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その引力に引き寄せられた

 その日の夜更けのことである。天嘉はツルバミの甲斐甲斐しい世話を跳ね除けて、風呂くらい自分で入ると突っぱねた。青藍の調合してくれた漢方は実に苦いが大変よく効き、良薬口に苦しとはこのことかと身をもって体験した。おかげさまで熱も下がり、ようやくツルバミから言われた、明日は床上げですなあ。という言葉に待ちきれずに、寝汗でベタつく体を流したいと思った次第である。   「露天だ…。」    天嘉は敷地を出るなというのなら、せめて庭くらいは散歩させろとツルバミにせっついていたこともあり、屋敷の外、丁度奥座敷の真裏のあたりを少し入ったところに、竹で目貼りをするようにして誂えられた露天があるということを聞きつけてから、ずっとその機会を窺っていた。だって、そんな贅沢な風呂があるなら入りたいだろう。    道中、まるで道案内をかって出たかのように、天嘉の周りを浮遊する鬼火には肝を冷やしたが、昼には目の前で青藍が鼬に変化するところも見ていたおかげで、以前よりは怪奇現象には多少の耐性はついた。  恐る恐る天嘉が鬼火にそっと指先を伸ばす。ふよふよと浮かんでいたそれらは、天嘉の好奇心に気づいたのか、そそそ、と近づいてきたかと思うと、その指先に乗るようにして天嘉が触れることを許してくれた。触れるとほんのり冷やっこい。吐息を漏らして感嘆する天嘉に気を良くしたのか、結局天嘉が露天に身を浸す時までずっと外灯がわりになってくれていた。   「鬼火って、青藍みたいに話せんの?」    ふよ、と浮かんでは泳ぐように宙を舞う鬼火は、答えらえぬ代わりにと言わんばかりに天嘉の頭上をくるりと回る。  天嘉はその反応に、だよなあ。と返す。  しゅる、と衣擦れの音とともに天嘉が寝巻きがわりの着物を脱ぐ。着付けの仕方など知らないが、まあどうにかなるだろう。  月明かりと人懐っこい鬼火の微かな灯りに照らされながら、天嘉はその白くて頼りない体を晒した。  年嵩は成人しているのだが、筋肉が薄い天嘉は、夜風に吹かれたその身を温めるかのように腕を摩擦しながら露天の淵に腰掛ける。    薄い肩が小さく震えた。ちゃぷ、と揺蕩う温かい湯船に手を浸して温度を確かめる。はらりと乳白色の湯の上を滑るように舞い落ちた紅葉が、まるで自身の存在を主張するかのように、さらに数枚の葉を落とす。樹の周りを照らすように舞う鬼火も相俟って、なんとも風情のある光景だ。  そっと爪先からゆっくりと腰を下ろすようにして湯船に浸かると、その手のひらで撫でるように肩に湯を運ぶ。  滑らかな湯触りが心地よい。今が何時なのかはわからないが、まあるいお月様が天高くから天嘉を見下ろしている。  なんだか、本当に、置いてけぼりだなあ。    暖かい湯船に浸かりながら、天嘉は瞼の裏がじんと熱くなる。よくよく考えてみても、自分の人生に振り回されてばっかりだ。  自分の意思、というものがあまり通らない。それが人間社会に席を置いていた時だけでなく、この妖の里に紛れ込んでしまってからも、変わることはなかった。   「……。」    天嘉は一杯一杯だった。ぽろりと零れた一粒には、たくさんの口にできなかった蟠りを如実に表している。  人間社会に馴染めず、トラウマから逃げるように迷い込んだこの山で、異形に追いかけられた挙句に崖から落ちた時点で、こちらの世界での出鼻は挫かれたというのに。 「手籠めにしといて、あれから顔を出さねえ、」  寝ぼけた自分が悪いのだろうか。それとも、あの大きな手のひらに、与えられることのなかった親の愛情というものを重ねてしまったからなのだろうか。  ぱしゃん、と音を立てて顔を濡らす。ふくよかな湯の花の香りですら、このささくれだった心のトゲを馴染ませることはなかった。  水面をつるりと滑る紅葉に、まるで流されていく自分のようだと重ねて笑った。  あの男、蘇芳は天嘉の同意も聞かずに嫁といった。  青藍の言葉で、男でも孕むし番えるとも聞いた。    だからって、その流れになるとしても説明くらいは欲しかった。  まあ、今から抱いて孕ましますと言われて、オーケーと言えるかは別の話なのだが。 「贅沢な一人湯だな。」  露天の縁に腕を引っ掛け、突っ伏すように竹林を見る。  考え事をするときに、一人で静かに虚空を見つめる癖はかわらない。青々とした竹が生え連なる姿を見て、木と竹の生える土壌には違いがあるのだろうかととりとめのないことを考えた。  無意識に、自身の腹に触れていた。天嘉はバツが悪くなり、その手を腹から離して髪をなでつける。馬鹿馬鹿しい。男に子宮など無い。  子供好きだが、産めるわけもないのだ。 「…………。」  静かだ。  湯が暖かくて気持ちいい。だめだとわかってるのに微睡んでしまう。泣きそうになったからだろうか。なんだかとても瞼が重かった。  鬼火がふよりと浮かんでいたのに、いつぞやか消えてた。