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蘇芳という男

 ふくよかな香の香りがする。なんだろう。天嘉の体を優しく包むような香りはなんだか懐かしいような、それでいて素朴でいて爽やかな身を委ねたくなるような香りだ。  くん、とその香りを追うように小さな顎をあげる。わずかな衣擦れの音がして、そっと顔にかかる前髪を優しく分けるかのように額を人肌が触れる。   「小狐、気がついたのなら瞳をあけろ。 「…?」    小狐なんてどこにいるのだろう。いるのなら見てみたい気もする。   「聞いているのか、小狐。おい。」    耳障りのいい。少しだけ掠れた声がした。暖かい手のひらが、撫でるように髪を梳く。大きな手だ。この手は、怖くない。温もりが優しく頭の上を数度往復する。もしかしたら、自分は黄泉の国にきて、父親に頭を撫でられているのかもしれない。そんなことを思うと、なんだか胸の辺りが締め付けられてしまい、その焼けたようなざらつきを少しでも軽くしたくて、熱い吐息を漏らす。   「…、泣くのか…」 「う、…」    まつ毛が濡れる。じわりと滲んだ涙が目端から溢れて、そのまろい頬をつるりと滑った。  戸惑ったような声色で、おい。と言われる。ここにきて天嘉は、ようやく自分に話しかけられているのかもしれないと思い至った。   「……、は、ぃ、」    酷く掠れた声が出る。こんな、小さい子供みたいに情けなく泣いたことが恥ずかしい。黄泉の国で、見知らぬ声に話しかけられている。肌を包むこの布地は、おそらく布団だ。そっと体に触れてみると、どうやら自分は着物を着ているようだった。   「熱が下がらんな。薬を飲まねばいかん。」 「…?」    ああ、だから体が熱いのか。おそらく自分は頭に三角形の白い布を巻いているだろう。異形に追いかけられて逃げた先の、崖に身を投じて死んだのだ。熱を拗らせたまま他界したから、こんな具合が悪いのだろう。死者に効く薬があるのだろうか。苦いのはいやだ、体が辛いから、頭を撫でていて欲しいのに。  天嘉の側から、体温が離れる。なんだかそれが寂しくて、思わず手に触れた布地を握りしめた。   「こ、わい」 「…何がだ。」 「ここに、い、て」    一人はいやだ。天嘉の悲しそうな声色は、言外にそう告げていた。   「…ツルバミ。薬湯を持ってこい。俺はここにいなくてはいけない。」 「おやまあ、まるで稚い雛のような御仁だ。」    ゲロ。カエルの声がして、ぺたぺたとした足音が遠ざかっていく。天嘉は、なんだかよくわからないままキュウと握りしめた布地を引き、くすんと鼻を鳴らした。ごじん、ごじんってなんだろう。そんなことを思いながら、またポロポロと涙を溢す。  光が眩しくて、頭が痛い。吹きけるようないい香りに包まれて体の強張りが取れた分、余計にその光に敏感に反応してしまったのだ。  目を開けると、頭が痛いのが際立つだろう。熱でぼやけた思考のまま、もぞりと身じろぐ。布団が捲られて、いい香りを纏った人が隣に入ってきた。どうやら抱き枕をかって出てくれたらしい。  もう、死んでるんだ、だからカッコつけることなんてないのである。横に仰臥の形で入ってきたその人は、まるで寝かしつけるかのように布団の上を一定に撫でる。  ドラマで見たやつだ。寝付かない幼児に、親が寝かしつけるためにするあやしし方の一つ。天嘉がされたことのない、親から子への愛情表現である。   「辛いな、大丈夫だ。俺がついている、早く元気になれ。」 「う、…ん…」    甘い声だ。俺の父さんって、こんなにイケメンボイスだったのか。二次元にいそう。そんな取り留めのないとを思いながら、コテッと頭を預けた。  熱で体は辛いのに、今はこの人肌が恋しかったのだ。落ち着く香のかおりがするそこに擦り寄る。大きな手が優しく頭を撫でながら、そっと顔を埋めることを許してくれた。  とくんとくんという生命の音が、ここまで安心するなんて。    頭上で、先程のごじんとかなんとか言っていた声と、父さんの声が二、三やりとりをしている。天嘉は光から逃げるように顔を埋めながら、そっとその胸板を鼻先でなぞるかのように頬を擦り寄せる。   「小狐、こちらに顔を向けなさい。どれ…いいこだ。」 「ん…?」    小狐はどこにいるのだろう。そう思いながら聞き耳を立てる。大きな手が天嘉の頬を包んだかと思うと、濡れた何かがそっと唇に合わさった。   「んン…?」    ふわりとした落ち着く香りが近くなる、大きな手で頬を包まれながら、暖かいそれがそっと天嘉の唇を割り開き、くちりと小さな水音を立てて熱い舌を舐られる。とろりとした仄かな苦味のあるそれが喉を通り、ンく、と小さな喉仏が上下した。  