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艱難汝を玉未満

「い、やだ…いやだ怖い…!」    天嘉は、自分の身に何が起きてしまったのかわからないまま、引き攣るような声をあげた。  まるで、自分が自分ではないような、そんな恐ろしい何かに内側から征服されるような言いようのない恐怖感に、細い体は震え、幼児のようにいやだと泣きながら、必死で蘇芳の腕の中から逃げようとしていた。   「ならぬ、耐えよ天嘉。俺が必ず楽にしてやる。痛みは伴うが、死にはしない。力を抜け。」 「やだ、っ…何これ、こんな、こんなの知らない!なんかいる、っ…俺の中に、なんか…ッ!」    蘇芳によって布団の上で抱きすくめらている。  ジクジクと痛みを強くする掴まれた左手は、まるで本当に自分のものかと思ってしまうくらいに言うことを聞かない。  馬頭の触れたそこは、侵食するかのように天嘉の皮膚の下でその獄炎を踊らせる。震える左腕を恐る恐る見つめた天嘉の目に入ってきたものは、まるで浮雲のように姿形を定めず、そして時折千切れるかのようにしながら、天嘉の皮膚の内側を蠢くアザの様なものだった。   「大丈夫だ。獄炎での火傷なら治る。いいか、泣いてもいいから俺に全て任せろ。必ず助けてやるからな。」     怯える天嘉の縋るような瞳が蘇芳を見上げた。必ず助けてやる。そんな言葉を本当に言う奴がいるのだと、当事者のくせして他人事のようにそんなことを思ってしまった。  蘇芳が布の上から豪快に神酒を流しかけた。天嘉は急激に下がっていく左腕の体温に異常を感じ、目を見開いた。  腕を覆い隠した布が、神酒によって生地を透かす。まるで刺青のように恐ろしい模様を形作っていたその獄炎が、じゅう、と音を立てて少しずつ皮膚から剥がれていく。  神酒を浴びた左腕は麻痺してしまうんではと心配するくらい冷たく冷えたのち、本当に突然、急激に叫び出したくなるような痛みが天嘉の腕に襲いかかった。   「ーーーーーっぁあ!い、い…ッ、!」    まるで荒い鑢で皮膚をこそげとるようにして削られるような痛みに、びくりとその身を引き攣らせた。   「青藍、いるんだろう!」 「はいよ!って、うわっ、呪がすごいなこりゃ、全部天嘉ん中から出てきたやつかい?」 「ああ、思い切り塩を撒け!此奴らが消えねば天嘉の痛みは治らん!」 「ひ…っ、ぁ…す、お…やだ、やだあ…」    俺を置いてけぼりにして、青藍と知らない話をする。俺はこれが何かもわからないのに、天嘉は案ずるなと教えてくれないことが気を使われているようで酷く嫌だった。  腕は痛いし、なんだか部屋の空気は臭い。白檀の香が焚き込めてあったはずなのに、今はその香の代わりに酷く焦げ臭い香りが充満していた。   「何、案ずるな。もう直に終わる。」 「おっしゃ終わり!」    蘇芳の言葉に被せるように、処理を終えた青藍が塩の入っていた木桶を掲げ、一仕事終えたといわんばかりにため息をついた。  天嘉はその身を痛みでのたうちまわらせていたこともあり、酷く疲れた様子でぐったりと蘇芳にその身もたれかからせていた。    お盆に木桶を置いて、背負っていた笈を降ろす。青藍は脂汗を滲ませ痛いと泣き叫んでいた天嘉の様子を心配そうに伺いながら、そっと投げ出された左腕を持ち上げる。濡れた着物の袖口をたくし上げ、獄炎で焼かれてしまった腕を見た。馬頭の手形のように焼け爛れたそこに軟膏を塗ると、神酒を染み込ませた布をあてがい、クルクルと包帯を巻いていく。  この獄炎の火傷は、馬頭によって消してもらわなくてはいけない。これは獄都で己の罪を償うものの手錠のような役割を果たしているからだ。 「まったく、なんでこんな難儀なことになっちまったんだい…」 「俺が目を離したら、天嘉が馬頭につれていかれそうになってな…。」 「ひ、っ…ぅ、く…も、やだ…か、かえり、たい…っ…ここ、こわ、い…っ…」 「天嘉…」  ふるふると震えながら、縋り付くようにして蘇芳の胸板に顔を埋める。せっかく距離が縮まったかに思えたのに、また振り出しに戻る。蘇芳は天嘉の細腕に無粋な枷をつけた馬頭を許すことはできなかった。 「旦那、浄めが終わったんなら、湯に入れてやんな。薬湯入りゃ少しは落ち着くだろう。それに、旦那のお子にも影響がないわけじゃないだろう?」 