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紅葉燃ゆるとある昼下がり
甚雨はとても大きな獣だった。榛色に輝く瞳は理知的で、とても穏やかな顔つきをしている。
ゆっくりと枯葉を踏みしめながら蘇芳たちの前までくると、四つ足を揃えてお座りをし、まるでお辞儀をするかのようにその頭を下げる。
「お初にお目にかかる。細君殿。妻からよく貴方様のお話をお伺いしている。」
「あ、えと…、こんにちは…。」
「獣の姿で申し訳ない。今妻は伏せっておりましてな。弱っている妻に寄り添うのならこの姿が一番でして。」
「え、青藍参ってるんですか。」
「ええ、何やら頭がいたいとやらで。」
そういうと、甚雨はふんふんと鼻を聴かせたかと思うと、くるりと振り向いて木々の間に見える落ち着いた一軒家に顔を向けた。
家の引き戸が開いたかと思うと、転がるように芦毛の小さな子犬が飛び出してきた。まるで躓いて転けるようにして人型に変化すると、とてとてという覚束ない足取りで甚雨の元に駆け寄ってきた。
「おっとう、おっかあが客人呼んでこいって!」
「具合はもういいのか。」
「金色のにいちゃんだけならうちあげてもいいって。天狗はダメだってさ。」
拙い言葉で甚雨の足にしがみつきながら言う幼児は、顔立ちが確かに青藍によく似ていた。
天嘉は渋い顔をする蘇芳とは裏腹に、犬耳を生やした小さな子供の愛らしさに顔を綻ばせると、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「こんにちは。僕、名前は?」
「うわあ、父ちゃん、この人おっかあの知り合い?」
「これ、名を名乗れ。母の知人に失礼をするな。」
同じ目線になった天嘉を見て、慌てて甚雨の影に隠れると、ふくふくとした頬を染めながら、ちろりと上目遣いで天嘉を見上げる。
甚雨が嗜めると、お耳をへにゃりとさせながら、着物の裾を弄りながら小さく呟いた。
「おいら、松風…、まーちゃんって呼んでいいよう。」
松風は天嘉に抱っこをせがむように手をあげると、パタパタと尾を振る。天嘉があまりの可愛さに唇を急と引き結ぶと、触ってもいいかと確認するように甚雨を見た。
「ご迷惑でなければ。」
甚雨は獣顔でも苦笑いをしているような雰囲気で頷くと、天嘉が松風の両脇に手を差し込んで抱き上げた。
幼児独特の高い体温と甘いかおりが天嘉の中の母性をくすぐる。着ている着物の胸元を小さな手で握り締めながら上手に抱っこをされると、ふんふんと嗅覚をきかせながら天嘉に寄り添った。
「お兄ちゃん、てんちゃんだ。おっかあから、てんちゃんはいい匂いがするから、おいらのことも好きになってくれるって言ったんだあ。てんちゃん、おいらのこと好き?」
「松風、かわいいなあ…。青藍から俺のことなんて説明されてるかわかんねえけど、俺松風好きだよ。」
お日様の匂いがするよう。松風は嬉しそうにそう言うと、天嘉にしがみつくようにして抱きついた。蘇芳がむすくれた顔をしているが、流石に幼い幼児に対しては離れろとは言えないらしく。腕を組んだまま致し方あるまいと言った雰囲気で二人のやりとりを見つめていた。
「俺、お呼ばれしてっからちょっと行ってくる。蘇芳と十六夜はそこで待っててな。」
「蘇芳殿を表で待たせるのは心苦しいのだが、何分嫁の頼みなもんでな。申し訳ないが暫し待たれよ。」
「構わぬ。天嘉、早く済ませろよ。」
「だあから俺はてめえの尻拭いにきてるんですけどお。」
松風を抱いたまま甚雨の案内で敷居を跨ぐと、中には人に化けている青藍があぐらをかいて待っていた。三和土に靴を揃えて脱ぐと、板の間に上がる。こじんまりとしてはいるが、なんとも住み心地の良さそうな青藍の隠れ家は、囲炉裏を囲んで家族が団欒できるような広さの座敷に、いくつか部屋があった。嗅ぎ慣れた薬草の香りからして、一つは青藍の作業場だろうか。
松風を抱いたまま上がってきた天嘉を見て、青藍は気恥ずかしそうに頭を掻くと、青藍のところに行きたがる松風を下ろしてやる。
「おっかあ、おいらちゃんとてんちゃん呼んできたよう、えらい?」
「おう、さすが甚雨と俺の子。松風はお利口だなあ。」
あぐらをかいていた青藍の膝に甘えるように抱きつくと、ちぎれんばかりに尾を振り回す素直な喜びを見て、天嘉は先程から胸が甘く悲鳴をあげるのだ。
純粋無垢な幼児だけでもかわいいのに、獣の耳がついているのがずるい。
天嘉の後ろから甚雨がのそりと顔を出し、まるで青藍の背もたれになるような形に身を伏せさせる。青藍が甚雨の頭に腕を回してワシワシと頭を撫でると、天嘉を見上げて照れたように口をもぞりと動かした。
「いけない、ついいつもの癖がでちまった。」
「おっかあ、とうちゃんのこと大好きなんだよう。」