優しく開かされた唇の隙間から、新鮮な酸素が取り込まれる。それも数秒後には、暖かな吐息へと変わり、まるで甘やかすかのように舌を擽る。   「ふ、ぅあ…、」    気持ちがいい。小さく混じる水音に、天嘉の細い体がふるりと震える。こくり、こくりと数度に分けて与えられた液体を飲み下すたびに、いい子だと褒められるように頭を撫でられ、甘く舌を食まれる。  これは、キスだ。   「ン…、え、」 「小狐、気がついたか。」    父親と?と確認するように、ゆっくりと瞼を開いた。口端から滲んだ飲みきれなかったそれを、少しかさついた親指が拭う。優しく微笑んだ目の前の男は、写真で何度も見た父親とは違う。そこらではお目にかかれないような、えらく容貌の整った人物がそこにいた。   「…誰ですか…。」 「先に名を名乗れ小狐。」 ぼやけた思考でそんなことを言う天嘉に射千玉の美丈夫は少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべた。不遜な態度がよく似合う。 「天嘉…」 「俺は蘇芳だ。」    いうことを聞けて偉いな。そう褒めるかのように髪を撫でられる。熱が高いせいか、自分は幻覚でも見ているのだろうか。ちろりと横を見ると、幼稚園児ほどの大きさの青蛙が桶に張った水から手拭いを出して絞っているところだった。   「カエルだ…」 「お目覚めですか。天嘉殿。そして私はカエルではなくツルバミでございます。」 「つるばみ…」    ゲロ、横長の瞳に天嘉を移しながらにこりと笑う。なんだこれ、CG?薄ぼんやりとした思考のまま、七宝繋ぎ柄の青い着物を身に纏ったツルバミがぺたぺたと天嘉に歩みよると、そっと額に濡れた布巾を乗せてくれた。   「ファンタジーですか…?」 「ふあん…た?まあ、よくわからんがツルバミは俺の屋敷の身の回りの世話をしてくれている。」 「へえ、なんなりとお申し付けください。」 畏まったように水掻きのついた手を前で組んでお辞儀をする。ツルバミはカエルだと言うのに、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。 「…蘇芳さん。」 「なんだ。」 「カラコンですか…。」 「からこ…ん?お前はさっきから、妙なことばかり言うな。」     なんだかふわふわとまとまらない思考を、さらに目の前の光景がかき混ぜられる。ツルバミに驚いたのを隠すかのように見上げた蘇芳の瞳は、まるで夕焼けから夜に移り変わるような不思議な色合いをしている。天嘉は目の前の上等な男の瞳を近くで見たくて、恐る恐るその頬に触れた。 「…蘇芳様、ツルバミは席を外しますが、あまりご無体はなさらないようにお願い申し上げまする…。」    ぱかりと口を開け、まるで汗を拭うかのように長い舌で顔を洗ったツルバミが、ペコリと一礼をして静々と下がる。できたカエルはこれから起こるであろうことを察したらしい。  蘇芳は後ろで襖の閉まる音を聞き届けると、そっと天嘉の上に覆い被さるように体勢を変えた。   「体がまだ熱い。閨での務めはまだ早いだろう。」 「ねや…?」 「天嘉、閨の意味を知らんのか。」    微かに驚きが混じったような声色で蘇芳が言う。目の前の天嘉は成人しているだろうに、そう言ったことに疎いのかと驚いたのだ。実際はその言い回しを知らなかっただけなのだが、蘇芳は神妙に頷くと優しく天嘉を抱きすくめた。   「…ん、何…、」 「決めた…お前はこの蘇芳のものにする。なに、案ずるな。きちんと最後まで教えてやろうな。」 「何、を…?」    鈍い思考のまま、蘇芳の背中をぽんぽんと撫でる。大の大人がじゃれてきていると思ったらしい。友人同士でもよく抱きつかれる側だった天嘉は、なんの疑問も持たなかったのだ。  蘇芳はゆっくりと体を離すと、その整った顔立ちで柔らかく微笑んだ。   「天嘉。お前はいとけない。このまま放っておいたら、また悪いものに魅入られる。だからここに男を教えて、俺の匂いをつけてやろうな。」 「…うん…、?」    蘇芳が優しく天嘉の下腹部を撫でた。男を教えるという意味はわからなかったが、なんだかその手のひらが心地よくて、熱で火照った体に触れられると仄かな痺れが身を走る。  蕩けた瞳でキョトンとする天嘉の頬を撫で、そっと唇を重なった。ぬるりと割り込む舌が天嘉のそれと触れあった時、ようやく蘇芳の言った言葉の意味を思い至ったのだが、天嘉の制止の声は飲み込まれるかのように深く舌が絡められ、漏れ出たのは掠れた吐息だけであった。

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