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三つ指ついて
「うう、きもい…マジできもい…」
「ウンウン、なんというか、まあ俺たちに前例があっても、天嘉たちにはないんだもんなあ。妊娠。」
「女はあるよ、でも俺ら男は孕ます側だから…なんつーか、妊婦さん大切にし、うええ…」
「はいはい、お前も今は妊夫なんだからね。」
あの後湯浴みを終えた蘇芳が、ツルバミの呼んだ青藍にニコニコしながら言った、俺の番に不貞を働くなよという失礼極まりない発言にキレた天嘉に蹴り出され、丁度飛んできた十六夜によって回収されていった。
いわく、いい加減承服しかねる。だそうだ。三日間の上司の不在を乗り切った十六夜は、俺にも家庭がございますのでと言って、蘇芳を職場に放り投げ次第妻のご機嫌取りに向かうそうだった。
「十六夜さんに、なんか詫びの品でも持ってったほうがいいかなあ…。」
「そんなことより、小豆がいい加減枕取りに来いよってへそ曲げてたぞ。」
「うわ、やべ…忘れてた…」
あああ、と頭を抱えながらうずくまる天嘉を見ながら、青藍は人間のくせに律儀なやつもいたものだと感心する。なんというか、青藍の中での人間というやつは、もっと狡賢く、狡猾で、ものをあまり大切にしないイメージがあったのだ。
「あ、小豆さんとこ行って、おはぎ買って渡せばいいかな…。やべ、俺って天才くね。」
「そもそも蘇芳の旦那が表に出さないだろうよ、なんてったって身重だし向こう見ずだしねえ。」
「蘇芳に買ってきて貰えばよくね。ほんで十六夜さんきたときに渡す。」
どうよ。という具合に明暗を見出したと顔色を明るくする天嘉に、青藍はすでに蘇芳のことを尻に敷いているなあと感心した。まあ、発想は悪くないのだが、蘇芳が十六夜におはぎなんぞ渡したら、畏まりすぎて羽が抜けるんじゃなかろうか。十六夜は限界を迎えると蘇芳を無理やりにでも職場へと連れて行くが、それ以外は折り目正しいというか、まあなんともクソ真面目なのである。
青藍は悪阻に効く吐き気止めを薬包紙に包んで天嘉に数日分処方すると、すまないね、と言って天嘉の首筋にそっと手を当てる。どうやら蘇芳が無茶な抱き方をしたせいで、また少し熱っぽい様だった。
「俺からも旦那には言伝しておくけどさ、まあ、無理な繁殖は少し控えてな。また熱出て苦しむぞ。」
「繁殖いうな。」
「現代だとなんていうんだい?」
「セックスだな。まあ、俺前は使ったことねえんだけど。」
「おやあ、童貞非処女だ。女の味を知る前に雌になっちまうとは、これまた難儀な人生だなあ。」
にやにやと揶揄う様に青藍はいうが、なんというか、ここまで犯され尽くして男の味を覚えてしまった手前、なんだか自分が抱くというイメージが湧かないのだ。雄としての機能がなくなったのかもしれない。天嘉は腹を撫でながら引き攣り笑みを浮かべた。
風が気持ちがいい、サワサワと吹く風はゆるりと奥座敷に入り込む。換気のために開け放たれた障子の外には、影法師たちが今朝の後片付けをしていた。
「っと、昼餉はもう食ったのかい?処方した薬は朝昼晩に一袋づつ、まだ飲んでいないなら飯を食ってからが望ましいんだが…」
「飯、飯なあ…。食えるかわかんねえけど、むしろキッチンに立ちてえなあ。」
なんとなくだが、炊事場を見たかった。天嘉がここにくるまで、ずっと居酒屋の厨房で働いていたこともあり、基本的に料理は嫌いじゃないのである。
天嘉が何気なく口にした言葉に首を傾げる青藍が、言いにくそうに言った。
「きっちん?また珍妙な言葉を使う。なんだそりゃ。」
「飯作るとこだよ、厨房?っていやいいのか。俺居酒屋で飯作ってたからさ。」
そんなことをいう天嘉に、青藍は大層仰天した。
「ええ!天嘉は飯炊ができるのかい!そりゃあいいや、旦那が喜ぶ!」
「ええ、そんなテンションあげられても大したもの作れねんだけど…」
「天尊…そうだなあ、まあ何事にも感謝しないとだよな。ここは一発厨房に立ってみるってのはどうだい。旦那のご機嫌取りに丁度いいや。」
天嘉は、青藍がまた訳のわからないことを述べたことに、意思の疎通がたまにできねんだよなあと半ば諦めの境地に達したのだが、なるほど、確かにご機嫌取りにはいいかもしれない。
「だけどそれはいまじゃねえ。天嘉がややこのためにも体休ませて、蘇芳の旦那がいいよって言ってからだ。できた嫁は、旦那の言うことを聞くもんだぜ。」
「何その亭主関白…俺に三つ指ついて出迎えろって言ってんのか…」
