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愛しい体温

 蘇芳は何でも一人で行っていた男だった。  ツルバミを迎えてから、これが私めの仕事ですのでと屋敷の一切を取り計らわれてからは、仕事に専念することができたのだが、やはりその心の空虚は埋まることはなかった。  総大将として長く座していた蘇芳は、周りのものが番うのを祝いながら、ずっと己の番いを待ち続けていた。  あそこの猫又が嫁を取った。あそこの唐傘が子を成した。やれ歌えや踊れ、飲めや笑えやの宴席で、蘇芳だけはずっと穏やかに微笑みながら、皆のことを蚊帳の外から眺めていた。  番は持たぬのか、そう聞かれるたびに、今はまだだと答えていた。それは嘘偽りのないことばだったのだが、いつしか蘇芳は嫁を取らぬ、この御嶽山と番ったなどと言われるようになってしまった。  山は孕ませられぬだろう。そう蘇芳が言うと雌が寄ってくる。すると誰と番うのかと囃し立てられる。だから断れば、やはり山と番ったのだと言われるのだ。  だからもう、外野は好きにさせておけと放っておいたのだが、少しずつ心は疲弊していった。 番いに出会わず、このまま朽ちるのだろうか。 もしや、蘇芳の番は出会う前に死んでしまったのではないか。  そんな憶測も飛び交って、口数が少なくなり始めていた頃に、天嘉を拾ったのだ。 「うむ、悪くない。」  蘇芳のその長い年月を天嘉に語るなど、女々しいことはしない。  だけどこの嫁は、まるで蘇芳のしてほしいことをわかっているかのように、そっと寄り添ってくれるのだ。  食べさせ慣れてはいないのだろう。下手くそな食事の介添えも蘇芳にとっては嬉しいことだった。 「そうかよ。」  耳の先端が赤らんで、ツンと尖らせる唇が可愛らしい。蘇芳の顔を琥珀に映す天嘉は、その白い手でそっと髪をかき上げるように、蘇芳の形のいい額を晒す。  そっと影が入り込み、天嘉の額と蘇芳の額が重なった。  蘇芳は口付けをするのかとほのかな期待を寄せたのだが、違うらしい。もぐもぐと口を動かしながら天嘉を見上げると、困った顔で見つめ返された。 「んだよ、ふつーに体調わりーじゃん。」 「む、そうか?」 「なんか、熱っぽい?」  天嘉の手の平が確認するように、再び額に触れる。蘇芳の体温は、己の体温と比べても少しばかし高い気がした。  なんのことやらといった顔で見上げてくる蘇芳の寝癖を治すように手櫛で整えてやると、ちょっと待ってなと言って席を外す。  蘇芳は自分の額にぺたりと手を当てたが、やはりよくわからない。天嘉が待てというのだから、次は大人しくしておこう。そういう心積もりで、蘇芳は食べさしの粥の匙を自分で握ったのだが、待っていればまた食わしてくれるだろうかと思いなおし、手に持たされた粥の椀をそっと盆に置いた。 「わりいな、ここに頼む。」  奥座敷から繋がる板の間で、天嘉の声がする。蘇芳はなんとなくそちらを見つめていたのだが、どうやら宵丸もいるらしい。相変わらず人の嫁を嫁ちゃんなど軽々しく宣いながら、何かを手伝っている。  なんとなくいやだ。蘇芳は少しだけむっとすると、ふらふらと立ち上がって板の間の柱に凭れ掛かるようにしながら引き戸を開けた。 「天嘉。」 「わ、あーもー、寝てろってほら!」 「おや、蘇芳が伏せってるってーから手伝ってやったのに、なんだか元気そうじゃん?」  からりと音を立てて滑る引き戸の隙間から顔を出した蘇芳に、水の張った木の桶に氷を入れてもらっていた天嘉はぎょっとして見上げた。 桶に手を突っ込んで、水を握りしめるように氷を作っていた宵丸は、その灰銀の瞳を楽しそうに煌めかせてくふりと笑う。 「蘇芳のために氷水作るって言うから手伝ったんだ。ほら、俺の得意分野だしいー。」 「だって熱さまシートとかねえじゃん。なんなら豆絞りしかねえし。」  カロンと涼し気な音を立て、天嘉が氷水に白い手を浸す。固く絞った豆絞りを広げて空気に晒して冷やさせると、それを四つ折りにして蘇芳の額にべチリと貼り付けた。 「っ、」 「お、冷てえ?宵丸さんきゅ。」 「構わねえよ、こないだのたい焼きのお礼だ。」  これ枕元に運んどくぜー!とご機嫌に宣うと、桶を持ち上げてスタスタと行ってしまった。  蘇芳はずり落ちそうになる豆絞りを手で抑えると、少し赤くなった天嘉の白い手に触れた。 「赤くなっている。」 「あ?うん。すぐ戻んべ。」 「…すまんな」 「しおらし、柄じゃねーって。おら、さっさと行くぞ。」  