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その均衡を崩すのは

 九瞞山隠神刑部狸、名を義骸というらしい。  本性は八百八狸軍を使役する大きな体躯の古狸であり、その気性の粗さは熊にも挑むほどだという。  義骸は達磨のような厳しい顔をして、我が物顔で天嘉の居る奥座敷に胡座をかき、その横に首を赤い紐で括った天嘉を侍らせる。    いまや奥座敷は化け狸の一派が我が物顔で占拠しており、奥座敷から続く広間の扉を開け放って続き間のようにしていた。天嘉から遠く離れた下座では、毛を逆立てて怒りを顕にする青藍を必死で宥めるツルバミと影法師たちがおり、勝手知ったる様子で持ち込んだ酒やつまみを広げては、祭りが好きな獣たちはお囃子太鼓でどんちゃん騒ぎだ。 「隠神刑部狸、義骸殿…大変に気性が荒いと伺っておりまする、天嘉殿の懐の深さを信じて蘇芳殿の帰宅を待つしかありませぬ…」 「あの畜生扱いする赤い紐は何だってんだ。いくら人間嫌いだからといって、あんな勝手が許されるかよ。」 「恐らく、試されているのでしょう…。蘇芳殿と同等の他山の総大将でございますゆえ、痺れを切らしてせっつけば忽ち戦へと転じます。だからこそ天嘉殿の嫁としての器量を図られておられるのかと…」  義骸は瓢箪に入った酒を煽るかのように飲む。天嘉は、まるで御伽話の世界でしか見たことのないその酒瓶をみて、興味深そうにしていた。  鱒の串焼きを頬張り、グビリと男らしく飲む。なにやら山賊の頭のような風貌でありながら、この大きな狸の一派をまとめているのだ。  天嘉からしてみたら、現代で言う大企業の社長を接待する感じだろうか。そんなことを思うと、義骸が食べにくそうにしている鱒の串を見て、つい口が出た。 「義骸さん、お髭が立派だからそのまま口にすると汚れちまう。俺でよけれほぐそうか。」  義骸は、人型になると箸を握るのも下手くそであった。だからこうして串焼きしか食らうしか無いのだが、天嘉はそんなこと知る由もない。  まるで己が馬鹿にされたのかと思ったらしい。ぴきりと血管を際立たせると、手で掴んでいた赤い紐をぐいと引っ張った。 「ぅ、っ」 「貴様、人の分際でこの義骸の食事に文句をつけるか。」 「ぇほ、っ…」 「俺は箸が使えぬと馬鹿にするのか。つまりは、そういう事だな?」 「っ、ちげ…」  紐ごと引かれると、首が締まっていけない。なにやらこの赤い紐は特殊なものらしく、先程から天嘉の腹に溜めている蘇芳の妖力を吸収している気がするのだ。  義骸がこうして甚振る度に顕著になるその感覚に、ざわりと背筋が粟立つ。 「義骸さん、あんたのが上なんだから…なにも人の真似事なんてすることないんだ。だから俺は、ほぐそうかと言った。」 「ふん、弁えていると。」 「人が畜生なら、こんな紐でくくんなくたって俺はそうするよ、蘇芳の面を汚したくない…。」  けほりと噎せながら、天嘉はまっすぐに義骸を見つめた。この古狸がなぜ人を憎んでいるのかは知らない。しかし、こんなに大勢の部下を従えている度量の男だ。きっとなにか理由があるのだろうと思ったのだ。  義骸は面白くなさそうに、その紐から手を離す。まるでこの人間に試されるような気がしたからだ。  天嘉は居住まいを正すと、そっと義骸の皿を引き寄せ、串に刺さった魚を引き抜く。器用に箸で骨を抜いていく天嘉をはらはらと見守っているツルバミと青藍は、生きた心地がしなかった。  