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十六夜の受難
あれから数日、天嘉が行きと帰りに玄関の間で挨拶をするようになってから、蘇芳がきちんと職務に励むようになったらしい。
小豆が痺れを切らして枕を届けてくれたときに、天嘉が十六夜へのお礼も兼ねたおはぎを注文した。
それを蘇芳に取りに行かせている時に、十六夜が偶々立ち寄ったのである。
「実に喜ばしい。お館様は奥方様を娶る前のように、日々真っ当に職務に励んでくださっているのも、これはひとえに奥方様がお出迎えをなさるからに他ならない。旦那への行き帰りの挨拶程、励みになるものはありません。」
十六夜は入ってこいといったのに、律儀に奥座敷には足を踏み入れず、外の通路に正座をしながらそんなことを宣う。
天嘉はツルバミに頼まれた繕い物をちくちくとしながら、申し訳無さそうに問うた。
「蘇芳、そんなにさぼってたんか?」
「さぼ…、申しわけありませぬ、さぼるとは。」
「サボる…あ、サボタージュってフラ語語源だっけ?なんだっけこういうの…あー、油を売る?」
「はあ、なるほど。さぼたーじゅとはさぼるで油を売ると同義と。然りげなく使えるように致しまする。」
「しかりげ…?」
十六夜もたまに難しい言葉を使う。天嘉はしかりげってなんだろうと思考に宇宙を背負いながら、曖昧な返事をする。
しかし、十六夜はというと現代の文化には興味があるらしく、まるで天嘉に何かを待望するかのような眼差しで見つめてくる。
天嘉からして見たら、なんでそんなに見てくるんだと言う具合にだ。困り果てた天嘉が、さてどうしたものかと頭を掻くと、もごりと十六夜が口を動かした。
「あの、」
「あ、はい。」
ぐっ、と着物の裾を握りしめながら、なにか思い詰めているかのような面構えで、十六夜が言った。
「奥方様の、すまほなる文明の利器を…拝見させていただくことはできぬでしょうか…」
「スマホ?いいよ。ちょっとまってな。」
「忝い…おお、これが…」
十六夜はまるで手の舞足の踏むところを知らずといった具合に目を輝かせる。どうやら大層喜んでいるらしい。ぶわりと見事な漆黒の羽を思わず広げるものだから、天嘉はびっくりして二度見した。
「失敬…、少々気が高ぶった…」
「お、おう…ほらこれ、」
天嘉が手にしたボディバッグも気になったように見つめる。ツルバミにズタ袋扱いされたそれは、天嘉の唯一の荷物である。
手招きをすると、戸惑いながら静々と近づく。スマホを渡すと、それを水を掬うように手のひらで受け皿をつくって受け取った。
「ほら、ここの脇のボタンを押す。」
「牡丹。なるほど。繊細なほどに小さき突起は花の名を有するか…」
「うん?」
また訳のわからんことを言っている。そんな顔で十六夜を見ると、恐る恐る指でボタンを押す。パッと画面が光、初期設定のままの味気ない待ち受けになると、十六夜の目が輝いた。
「お、おお…おおお…」
「おお、大丈夫かよ…」
「なんたる、精緻な浮世絵…してこの面妖なものは一体…。」
「これが時刻で、これがアプリだな。このマークがアルバム」
「あ、あぷ…あぷばむ…」
「惜しいなあ…」
真剣な顔をした烏面の男が、たぷたぷと恐る恐る触れている。アプリもアルバムも、天嘉からしたらなんて説明をしていいかわからない。
試しにアルバムを開いてやると、ツルバミやら青藍の他に、天嘉の腰の花模様などが映されたものが出てきた。
「んな、っ…!!!ほ、おっ、え、あ!!」
「うわ、そんな声だせんのおまえ…」
「ここ、こ、こしの、おお、め、女印!!」
「メイン?」
ぶわわわっと勢いよく顔に紅葉を散らすかのようにして驚愕した十六夜は、勢いよく自分の目に向かって指を突き刺そうするので、今度は天嘉のほうが仰天した。
「うう、うわあああばかばか!!なにやってんだ!!!つ、つる!!ツルバミーーー!!!」
「と、止めてくださるな、俺は、俺はお館様に顔向け出来ぬ…!!お、奥方様のめ、め、女印など…!!!」
「えええいみわかんねえから!!なんだメインって!!」
ぐぎぎ、と腕に血管を走らせるほど力を込めるものだから、自然と天嘉も十六夜の腕に縋り付くようにして阻止をする。
ただならぬ様子を察知したツルバミは、大慌てで奥座敷に入ると、十六夜に抱きつくようにして止めに入っている天嘉をみて、この世の終わりのような顔をした。
「ひ、ひええええ!!ななっ、な、なにをなさって!!!不貞は許しませぬぞ天嘉殿ーーー!!!!」
「馬鹿!!ほんと馬鹿!!ちげえよ!!十六夜が目潰ししようとしてんの!!止めろ!!」
「へぁ、あ!?い、十六夜殿お気を確かにいい!!!!」
「ぐぬううううと、止めてくれる、なああああ!!!!」
