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天嘉の琴線
宵丸によって話を聞きつけた蘇芳が文字通り飛んで帰って目にしたのは、人嫌いの義骸によって畜生のような扱いを受ける嫁の姿であった。
赤い紐で首で括られ、青藍によって介抱をされている青褪めた顔の天嘉の姿を目にした時、蘇芳の腹の中でぼこりと湧き上がったのは怒りだった。
腸が煮えくり返るとはよく言ったもので、その蘇芳の怒りは明確な妖力の揺らぎとなって知覚する。その身に纏う妖力が蜃気楼のごとく周りの景色をブレさせると、その場の空気をキンと張り詰めさせた。
九瞞山隠神刑部、義骸。
御嶽山に大きな土砂崩れが起き、このままでは麓の人里までに被害が及ぶという危険を孕んだ時、義骸が神通力からなる土遁の術でその土砂の行き先を大きく変え、間伐をした根の深い木々の合間を満遍なく滑らせたおかげで、大きな被害には及ばなかった。
土遁の術によって御嶽山に流れる川の水は濁ってはいたが、それも川の神である龍の水喰が力を奮ってくれたおかげで余計な水量を増やすことなく山の地下水へと転じさせ流ことができたのだ。蘇芳にとって、共に山を守り抜いた戦友の一人。
功労者として手厚く宴を開いたこともある仲だ、実に気前のいい男だということもしっている。しかし、しかしだ。
「こればかりは承服しかねる。」
「貴様、この俺の眷属共を庭に追い出すとはどういう了見だ。」
狸共は義骸の後ろでただの獣に成り下がり、一塊になって様子を伺っている。平次であろう、理知的な瞳を持つ大狸が毛を逆立てながら群れの先頭に立ち威嚇をするが、宵丸は気にもせずに指を一閃させて氷の檻を作り上げた。
「義骸、天嘉は俺の嫁だ。腹の子も紛う方なき俺の子だ。貴様が人を嫌っていることは百も承知している。だからこそお前にはきちんと話をしようとしていた。」
「なに?話だと…。そこな人間は多少は頭が回るようだが、所詮狡猾な生き物だ。どうせ内側から我らを陥れようとしている。いい加減に目を覚ませ蘇芳。孕ませるのなら、そこな人ではなくてもよいだろう。」
天嘉がほう、と息をつく。蘇芳の妖力はじんわりと寄り添ったところから体の中に染み渡る。義骸が天嘉のことを話しているのは聞こえている。そして、蘇芳の嫁と認めぬ物言いをするのも全て、耳に入ってきている。
抱き上げられ、縋る形で持たれていた天嘉の顔が、表情の抜け落ちた蘇芳に向く。ああ、自分の雄が傷ついているのだと理解した。
「…義骸さん」
「なんだ人間。よもやこの俺に説教でもするつもりか。」
「うん。」
蘇芳の腕の中、義骸を真っ直ぐに見つめた天嘉が、なんの衒いもなくそんなことを宣う。
これに義骸は大いに面食らった。なにせ、この人間の雌が冗談に乗ってきたのだ。夫に抱かれ、気が強くなったのだろうか。義骸はにやりと犬歯を見せつけるように笑う。蘇芳は、戸惑いの色を隠せないといわんばかりに、天嘉を嗜めるように見つめた。
「天嘉、おまえなにを」
「義骸さん、あんたそんだけ立派な部下を纏めてるくせに、随分とタマの小せえことを言うじゃねえの。」
「て、天嘉殿!?」
この九瞞山隠神刑部狸、泣く子も黙る義骸殿を前にして何ということを!ツルバミは、蘇芳の腕の中から身を起こした天嘉の鋭い目線が義骸が射抜くのを見て、ぶわりと冷や汗が吹き出した。
「貴様、今この俺に、何を申した。」
「玉袋小せえ古狸が、調子乗ってんなって言ったんだよ。」
「天嘉、よせ。」
「煩い、ちょっと蘇芳は黙ってろ。」
「ちょ、ま」
もぞりと動いた天嘉が、蘇芳の頭を抱き込むようにしてしがみつく。胸元に顔を押し付けられた蘇芳は、ぴしりと固まってしまった。先程まであんなに怒りに震えていたのに、今は嫁の胸元に顔を埋める据え膳だ。情報が纏まらなくて、おずおずと支えるように背に手を回すと、天嘉の手のひらが髪を梳くように蘇芳の頭を撫でた。