消えているのにこの明るさはなんだろうなあと、後ろを振り向いた時だった。 「おヤァ!こんな所に雌がいるぞう兄者!」 「おい弟、お前はちと声がでかい。バレたら面倒だ。声を絞れ。」 「おヤァ!それはすまなかった!」 「……………。」  もうなにもおどろかない。ツルバミとはちがう少し高い声を出していたのは、ボロボロの行灯であった。裂けた場所を口がわりにしているのだろう、びろんと長い肉厚の舌を震わせてケタケタ笑う。  どうやら兄弟らしいその2つは、鬼火の代わりの灯りとなってじゃれ合うようにくるくると回る。 「こんばんは…?」  先住民だろうか、一先ず適当に挨拶をするとピタリと動きを止めた。どうやら本当に気づかれていないと思っていたようだ。こんな堂々と浮かんでいて、なんだか間抜けな妖かしである。  行灯の妖かしは、その身をグルンと天嘉の周りに纏わりつくようにして一周りすると、その灯火を膨らませて言った。 「挨拶が出来る雌だ!俺は左太郎!こいつは右太郎だ!!大天狗である蘇芳様のお供である!!」 「俺は右太郎!左太郎は兄である!雌、お前が蘇芳様の奥方か!」 「奥方じゃねえし雌でもねえ。まて、あいつ帰ってきてるのか。」 「蘇芳様をあいつ呼ばわり!やはり奥方だ!そんな恐れ多いことを宣う雌は、奥方以外にはありえない!」  左太郎はケタケタと笑うと、右太郎と共にぐるぐると回る。天嘉は揃いも揃ってみんな話を聞かねえよな。と、もはや諦め気味であった。  楽しげにぐるぐると回っていた左右兄弟は、その動きをピタリと止めると、まるで夜店を照らす行灯のようにその身をぶわっと分身させる。  姦しかったその口を閉じさせ、道を作るかのように増やしたその身で道筋を作ると、さくさくと叢を掻き分けるようにして何かが歩いてきた。  天嘉は突然、行灯による見事な回廊を見せつけられた事で、思わずそのノスタルジックな風景に魅入ってしまった。  魅入ってしまったからこそ、気がつくのが遅れてしまった。 「やあ。今宵は実にいい景色だなあ。嫁が露天で旦那を待っているなどと。」  その回廊をご機嫌な様子で歩いてきた蘇芳は、その黄昏時の瞳を隠すようにして天狗面をつけていた。  天嘉は見事な天狗装束に身を包んだ蘇芳が、その顔を面で隠していることになんだか勿体無いなどと思う。不届き者にそんなことを思ってしまう己の短絡的な思考を振り払うかのように、天嘉は無言で顔を反らした。 「おや、ツルバミから言われてきてみれば。やはり拗ねているようだ。よいよい、嫁はちいと手が掛かるほうが愛らしい。」 「嫁じゃねえ…」 「照れておる。ふふ、どれ。面を上げなさい。」  スルリと伸びてきた蘇芳の無骨な手に、顎を掴まれて顔を上げさせられる。面をとった蘇芳が覗き込むようにして見つめてくる。  射干玉の黒髪が一房天嘉の肩に落ちた。その微かな肌を撫でる感触に、フルリと身を震わせる。 「クソ野郎、結婚には本人の同意が必要なんだぜ。」 「おかしなことを言う。お前の同意などいらんのだ。これは運命なのだから。」 「お前なんか好きじゃねえし、興味もねえ。」 「おや、お前が俺に文句を言うのは、興味があるからだろう。」  ああ言えばこう言う。にこにこ顔の蘇芳は、言葉の応酬が楽しいらしい。天嘉の瞳に宿る剣呑さなどまったくもって気にしない。  天嘉がこんなに突っ撥ねているというのに、蘇芳は仔猫が戯れているようだと扱う。まるで同じ見目なのに、対等に扱われないことが悔しかった。  天嘉が振り払ったことで、蘇芳の手が離れる。近くにいたくなくて、そのまま湯を掻き分けて反対側に行く。言葉が通じないのなら、態度で示す。ここに来て数日で天嘉が学んだことであった。  蘇芳はつれないその様子に片眉を上げると、着ていた天狗装束をバサバサと脱ぐ。  ギョッとした。天嘉から見ても高そうである着物が、濡れた石畳の上に容赦なく脱ぎ捨てられていく。頭の中でツルバミの悲鳴を上げる幻聴すら聞こえる。ぽいっと下履きまで脱ぎ捨てた蘇芳は、その見事な男らしい体躯を月明かりに晒して湯船に片足を突っ込んだ。 「来んな!」 「おかしいな、俺は自分の家の湯に浸かるだけなのだが。」 「なら俺が出ていく。」 「おや、これは絶景。」 「見んなバカ野郎!!」 「ハッハッハ。それもまた無理な話だ。」  天嘉が抜け出そうと湯から出ると、裸を見て絶景などと宣う。男の裸を見て、一体何が楽しいのかとも思うが油断はならない。思わず体を再び湯に浸して抗議すると、結局同じ湯に浸かることになってしまった。  話すことは沢山あるのに、なんだかささくれだった心のせいで口を開くと泣きそうになる。  天嘉を抱き潰しておいて、一人寝をさせた酷いやつ。  あれから顔を合わさなかったのに、なんで今更こうなるのか。悪態をつくようなむすくれたままの天嘉の顔を見る。蘇芳だけがその瞳が赤らんでいることを理解していた。

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