「こら、松風。余計なこと言わんでおくれ。」
頬を染めた青藍に窘められ、松風が口を抑える。きょとりとした顔で甚雨を見上げると、ぺろりとその頬を舐められてふくふくと笑った。
天嘉は進められるがままに座布団の上に正座をすると、青藍が崩していいというのであぐらに変えた。
ひくんと鼻を利かした青藍が、天嘉の持っている籠を見やる。なんだか当初の予定よりもカチンコチンになってしまったくず餅は、なんとか黒文字が通るまでの柔らかさに戻ってはいたが、なんとなく出しづらい。
申し訳無さそうな顔でそっと籠から皿を出すと、青藍が戸惑いながら受け取った。
「なんだいこれ。くず餅?随分とハイカラなもん持ってきたね…」
「これ、詫びに作ってきた。ちょっとしかねえけど、もし嫌じゃなければ食って。」
「詫び?」
蘇芳が失礼なことしてごめん。そう言うと、青藍はようやっと合点がいったとばかりに頷いた。はぁあ、あれかあ。そんな具合に思い出し笑いをすると、甚雨がよしなさいと鼻先で青藍の頬をつく。
「青藍が臥せっていたのは、別に蘇芳殿のせいではない。」
「え、そうなの?」
「おっかあ、雨が降る前が具合悪いんだよう、だから多分、もうすぐ降るとおもう。」
「はは、まあ自分で頭痛止め作って事なきを得たがね、どうも天候が悪化するといけない。」
照れたように頭を掻く青藍に、成程妖かしも低気圧で体調を崩すことがあるのだなあと感心した。
天嘉も台風やら突然の雨やらで具合が悪くなるのだ、この気持ちはよくわかる。自分も同じだと言うと、青藍は自分が調合した薬のあまりを天嘉に渡した。
「これやるよ、なるほどなあ。低気圧ってやつのせいなのか。空気の圧が関係してるとはおもしろい。こりゃあ太刀打ちできないわけだな。」
「俺はなんともないが。」
「甚雨は大雑把だからなあ。気圧も苛む奴を選ぶのさ。」
「ふは、なんかそれいいな。選ばれしものみたいで。」
青藍の言い回しが面白くてくすくす笑うと、そばかすの散った可愛らしい人の顔を緩ませて青藍も笑う。
天嘉の作ったくず餅もどきを黒文字で切り分けると、パクンと一口。どうやら出来は上々らしく、目を輝かせて瞬きをした。
「天嘉!こりゃあいい出来だよ!小豆んとこいって修行でも積んだのかい?」
「え、いや落雁あまってたからさ…」
「落雁でできんの!?これが!?甚雨!おまえさんも食ってみろ。こりゃ店出せるよ。」
「おいらも!おいらもたべたい!」
口を開けながらぴょんぴょんと跳ねる松風を、男らしい腕が抱き上げた。瞬きの合間に人型になったらしい甚雨が、整った顔であぐりと黒文字に刺さったその一切れを青藍に食べさせてもらっていた。
「うむ、これは誠にいい出来だ。こんな上品な菓子を手土産にしてくださったとは、なんとも申し訳無い。」
「おいらも!」
「はいよ、松風もあーんしな。」
むぐりと口を動かした甚雨が、灰色の髪の隙間から榛色の瞳を緩めて微笑んだ。
蘇芳に負けじとも劣らぬ美丈夫だ。松風も恐らく青藍と甚雨の血を引いて、将来有望ないい男になるに違いない。天嘉の菓子を頬張り尻尾をぶんぶんと振り回すと、おいら、てんちゃんおよめにしたいなあ。などとませたことを抜かす。
「てんちゃんは蘇芳の嫁だから、松風の出る幕はないよ。」
「蘇芳様には、かなわないものなあ。」
「松風の可愛さなら勝ってるぜ?」
「おいら、とうちゃんみたいに二枚目になるんだい!」
きゃんきゃんと甘えるように甚雨に抱きつくと、その大きな手で松風の頭を撫でる。
天嘉の手が無意識に腹を擦る。それを見た青藍が、小さく微笑んだ。
「甚雨、おまえちょいと松風と表に出ておいでよ。天嘉と嫁同士の話をするからさ。」
「承知した。松風、父と遊ぼう。おんもには蘇芳殿と十六夜もいる。松風の变化をみせてやりなさい。」
はあい!と元気よく手を上げた松風に、またねと手を振られた。可愛いがすぎる。天嘉がにこにこしながら振り返したのを見ていた青藍が、くすくす笑った。
「子は可愛いよ。天嘉、お前さんも腹にいるんだ。母になるというのは、尊いことだよ。」
「…うん、いいなあっておもった。」
照れくさそうに呟いた天嘉の頭を撫でる。蘇芳が聞いたら、きっと羽根を出して喜ぶだろう。
青藍の手のひらがそのまま天嘉の首の包帯に触れると、そっと撫でた。
「天嘉に、同じ思いをしてほしくなかったんだよ。」
「同じ思い?」
「…喉元を食われたらって話をしたろ。」
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。天嘉は聞き返したことで、困ったように笑う青藍に申し訳無く思った。
居住まいを正して、小さくうなずく。話の続きを待つ天嘉の顔に、青藍はゆっくりと口を開いた。
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