天嘉に手を握られ、片手で冷えた豆絞りを抑えながら奥座敷に戻る。  思えばこうして手を引かれるということもなかったのだ。蘇芳は思わず握り返すと、ちろりと天嘉と視線が絡まる。  引かれるがままに連れて行かれた布団の横には宵丸が桶をどんと置き、蘇芳の食べさしのお粥をご機嫌に食らっていた。 「あ、てめ。まあいいけどよ…」 「残しっちまってんのもったいねえだろ?丁度冷えてたしな。ほら、あとこれも冷やしといた。」  意地汚い奴め。と、恨めしそうな目で蘇芳が宵丸を見つめても何のその。どうやら急須まで凍らせたらしく、ニコニコしながらそれを振って出迎える。  ちゃぷちゃぷと音がするので、どうやら外身だけ器用に凍らしたらしい。  天嘉に支えられながら布団に入った蘇芳の横で胡座をかくと、宵丸は、寝転んだ蘇芳の額の上の豆絞りを指先でつんと突いた。 「あ、やべ。」 「っ!」 「うわばか!」  キンと澄んだ音がしたかと思うと、豆絞りは見事に凍りつく。直に氷を乗せたようになってしまった蘇芳は、あまりの冷たさに息を詰めると、すかさず天嘉がそれを鷲掴んで桶の水に突っ込んだ。 「おまけでやってやろうと思ったんだけどなあ、やっぱ布はむずかしいや。」 「俺はてっきり仕留めに来たのかと思ったぞ。」 「バカ野郎、やりすぎんなっての!凍傷になったらどうすんだったく。」  溜息混じりに天嘉が氷を溶かした豆絞りを絞ってやる。ピタリと再びに頭に乗せられたそれに、蘇芳はびくんと体を跳ねさせたが、天嘉によって首まで布団をかけられると、それを見た宵丸が面白そうに顔を緩めた。 「なんだ。やるのか。」 「こいつ病人の癖に喧嘩っ早くね!?」 「宵丸が誂うからだろ、ほらもう寝かすからお前も戻んな。」 「俺氷要員かよお!」  俺の扱いがあんまりすぎるだろ!などと喧しい。  しかしながら蘇芳の風邪をうつすわけにもいかんだろうがと天嘉がいうと、それも然りと言ってさっさと根城に帰って行った。  なんだか氷をもらうだけでどっと疲れた。天嘉の溜息に、蘇芳がきょろりと黄昏色をそっと向ける。 「迷惑を掛けるな。」 「風邪薬はないけど二日酔いの薬ならあるぜ。」 「もらおう。」  急須から冷えた茶を湯呑みに注ぐ。薬包紙に包まれたそれを渡してやると、さらさらと口に含んで茶を飲む様子を感心したように見つめていた。 「なんだ?」 「粉薬、そのまま飲めんの偉いな。」 「お前も飲めるだろう?」 「飲めるけどさ、だけど苦手なんだもん。」  むすくれた顔で言う。こういう時の幼い表情が可愛らしいと思う。 蘇芳は布団から手を伸ばして頭をひと撫ですると、布団をまくって隣に来るように促そうとして、やめた。 「ん?」 「いや…、妊娠しているお前に風邪をうつしたらと思うとな…。」  もぞもぞと布団を口元まで被る蘇芳に、今度は天嘉の胸が甘く鳴く。  この大天狗は、こんなに上等な容姿をしているくせになんとも可愛らしい。天嘉は額の豆絞りを取ると、それを氷水に浸して固く絞る。  ぬるくなったそれを換えてやれば、蘇芳は心地よさそうに目を細めた。 「…な、お前の具合よくなったら、またどっか連れてけよ。」 「む、そうさなあ…ならば紅葉でも見に行こうか。」 「おう、あ。俺飯作ってくから持ってこうか。」 「天嘉の手料理か、うむ、近くに滝壺があるから、そこで飯を食おうか。」  楽しみだ。そう言っていつもより少しだけ赤らんだ顔で微笑む。  天嘉は、その艶を帯びた美しい黒髪をそっと梳くように撫でる。はやく元気になってくれないと、天嘉だってなんとなく調子が狂うのだ。  頬に触れると、やはり少しだけ体温が高い気がした。 「高菜をいれてくれ、あとはいなり寿司が食いたい。」 「なら酢飯に高菜混ぜるか。きっとう美味いよ。」 「それはいい、うん。楽しみだなあ。」  天嘉の手のひらに擦り寄るように笑う蘇芳に、そろそろ寝ろよと促した。  寝たらどこか行くだろう?そんな具合に伺うように見つめてくる番いがなんだか可愛くて、どこにも行かねえからと付け加えた。 「そうか、ならこうしてよう。」 「うわあ。」  ふふふ、と嬉しそうに笑ったかと思えば、布団の端からにゅるりと手を出す。なにかと思えば天嘉の手を握りしめ、じゃあお休みなどと言って大人しく目を瞑ってしまった。  どこにも行ってほしくないのだろうなあ。天嘉は蘇芳の大きな手のひらを握り返すと、その子供のように高い体温が愛しくて、小さく笑った。

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