もし少しでも義骸の気に食わないことが起これば、忽ち天嘉は頬をはられてしまうのではないか。そんな緊張感のなか、固唾をのんで見守った。  小骨の一つまで丁寧な所作で取っていくと、義骸は天嘉の細やかな気配りに、ふむと満足したように頷いた。 「雌、貴様が食わせろ。」 「…わかった。っ、これで…?」 「侍るとは、つまりはこういうことだ。」  義骸に引き寄せられると、その太い腕によってあぐらの片膝に腰を落ち着ける形になった。何でこんなことになっているのやら、天嘉はこれも嫁の努めなのかわからないままツルバミに目配せをすると、ぶんぶんと首を横に振られた。 「俺、一応蘇芳の嫁だから不義はしたくねえんだけど…」 「大天狗が人の嫁を娶るなど気の触れたことをするものか。それとも嫁として蘇芳の面を汚したくないと豪語しておいて出来ぬと?」 「…できる。首の紐といえくんねえかな、これ気持ち悪いんだよ…」 「ふん、生意気にも吸われる妖力があるか。」  馬鹿にしたように笑う義骸に、天嘉の眉間にシワが寄る。吸われるのは天嘉の妖力ではない、腹の子の為に与えられた蘇芳の妖力だ。  義骸の膝に尻を押し付けながら、天嘉がその紐を解こうと力を入れる。  やはり力を入れればその分吸い取られるようで、くらりとした目眩によって蹌踉めいた。 「…俺は良いけど、腹の子の妖力だ。な、これとって…」  ぐらつく視界を正そうと俯いたまま目を瞑る。船に乗っているような不安定な感覚に、腹の子に妖力が行き渡っていないんだということを理解した。 「ぎ、義骸様!不躾承知で申し上げまする!天嘉殿の腹の中には、誠に蘇芳殿のややこがおりますゆえ、母体に影響がでるようなお戯れはよしていただきたい!」 「九瞞山の総大将だからってここまで人様の家で好き勝手して許されるかってんだ!俺は天嘉の主治医だ、参ってる患者目の前にし口出すななんて野暮なことは言わないだろうな?」  あわあわと立ち上がったツルバミが、まろびでるように義骸の前で平復する。青藍はいつの間にか獣顔に戻っており、まるで敵を目の前にしたように威嚇顔でズカズカと歩み寄ると、義骸を見下ろして宣った。 「そこな鼬、下がれ。主はお前の発言を許してはいない。」 「あんだよ、犬っころもどきが俺とやるのかい。鼬舐めるなよ化け狸。」 「これだから猫科の獣は常識がなくていけない。粗野な態度は里譲りか化け鼬。」 「んだこら。」 「なにおう。」  歩み出た侍従しかりとした化け狸の一匹が、睨みを利かすの青藍の前に歩み寄る。一触即発の雰囲気に、ツルバミは大慌てである。ああ、まずい。どうして己の周りの妖かしは短気なのだろう。  青蛙面をさらに青褪めさせたツルバミが、どうしようと頭を抱えたときだった。 「青藍、さがれって。侍従さんもよしな。宴の席ならその態度は間違ってる。ツルバミ、俺は大丈夫だから…義骸さん。」 「ふはは!人間に宴の礼儀を解かれるとはこれまた面白い!平次、さがれ。鼬、貴様もだ。」 「かしこまりました…」 「俺が下がるのはお前さんの指示じゃないからな…。」  ぐぬぬと悔しそうに顔を歪める狸は平次と言うらしい。顔色が優れない天嘉が気丈に振る舞っているのだ。青藍とて鼻持ちならぬが下がるほかはない。  ツルバミはその場を収めた天嘉の采配にゴクリと喉を鳴らす。見まごうことなき総大将の嫁の器であった。 「それと、義骸さん…侍るのはしてやりたいが、ちょっと…すまん、具合悪くて…」 「ふん、弱いな人間。