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天啓は時に残酷であった

 ぴたぴたと冷たい何かが天嘉の額に触れている。冷えピタかなあ、なんだかそれにしてはあまり覆えていない気がするけれど。  そう思いながら、ゆっくりと目を開いた。  見事な小組格天井を背景に、横長の瞳孔をぎょろりと動かして心配そうな顔つきのツルバミがひょこりと天嘉を覗き込んだ。 「…………。」  声には出さなかったが、心底驚いた。天嘉は至近距離で大きなカエルに覗き込まれて、意外ときれいな肌をしているんだなあと的外れなことを思う。  ツルバミはそっと天嘉の額から手を離すと、ぺたぺたと足音を立てて桶をよいせと持ってくる。  木の桶には湯気がたっており、それをえいやっと枕元に置く。  着物の裾を払うかのように綺麗に正座をすると、三つ指をついてツルバミがぺこりとお辞儀をした。 「この度は、契りを結ばれたとのこと、言祝ぎ申し上げまする。」 「ことほ…なに?」  天嘉はツルバミのただならぬ様子にムクリと起き上がると、その丸くこじんまりとした小さな背中を見つめた。  寝ぼけたまま、寝乱れた姿でぼんやりと見つめていると、契りという言葉がどうにも引っかかる。暫く無言で見つめつづけていた天嘉を不審に思ったのか、ツルバミが恐る恐る顔を上げる。 「蘇芳様と、褥をともにされたとか。お体のお加減はいかがかとツルバミはお世話しに参った次第でありまする。」 「しとね…?」 「おやあ、誠に天嘉殿は雛鳥のようなお方。よもやそういった閨事に疎くていらっしゃるとは。」  ツルバミの使う言葉が聞き慣れなさすぎて、思わずオウム返しのように口にしてしまう。ツルバミはポッと器用に頬を染めながら、やれこれはまたどうしたことやら、と緑色の雨蛙顔をぺたぺたと触れる。  やれなんだ、これはああだとぶつぶつつぶやく小さなカエルから目線を外すと、天嘉はくるりと部屋を見渡した。  随分と広い部屋だ。何畳だかはわからないが、猫間障子からは美しい枯山水が見える。部屋は藺草の香りが心地よい。鶸萌黄色の畳が覆うこの部屋は奥座敷だろうか。納戸へと繋がり、板の間から炊事場へと繋がっているようだった。天嘉が振り向くと、後ろには立派な表装裂の屏風が飾られていた。  天嘉は時代劇とかで見るような、殿様の部屋みたいだなあととぼんやりと思っていると、猫間障子を隔てた外に続く通路から蘇芳がやってきた。 「天嘉。目が冷めたか。いや、お前が生娘だということを知ったら止まらなんだ。無理をさせたなあ、熱は下がったのか。」 「あ。」 「うん?」  射干玉の黒髪を前に流した黄昏の瞳を持つ美丈夫が、障子にもたれ掛かるようにして天嘉を見つめる。その瞳の先にいる本人はというと、間抜けに口を開けてぽかんとした顔で蘇芳を見上げていた。  どうやら丸一日寝ていたらしく、朝日を背負って立つ姿が嫌味なくらいに似合っている。  天嘉の惚けている様子に困ったツルバミが、ゲロっと鳴く。 「旦那様、どうやら奥方はまだ熱に浮かされているご様子。やはりあの夜の無体が響いていらっしゃるのかと存じます。」 「ふむ、俺もちいとばかしやり過ぎたと思っている。どれ、天嘉。身体を拭いてやろう、前を寛げなさい。」 「ヤ」 「や?」  結城紬を着込んだ蘇芳が、どかりと天嘉の隣へと腰掛ける。そのまろい頬を大きな手が優しく添えるようにして触れると、はくはくと唇を戦慄かせた天嘉が、昨夜のことを思い出して一気に顔を染め上げた。 「や、ヤリチン野郎!!てめ、人のケツ勝手に弄くりやがって!!どの面下げて来やがる!!」 「やりち?ふむ、嫁は口が悪いようだがそれもまた愛い。元気なややこを産むには母体が快活でなくてはいかん。」 「や、…?またわけわかんねえことを…助けてくれたのには感謝すっけど、あの流れは明らかに異常だ!公序良俗に反する!同意なしのセックスはレイプと同じなんだよバーカ!!」 「ふむ、まったくもって意味がわからん。同じ言語を介しているはずなのになあ。お前のそれは方言か?」 「いいえ旦那様、おそらく狐の解する言葉やもしれませぬ。何分、異種ですゆえ多少の結婚観の相違は然るべきかと。」 「はああああ!?」  天嘉がこれだけ昨晩のことについてくどくどと道徳を解いているつもりなのに、この眼の前の男ときたらてんで響いている様子はない。  どうやら天嘉がツルバミの言葉の意味を理解しないのと同様に、蘇芳もにこにことはしているが、恐らく怒っているということは理解はしていなさそうである。 