「俺はいいよ、でも腹の子も蘇芳も、俺以外を蔑ろにされんのは許せねえ。しかもなんでお前が威張ってんだ?九瞞山隠なんとか刑部だかっていう名前が偉いのであって、お前が偉いってわけじゃないだろう?」
スパンと物凄い切れ味の一言が、その重苦しい空気を両断する。蘇芳の御嶽山総大将も、九瞞山総大将隠神刑部狸も、名を賜って己に冠する。
選ばれた者たちは、その名の伝統に恥じぬ行いをせねばならない。故に、常に己の判断が最善でなくてはならない重圧に耐えている。
名は誇りだ。だから名乗るものなのだ。しかし、確かに冠している名は役職名のようなもので、最初から己のためにつけられたものではない。その事実を、天嘉は改めて知らしめる。
天嘉はずっと腹が立っていた。蘇芳の嫁だから、旦那の知り合いやら上司やらが来たらもてなさねばと常々思っていたのだが、まずこの義骸は事前のアポイントメント通りに来ない時点で不届き者である。天嘉の中で事前に連絡もないやつは社会人どころかどこに行ったって人に迷惑を掛けるだろう。というのが評価であった。
「お前、俺より偉いとか言うくせに事前のアポイントメントもとらねえじゃん。それに夫婦の寝室に許可なく入り込んできて常識がないのか。一介のたぬき風情がどれほのもんか知んねえけどさ、たかが役職の上にふんぞり返って、己の面一つで物事潤滑に進めようなんざ都合が良すぎるってんだ。」
「あ、あぽ…?」
義骸を真っ直ぐに見つめ、頭の硬い目の前の不届きものとして捲し立てる。天嘉が義骸に重ねたのは、己の役職に驕り高ぶり適切な説明もないままに横暴をふるった過去の上司の姿だった。
「大体蘇芳の話聞かねえで、勝手に思い込みでここに押しかけてきた挙げ句、同じ肩書きの総大将相手にお邪魔しますも言えねえじゃん。子供でもわかる礼儀が出来ねえ奴が、なにが総大将だ偉そうに。蘇芳にお伺い立ててきたのか?嫁のことについてきちんと確認した?てめえの不始末と思い込みとリマインド不足棚に上げてふんぞり返っていられるその度量はなんなわけ?」
「り、りま…貴様はさっきからなにを!」
「何をじゃねえこのたわけ!!人が下手に出てりゃあ調子乗りやがって、俺の旦那が俺を選んだんだ!!お前は蘇芳でもねえくせに人の大事なもんを卑下するなんてどういう了見だばーか!!」
いい歳して、なんでこんなことを言わせるのか。そして、その迂闊な一言で何故天嘉の大切を傷つけるのか。
蘇芳が天嘉の妊娠を喜んでくれたのに、それを真っ向から否定する義骸に腹が立ったのだ。腕の中で硬直する蘇芳から体を離して、その腕から降り立つと、ふらつきながら歩み寄り、目を丸くしている義骸の胸ぐらを掴む。
「いいか、頭が間違ってたら下のもんも間違うんだよ!あんたが背負ってんのは名前だけじゃねえ、お前の振る舞い一つで下のもんの価値まで下げんだよ!」
先程まで青白い顔をしていた目の前の雌が義骸に凄む。天嘉の言葉に義骸は目を見開くと、耳の裏まで走る羞恥の熱を感じた。人間如きになぜ諭されねばならぬ。義骸の矜持を煽るかのような物言いに、其の顔を張るつもりで手を振り上げた。
しかし、それは事をなさなかった。義骸が振り下ろすよりも前に、蘇芳がその手を止めさせたのだ。
己の腕を掴む蘇芳の手の力の強さに目を細める。義骸は指先の痺れを感じると、諦めた様にゆっくりと手を下ろし、天嘉を見据える。
目の前の人間の嫁は、義骸が手を振り上げても、まっすぐに見つめたまま逃げはしなかった。真正面からしかと睨みすえ、決して怖じることはなかったのだ。
「…雌、貴様が言う価値とはなんだ。」
重々しい口調で、義骸が天嘉へと問う。これが、目の前の人間を見定める最初で最後の質問だった。