もう奥座敷はてんやわんやだ。天嘉はなにがメインだかわからないまま豹変した十六夜にドン引いているし、ツルバミはツルバミで目の黒いうちは不貞など許しませぬと意味のわからぬことをのたまう。真相を知るのは十六夜のみで、痺れを切らした天嘉は苛立ちを隠さずに叫んだ。
「おめえのお館様の嫁が止めろって言ってんだわこのくそうつけ者が!!!てめえは俺より偉いのか、ああ!?」
「ゲコォ!!天嘉殿!?」
天嘉の鋭い怒声と指摘に、忠義心の厚い折り目正しい烏天狗はハッとした。脳内を駆け巡った相関図では、明らかに十六夜より上の立ち位置だ。
蘇芳に傅くならば、奥方に傅くのも同じ。
十六夜の明晰な頭脳はすぐに冷静さを取り戻し、すぐに居住まいを正すと、然り。と言って落ち着いた。
「んで、説明。」
スパンといい音を立てて畳を叩く。その顔の治安の悪さと言ったら、ツルバミはよく整った顔をそこまで悪に染められると舌を巻くほどには悪そうであった。
「はっ、夫君しか知らぬ女印を異性に晒すなど、恥部を晒すと同義。意図的に見たものは無体を働いた事となり、我々のうちではその目を潰さねば許されぬほどの大罪にございます。」
「俺に恥部増えてんの…」
「ああ、そうでした…天嘉殿はこちらの理を理解なさっていなかった…」
恥部と言われてげんなり顔の天嘉は、そんなことなら先に言えよと蘇芳に対して業を煮やした。
十六夜は、天嘉が断を下すのを待つように頭を下げている。
まさか首を取るのを待たれているとは思っていない天嘉は、困り顔のままツルバミを見た。
「恥部って知らねえでみせたらどうなんの?それって俺が悪くね?」
「はあ…まあ、そうであっても立場が違いますからなあ…」
「立場って引き合いに出されたら、俺だって種族ちげーからそもそもだわ…十六夜」
「はっ、」
さて困った。天嘉はどうすっかなあと思いながら頭を掻くと、とたとたと軽やかな足取りで近づく蘇芳の気配を察知した。
「天嘉!おはぎさんを持ってきたぞ!いやあ、嫁御の為に使いなどと、なかなかに悦に入る!おう、十六夜。貴様なぜこちらの座敷に俺への断りもなく上がっている。」
ご機嫌な様子で部屋に入ってきたかと思えば、急に声のトーンを下げて十六夜を見咎める。感情の振り幅が大きいというか、大人気ない。蘇芳は酷く冷たい目で十六夜を睨むと、すかさず天嘉が声を張り上げた。
「おかえり。威嚇すんな!そもそも俺が十六夜に迷惑かけたんだ。」
「何をいう、お前が迷惑などと申すものがいればこの俺手ずから荼毘にしてやる。」
「だび?」
「火葬のことでございまする。天嘉殿。」
「うわあ…」
また頭の沸いていることを…、と辟易した顔で蘇芳を見上げる。威圧に押されたのか、十六夜の美しい黒羽が少しだけ毛羽立っていた。
天嘉は人差し指をくいくいと曲げ、子猫を呼ぶかのように蘇芳を呼ぶと、嬉々として天嘉の横にはべる。全く、犬猫のように扱われる大妖怪など、三千世界探してもお目にかかれないだろう。そんなに世界があるかは別として。
「おはぎ。」
「ここに。」
差し出した天嘉の手のひらに蘇芳が恭しくおはぎの入った箱を乗せる。その化粧箱を開けて中身を確認すると、頭を下げ続けている十六夜の後頭部に箱を乗せた。
「これ、詫びな。」
「詫び…?」
「蘇芳が三日間十六夜に迷惑かけた詫び。奥さんと一緒に食ってくれ。」
「よもや嫁に頼まれた初めての御使いが俺自身の詫びの品だとは驚いた。」
しみじみ頷く蘇芳を横に、十六夜は酷く青ざめた顔で恐縮した。まさか自身が傅くものから、下賜されるとは思わなかったらしい。しかし頑なに受け取ろうとしない十六夜に痺れを切らした天嘉が、今日十六夜が行ったらしい天嘉に対する不敬の罰としてこれを受け取れ。と半ば無理矢理に受け取らせると、畳に頭が埋まるのではないかと言わんばかりに額を擦り付けながら受け取った。
折り目正しい難儀なやつ。天嘉は十六夜に対してそんなイメージを抱いた。蘇芳は女印を見られたらしいということに酷く憤慨したが、天嘉が機転を利かせたおかげでことなきを得た。
「よもや揃いの印が嬉しくて見せびらかしてしまったなど、そんな愛いことを言われては怒るに怒れぬ。命拾いしたな十六夜。」
「天嘉殿…傾国ではありませんか…強かなお方…」
「つか見せちゃいけねえなら先に言えよな。」
「失念していた。いやしかし自慢したかったかあ、そうかあ。」
十六夜が辞した後、天嘉はえらく感激した蘇芳の膝の上に拘束されていた。顔に面倒臭いという表情を貼り付けながらあしらう姿は既に板についたもので、御嶽山総大将たる泣く子も黙る大天狗の威厳がかたなしである。
ツルバミはただただ口八丁が非常によろしいようで、とだらしのない笑みを浮かべながら愛でる蘇芳を見ながら、一人先が思いやられると溜息を吐いた。
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