「ったく、ややこだのことほぎだのしとねだの、もっと現代人に向けた言語で話してくれよ…。なんとなく祝ってくれてんのはわかるけど、なにそれ。快気祝い?熱はもうねえから、迷惑かけて悪かったな。」  痛み気味の金髪をわしわしと掻くと、疲れたように引き寄せた足を抱き込んだ。所謂体育座りである。一人で落ち込みたいときによくやる癖が、ここで出てしまった。 「あらぁ、これはおやおやですよ。」 「ああ、おやおやだなあ。」 「んだよおやおやって」  ゲロッとツルバミが鳴く。蘇芳はううむどうしたものかと悩むように腕を組む。  天嘉はツルバミによって衣服を脱ぐように促されると、どうやらこのカエルは身の回りの世話をしてくれるようだと漸く理解した。 「いいよ、カエルには湯は熱いだろ。自分でする。」 「おやあ、なんと優しきお言葉。しかしツルバミのお仕事ですから、こればっかりは承服いたしかねます。どうぞごゆるりと蘇芳さまのお話をお聞きなさってください。」 「また難しいことばいう…」  しょうふく…?と困った顔をしながら、湯気の立つ濡れた布巾で身体を拭かれる。こんなちまいカエルに世話をされるのだ、やはり自分は死んだに違いない。天嘉は膝を抱えたままぼんやりと天井を泳ぐ発光体を見ながら、途方に暮れる。 「あのさ、どうやったら成仏できる?」 「成仏?」  天嘉の言葉に、蘇芳の顔が面食らったようになる。美丈夫のそんな顔がなんだか面白く、天嘉は吹き出しそうになるのをなんとか堪えると、生っ白いつま先をじっと見つめて言う。 「俺さ、変なのに襲われて死んだんだ。この世になんの未練があるかなんてまだわかんねえんだけど、ここってつまりあの世だろ?」  ツルバミに膝を抱えるのはよしてくださいと窘められ、後ろ手に体を支える。前もごしごしと擦るツルバミの顔は真剣そのもので、自分がまさかこんな目に合うとはなあとしみじみと思ってしまった。  余程天嘉が憂いでいた顔をしていたらしい。蘇芳は眉間にしわを寄せると、むすっとした顔で言う。 「ここがあの世だと?何を言う。こちらは妖かしの里だ。全く、いつまで寝ぼけているつもりだ。お前をあの世になんて、送るわけないだろう」 「あやかし…」 「へえ、このツルバミは青蛙、旦那様はこちらの御嶽山総大将、大天狗さまであらせられます。」 「おおてん、…」  天嘉は、呆気にとられた顔で蘇芳を見つめる。ツルバミは丁寧に天嘉の上半身を拭き終わると、いそいそとその布巾を再び桶につけて温める。 「うそだ、だって俺…」 「お前は、やまのけに襲われたのだ。俺が境界にいたからいいものを、まったくお転婆が過ぎて困る。」 「やまのけ?」 「ああ、最近外界で悪さをするものがいてな。お前はどこの里から来た。狐のくせによく化けている。見事なものだ。」  ちゃぷんと音を立ててで、絞られた布巾を蘇芳が受け取る。天嘉の着物をいよいよ寛げると、何も纏っていない下肢にそっと布巾を滑らせる。 「ひ、ひとざと」 「ほう、聞き慣れぬ里だな。外界は広いからなあ。大方旅の疲れで足を滑らせて迷い込んだのだろう。」 「だから、俺…狐の妖かしなんかじゃ…」  下肢を開かされ、丁寧に拭われる。昨日の情事を思い出した若い体は、蘇芳の布巾越しのその手のひらの強さにほのかに熱が灯る。  白い脚を抱え上げられ、ぐっと蘇芳が近づいてきた。鼻先が擦れ合うようなそんな距離で、不思議な色合いの瞳に天嘉を移す。 「そうか。まあお前が何であれ、もうこの俺の種をつけてしまった。もう俺の元以外はどこにも帰れまいよ。」 「ひ、っん…」  大きな手のひらが天嘉の下腹部を覆う。じわりとした熱い何かが腹の中側に広がっていく。  なんだか堪らなくなるような幸福感が、柔らかに天嘉の身を包んでいく。 「ふむ、居るな。よきかなよきかな、」 「おまえ、も…いみわかんね…」  じんわりと熱が灯る。腹の中側に渦巻く蘇芳の妖力が、天嘉の預かり知らぬところで体を作り変えていく。まだ芽吹く前だ、それでも蘇芳は漸く自分のもとに上等な雌が落ちてきた事を満足していた。 「なあに、今は何も気にするでないよ。」 「天嘉様は、ただごゆるりと静養なさってください。」  ツルバミも蘇芳も、これが最大の優しさだと思っている。行きどころの無い天嘉の身元を保証し、そしてそのふくよかな雌の香りを纏う眼の前の青年を、護るための最大の優しさ。  だって彼らの常識はそうだから。  拾った命は自分のもの、それが上等な雌だとしたら、尚更囲ってしまうのは当たり前なのだから。

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