妖の結婚観はやはり時代錯誤である。天嘉はそんな丁寧な自分の姿が想像できなさすぎて、早速諦めた。青藍はご機嫌に尾を立てながらツルバミんとこ行ってくらあと炊事場へと消えていった。納屋と板の間を挟むが、奥座敷から炊事場へはすぐである。この距離だし、屋敷の外に出る訳じゃないし、まあ考えてみるのもいいなあと思っていたのだが、そもそも現代と同じ調味料があるのかもわからない。味噌や醤油くらいはあるだろうが、まあとりあえず出たとこ勝負にはなりそうだ。
しばらくしてツルバミが握ったという焼きおにぎり片手に戻ってきた青藍と共に、味噌風味のそれを平らげたのだが、カエルのツルバミが火傷しなかったのだろうかということだけが気になった。
「これにかえる汁でもついたら文句無いんだけどなあ。」
「おいやめろ。」
青藍の言葉に、なんとなく想像してしまった天嘉であった。
その日の晩、蘇芳が帰ってくる少し前のことである。
天嘉が炊事場に立っているツルバミの後ろ姿を見ると、着物を襷掛けで袖をまくりながら、なんとも器用にしゃもじで炊き立ての米をお櫃に移しているところであった。
「熱くね?手伝うよ。」
「おやあ天嘉殿、お気遣い痛み入りまする。それでは混ぜて冷ましてもらっても良いでしょうか。今日はちらし寿司でございます。」
「おー、わ、っと…湯気すげえな。」
「うまいもんには手間を惜しまずが我々ですから。おや、手際が大変によろしい。天嘉殿は厨房の経験がおありで。」
ツルバミが甘酢を振りかけながら、天嘉が馴染ませる。久しぶりの厨房に天嘉は少しだけ気分が高揚していた。
「おう、居酒屋やってたんだよ。飲み屋メニューなら一通り作れるけど…メニューって、献立な。」
「おやあ、めにゆうとやらが献立の意…ならば本日のめにゆうはちらし寿司、という具合ですなあ。」
ケロケロと快活に笑いながら、菜箸を器用に扱う。錦糸卵や桜でんぶ。甘く煮つけた蓮根さんに、これまた甘めの干瓢に生姜の漬物。なんとも彩豊かなこの晩飯に、なんかあったかなあと首をかしげた。
「天嘉殿が悪阻を召されているのは承知いておりますが、このめでたき日に、ツルバミは居ても立ってもいられませんでした。いやあ、誠にご懐妊おめでとうございまする。」
「…結構前にも言われてたよな。」
「いやしかし、おふた方がきちんとご夫婦として寄り添われたのですぞ。これが新たな門出と祝わずにして、いつ祝えというのやら。」
市井で鯛も仕入れてきましたぞ。などと言いながら、ニコニコ顔で大きな鯛を見せつける。天嘉はなんだか気恥ずかしくて仕方がない。これで、腹も膨れてくればいよいよ自覚を持つのだろうが、今はまだ平たいままである。腰につけらえた蘇芳の紋も、見ようと思っても手鏡じゃあなかなかに確認がしづらいのだ。
天嘉は照れ隠しに、そうかよ。とそっけなく呟いたのだが、まるでツルバミは理解していますともといわんばかりにニコニコとカエル顔を緩ませて微笑む。
影法師たちも口は聞けないが天嘉を慮ってくれているらしい。天嘉がトイレに起きた時も、ソワソワしながらついてきたりするのだ。
「おやあ、そろそろお戻りの時間ですぞ。天嘉殿は床につかれて待たれますか。蘇芳殿から無理をするなと言付かっておりますので。」
「ん?んー…」
ツルバミが心なしか期待する様な目で見上げてくる。どうやら主人の出迎えを一緒にして欲しいのが本音な様である。天嘉は少しだけ逡巡はしたものの。昼に話していた自分が三つ指をついて出迎えるというイメージができなかった。
ならば、やってみるのも一興かもしれない。
「行く、」
「おお、大層お喜びになられますぞ、ささ、こちらにっ」
ツルバミの嬉しそうに急かす声に連れられて、ひょこひょこと後ろをついていく。玄関の間でツルバミの横に腰掛けると、お化け行燈の回廊が玄関までの道を赤く彩る。
ああ、蘇芳が帰ってくるなあ。そんな当たり前のことを思いながら、ツルバミの見様見真似で三つ指をついて出迎える。バサリと大きな羽音がしたかと思えば、カロカロとやかましい下駄の音を響かせながら、蘇芳が天嘉に縋り付く様にして抱き込んだ。
「天嘉!体を冷やしていけないとあれほど、」
「おかえりくらい言わせろ。」
「はあ、締まりませんなあ。おかえりなさいませ蘇芳殿。」
「お、おお、おう、うん、うん…」
蘇芳は天嘉の前で膝まづいたまま、意味を理解したのかぶわりと顔を赤らめた。全く、なんとも素直な反応で、大変によろしい。思わずムニリと高い鼻を指先で摘んでやれば、何が感激したのか大はしゃぎで天嘉を抱き上げた。
「今帰った!全く、今日はよき日だ!」
あっはっは!とご機嫌な蘇芳の声が夜の闇を突き抜ける。そのやかましい声に、夜の賢者が迷惑そうに羽ばたいていった。
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