「蘇芳。俺の価値は蘇芳だ、そんで、その何もない俺を価値があるものに変えてくれた旦那に、俺は報いなきゃいけねえ。それが筋ってもんだろう。」
淀みなく答えた。睨みを利かした天嘉の言葉は、義骸の内側にじんわりとひりつくように残る。真正面から投げつけられた真っ直ぐな言葉に、反論の気力を奪う。眉間に皺を寄せたまま、深く溜め息をついた。
成程、これが蘇芳の嫁か。
人を嫌う義骸が何よりも悔しかったのは、天嘉のその言葉に聞く耳を持ってしまった己の迂闊さであった。
厳しい顔をしたまま、真っ直ぐに天嘉を見つめる。その細い肩に無骨な手が触れると、ゆっくりと姿を隠すようにして蘇芳が歩み出た。
「お前ばかり前に出るな。嫁なら慎ましく後ろにおれ。」
「俺まだ狸と話し終わってねえんだけど。」
「具合が悪いのに無茶をする。義骸、俺の嫁がどんな奴なのかは、もうわかっただろう。それに俺の番は天嘉だけだ。人間だからいけないという、狭い視野を俺は持ち合わせていない。」
蘇芳の大きな手が、わしりと天嘉の頭を撫でた。義骸は、先程までの剣呑だった蘇芳の妖力が穏やかになっていることに気がついた。
どうやら、嫁である天嘉によって義骸は助けられたらしい。いくら同じ役職を担っているからと言って、大天狗と古狸ではこちらの分が悪い。負けるつもりなど毛頭ないが、やはり羽を持つ妖かしの相手をするには骨が折れる。
一触即発もかくやと言わんばかりの厳しい一幕は、天嘉の機転によって収められた。
蘇芳が出る前に天嘉が食いかかってきたのは、総大将同士の諍いに発展すれば面倒事が大きくなると思ったからだ。
一方が雌であれば、その争いは雄の度量を測られる羽目になるに違いない。ならば、相手にとっては、部下から見ても懐の深い雄だということを示すために折れなくては行けない状況を作ればいい。そうでなければ、雌にも強く出る男という不名誉なレッテルを貼られるのは彼方の方だ。
天嘉の視野は広かった。総大将の妻としての、博打にも似た振る舞いは見事功を奏したのである。蘇芳はそんな勇ましい嫁の姿に目を細めると、その腰を抱いて歩み出る。
「義骸、己のことで怒ってくれる嫁をつくれ。お前はいつまでも独り身でくすぶっているべきではない。」
「そんなことわかっている。しかし、やはり俺は人間を好きになれぬ。俺の番を奪った人間など。」
蘇芳の嫁は、確かに出来た嫁だ。義骸は、己の番であった雌と似た心根の強さを感じてしまった。しかし、やはり線引はしてしまう。義骸の心の傷は、こうまでして未だ根深い。
天嘉は義骸の心の内側を絞り出すような吐露を聞き、そっと歩み寄る。まるで、手負いの獣のような雰囲気を纏っているように見えたのだ。
「嫌いでいい、だけど妥協はしてほしい。人が嫌いなら人を知るべきだ。知らなくちゃ出来ない事もある。それに俺を利用すればいい。」
「天嘉、」
「…俺を諭すか、雌。少々お転婆がすぎるきらいがあるな。」
「蘇芳の嫁だからな。こうじゃねえとアンタみたいな奴と真っ当に会話出来ねえだろ。」
肩をすくませて宣う。そんな堂々たる気骨のある姿に、義骸は声を上げて笑った。
「蘇芳。お前の選んだ人間は、なかなかに見上げた根性をしている。よもやこの俺が常識を解かれるとはおもわなんだ。」
肩を震わし、その大きな体躯を揺らしながら笑う義骸に、庭に一塊になった狸共は目を丸くした。番を亡くしてからこうして笑うことも少なくなった義骸が、この人間によって感情を揺さぶられたのだ。
これは一体どういうことだ。あの人間は何をした。一番の腹心である平次は、戸惑ったように瞳を揺らしたまま、四足の獣姿でずっと義骸の大きな背中を見上げていた。
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