だった。   「キきいレイなおお、はだああ」  両頬を、包み込むように手を這わされる。キツく握りしめたせいで、襟が引っ張られた。気がつけば恐怖のせいか、呼吸が浅く早くなってしまっていた。   「ふ、ふ、ふは、ッ…ヒ、ふー…ッ…」 「あ、あけ、えけえてえ?」 「ひ、ヒ…ッ…う、ふ、ふー…、」 「おおお、お、め、めえ、え、あ、あけえてえ」    いやだ…。怖い、天嘉は引き攣った呼吸を繰り返す。木に頬を擦り付けているような、そんなざらついた骨張った手のひらが、抗えない強い力で天嘉の顔を上げさせる。生臭い匂いだ。えづきそうになるのを堪えながら、座っているのに震える膝が、逃げろと叫ぶ。   「っひ、やだ…、あ、」    瞼の下を、強い力で引き下げられる。眼球を覆う涙で、視界がぼやけていた。見たくない、いやだ。つるりとした表面を、滑るようにして一雫が頬を伝う。まるで簾のように長い黒髪が天嘉の表情を隠していた。びくりと手が跳ね、体が硬直する。笑っていた。   「かか、あ、あいい、ぼ、ウヤあ、ああ、あああは、あははははああああ」 「あ。」    古木だ。朽ちた古木。その枯れて腐った幹に走る亀裂のような、そんな茶色く、まるで捩れ絡まった蔦の渦巻きのような皮膚を持つ女が、真黒い眼窩を歪ませて笑っていた。  その虚のような目の空洞から、名も知らぬ虫が這い出る。全身の血液が一気に下がるような感覚とともに、漏れ出た水流がスニーカーを伝って水溜りをつくる。   「ーーーーーーーっ、」    見開かれた瞳が小さく揺れた。弾かれたように、異形の女を突き飛ばす。スーツケースなどどうでもいいと言わんばかりに、あんなに気味悪がっていた木々の檻の中へと飛び込んだ。この乱立する針葉樹林の檻が、異形から守ってくれる。そう信じながら、後ろを振り返らずに駆け抜ける。枝葉が擦れ、服の裾を裂かれる。何度も足を取られながら、天嘉は無言で、瞬きもせずに森の中を走った。   「あ、はあ、あハ、」    近づいてきている。楽しそうに、歪に笑いながら天嘉を追いかけてきている。  何も考えるな、何も考えてはいけないのだ。真っ直ぐに、ただ前だけを向いて走れ。乱立する木々が、嘲笑うかのように葉擦れの音で囃し立てる。もうすぐで、森を抜けられるかもしれない。下へ下へと目指して駆け抜けた天嘉が足を滑らせたのは、そんな気の緩みからだったのかもしれない。   「ーーー、」    はくりと口を開けた。踏み込んだその一歩、踏みしめるはずだった地面が泡沫のように消え去った。  音にならなかった天嘉の声が、空気に溶けて静かに消える。  華奢な体が吸い寄せられるように真っ黒い森の深みへと落ちていく。天嘉の体は、森と森の境目を走るような不思議な亀裂に向かって放り出された。  なんで、こんなところに崖が。  逆さになった視界が捉えた目端には、小さな祠が見えたような気がした。 

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