しかしその様子では嘘ではなさそうだ。」 「うん、…だめだ、ちょっと…せいらん、」  腹の子に妖力が回らずにおきた目眩はくらくらと一向に良くはならず、助けを求めるように青藍を呼ぶ。 天嘉の首に巻かれた諸悪の根源を青藍が切るつもりで握り締めると、ぐっと力を抜かれるような感覚に仰天した。 「はあ!?おま、こんなとんでもないもんを妊娠してる奴に巻くだなんてどういう了見だ!ツルバミ!ハサミもってこい!」 「大袈裟な、たかだか抜き取られるのは微々たるものだ。そもそも妊娠なんて病ではないのだ。その位で音を上げているようじゃ嫁なんぞ務まらぬ。」 「ああ、微々たるもんっていってる妖力がどれだけ天嘉にとって大切か、わかってるのはあんたじゃねえからな!」  ツルバミが大慌てでハサミを持ってきたのとほぼ同時に、にわかに奥座敷と襖を隔てた外の通路が騒がしくなった。  空気が重く淀み、冷気をまとう。天嘉は気分の悪さを逃すようにゆっくりと呼吸をしながら、青藍に促されるように座布団を枕に横になる。  スパンと音を立てて襖が開いた瞬間、青褪めた顔をした宵丸を背後に携えた蘇芳が、その黄昏の瞳に昏い怒りの炎を宿しながら奥座敷の状況を見据えた。 「蘇芳、」 「……。」  細い首に野暮な呪い混じりの赤い紐を括り付けた天嘉が、ぐったりとしながら横たわる。その姿を見とめた蘇芳の纏う空気が硬く研ぎ澄まされたものに変わると、その空気を震わすような蘇芳の怒りを感じ取った者たちが、己の過ちに漸く気がついた。  鋭利な殺意は喉元にあてられた刃のように緊張感を孕む。嘘偽りなく、ツルバミや青藍が言った通りの本物の嫁が、義骸の暴挙にあてられた天嘉であったのだ。 「蘇芳、きて…ぐあい、わるい…」  張り詰めた空気を和らげたのは、天嘉の一言だ。蘇芳の中の優先順位を正しく理解していた天嘉の一言に、鋭い空気を纏っていた蘇芳が迷いなく向かう。義骸などなきもののように無視をして横たわる天嘉のもとに跪くと、それに続くように宵丸も駆け寄った。 「ツルバミ。湯の準備をしろ、体温が低い。青藍、おまえは薬湯を作ってくれ。」 「御意」 「合点!」  くたりとする天嘉の首もとの呪いに宵丸がそっと触れる。パキキ、と氷の澄み切った音がしたかと思うと、まるで小枝を折るかのごとく赤い紐がぱきりと千切れる。  妖かしなどに使う体罰用のそれは、素行の悪いものが裁かれるまでのひと時、拘束をされるためのものだ。  宵丸は渋い顔をすると、天嘉を抱き上げた蘇芳の顔をちらりと見た。 「散れ。俺は今虫の居所が悪い。宵丸。」 「…はいよ。」  ため息を1つ。宵丸が体に霜を纏うと、影法師達が慌てて襖を開け放つ。  怪訝そうな顔をした狸達が構えるまもなく手を一線させると、室内は一気に雪風が吹き荒れた。 「な、なんだと!?」 「義骸の旦那は蘇芳の特別に手を出したんだ。悪いがお帰りいただくよ。」 「貴様、気でも触れたか…!」 「それはこちらの台詞だ。」  宵丸によって吹き飛ばされた仲間達を見た義骸が、血相を変えて蘇芳を見た。  義骸の知る温厚な姿は鳴りを潜め、その冷えた眼差しが体を射抜く。  対等に肩を並べていたはずの目の前の男が、まるで底のしれぬ恐ろしさを抱く雰囲気は、己の妖力を持ってしてでも抗えぬ。本能からくる怯えが義骸の体を支配した。

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