「ああ、…天嘉。湯殿に向かうぞ。」  青藍は笈から薬包紙に包まれた入浴剤を蘇芳に渡すと、泣き腫らした顔で、天嘉が言った。 「青藍…未だ、いる?」  ダチになる。そう言葉を交わしたことで、天嘉は青藍にそばにいて欲しかった。この里の中で、唯一天嘉にとっての友達は、この青藍しかいなかったからだ。 「ああ、いるよ。だからゆっくりあったまってきな。」 「ん、」  ぐすぐすと泣いていた天嘉が、小さく頷く。痛々しい腕をそっと抱き込むように胸元に寄せると、ホッとしたような顔をした。  蘇芳は、小さく口を噤む。まるでお前じゃないと言われているようだった。 「青藍、悪いが帰ってくれ。」 「え?」  蘇芳の冷えた声が上から降ってくる。青藍は一瞬、言われた意味を理解することができなかった。 天嘉ははくりと口を動かすと、ゆるゆると蘇芳を見上げて首を振る。 「いやだ、なんで」 「青藍は忙しい。お前のわがままになど付き合って居られぬ。」 「やだ、青藍…!」 「あー‥、えっと…」  蘇芳の言葉尻からは、醜い嫉妬の色が見え隠れしていた。天嘉が青藍に伸ばす手を良しとせず、まるで宝物を抱えるかのようにして抱き込む。  青藍にも番がいる。そのことは蘇芳だって知っているはずなのに、この眼の前の大妖怪はお気に入りを取られるということを危惧している。  無理もないなと思った。  青藍は、へらりと笑みを浮かべると、わしゃわしゃと天嘉の頭を撫でる。これくらいは許してほしい。 「わるいね、そういや俺の番も風邪をこじらせてんだ。あいつの為にも俺はそろそろお暇するよ。」 「…すまん、」 「いいよ、珍しいもん見れたし。天嘉は天嘉の番を頼りな。」 「うう、…っ…」  青藍が憎めない笑みを向けて言うと、漸く天嘉は諦めたようだった。本当の旦那がお前をこんなに想っているのに、下手くそな天嘉は甘えることもできない。互いが互いに歩み寄り方が下手くそ過ぎて、まるで磁石の反発のように進んでは下がる。  天嘉が落とし所を見つけない限り、こうして自分自身の首を真綿で絞めることになるだろう。まあなんというか、巻き込まれる方は堪ったもんじゃないな、この夫婦。そんなことを思いながら、どっさりと笈から薬湯の包を取り出す。 「俺はもうすることないし、馬頭に取っ払ってもらうにしても旦那が脅かしたんなら中々こちらには来ないだろう。俺は牛頭に話を通すしかないと思うよ。」 「ああ、まあなんとかする。」 「旦那、無理させんなよ。」  蘇芳は青藍の最後の言葉には返事をせず、苛立ちを噛み殺すかのような顔つきであった。  その顔が怖いんだって。そんな言葉がついて出てしまいそうだ。青藍はここに呼ばれたときから面倒ごとの匂いしかせず、まじでか。と思ってきたのだが、これから更に面倒ごとになるのは天嘉だ。蘇芳の捻くれた優しさが裏目に出ないことだけをひたすら祈るしかない。  襖が閉まり、奥座敷から出た青藍は、なんだかどっと疲れたと大きなため息を漏らした。 ご様子は如何か。視線だけでツルバミと十六夜が青藍を見上げる。 「口を使え口を、まったく。この感じじゃ到底歩み寄りなんて無理。蘇芳の旦那がもう離したくないって具合さ。」 「はあ、やはりそうでしたか…天嘉殿には悪いですが、旦那様のご気分が晴れるまではお付き合いいただくしかないようですな。」 「はあ…またか…」 「十六夜殿には苦労かけまする。今晩のうちにでも、一度お帰りになられては?そろそろ奥方様にもどやされましょう。」 「ああ、そうだな。そうさせてもらう。」  十六夜は、まあこれも職務のうちだと諦めたように立ち上がる。天嘉が落ちてきたときも、やまのけを払うお役目は十六夜が請け負った。  恐らく腹の子にしっかりと妖力を与えるためにも、蘇芳は3日は顔を出さないだろう。 「奥方様も大概にわがままなようにお見受けする。あまり我らのお館様を振り回さぬよう申し上げてくれ。」 「はあ、寝所に入れてもらえるならそう申し上げておきますとも。」  ツルバミの予想では、おそらく入れてもらえない。誰のものかを教え込むための匂い付けを、蘇芳によって施されるだろう。  ゲコリと疲れたように鳴く優秀なカエルを、十六夜も青藍も哀れなものを見る目で見つめた。

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