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水喰

 散々っぱら天嘉の胸に縋り付いて大泣きをしていた男児は、幸と言うらしい。幸は涙でべしょべしょの顔で、しがみつくように胸元の生地を掴んで離さないものだから、天嘉ははだける胸元はもはや諦め、慣れたように幸を抱き上げた。  不思議な赤い色味のその瞳は、宝石のように美しい。心細いのか、天嘉の顔を指を咥えながら見上げると、ちゅうちゅうと己の指を吸う。   「幸、腹減ってんのか?お稲荷さん食うか?」 「食べぅ、」 「かわい。」    幼児独特の甘えたな声で小さく呟く幸に、天嘉は思わずぽろりと溢す。  幸は天嘉の首に抱きつくと、怯えた様子で大きな男二人を見上げた。言わずもがな、宵丸と蘇芳の二人である。大男二人はまさかの天嘉があやすのが上手いことがわかると、少しだけ驚いた顔をしたものの、任せることにしたらしい。蘇芳はゆっくりと幸に近づくと、その小さな頭をそっと撫でた。   「貸してやる。俺の嫁だが、俺は懐が広いからな。貴様の気が済むまでは我慢してやる。」 「幼児相手に貴様って言ってる時点でお前の懐は広くはねえんだよなあ。」    キョトンとした顔で見上げていた幸の目に、じわじわと涙が溜まっていく。ヒック、と再び嗚咽を漏らす幸の背を撫でながら体を揺らすと、天嘉の肩口に顔を埋めてひんひんと泣く。小さき身を震わせながら泣く幸を撫でながら、ぎろりと天嘉が蘇芳を睨む。お前大人気ないこと言ってんじゃねえぞと言う意味を込めた瞳で睨みつけられ、蘇芳はなぜだか頬を染めた。   「おい童、ずるいそ。俺だって嫁ちゃんの胸に顔を埋めたい。」 「それをこの俺が許すとでも思っているのか。」 「ひぅ、…こぁい…」 「幸は気にしなくていいぞ、ほら、俺とツルバミで作ったお稲荷さん食べようなあ、あーん。」 「俺もあーんしてもらいたいんだが。」 「蘇芳殿は少々自重を覚えてくだされ。」    天嘉の膝に抱かれながら、ツルバミによってお稲荷さんを食べさせられる。泣顔でもむもむと小さなほっぺを動かすと、よほどお腹が減っていたらしい、おいひい…と小さく喜んで、その可愛らしい口をパカリと開けた。   「ウッ、母性が…」 「わかりますぞ。実に可愛らしい。」 「今ならなんか出る気がするわ。」 「これ天嘉殿、滅多なことをお言いなさいますな。また蘇芳殿に執拗かつ陰湿に弄られますぞ。」 「待ってなんでお前がそんなことしって、」    はて、なんのことやら。と、ツルバミが誤魔化した。天嘉は腑に落ちない気はしたものの、ともかく今は幸をどうするかである。  とりあえず手当てもしてやりたいし、うちに連れて帰るにしても汚れている手足は洗ってやらないと不衛生だ。  天嘉はチラリと後ろの滝壺を見やると、まあ洗うだけならいいかと幸を抱いて立ち上がった。   「お水でキレイキレイしような、ちっと冷たいけど、我慢できるか?」 「できるよぅ、幸男の子だもん、」    蘇芳は甘える幸を面白くなさそうに見つめながら、仕方なくと言った具合についていく。滝壺は深いわけではないのだが、幸を洗うのに体勢が崩れて落ちないようにと言う配慮もあって、蘇芳は幸を抱えたまましゃがみ込む天嘉の側に行くことにしたらしい。   「うん、偉いなあ幸、ほら、ちょっとだけがま、」 「う?」    天嘉が水面を覗き込んだ時、きらりと水底で何かが光ったような気がした。底の白い小石がずろりと動いた、いや。小石なんかよりももっと均一で、美しい滑らかな何かだ。   「ーーーーーーーっ、」 「ひゃあああっ」    まるで間欠泉のように激しい水柱が上がったかと思うと、その滑らかな鱗を光に晒しながら、滝壺の空間質量を無視したのではと思うほど巨大な鹿の角を持つ大蛇が、水面を引きずるようにして現れた。   「天嘉!」    悲鳴をあげた幸を己の懐に抱き込んだ天嘉を見て、蘇芳は目を見開いた。考えるよりも早く、瞬時に翼を繰り出し一気に飛び出す。宵丸の雪風が真っ直ぐに大蛇に飛んでいくのを横目に、蘇芳は大きな羽で二人を守るように抱き込んだ瞬間、大蛇は間に入った蘇芳もろとも丸呑みにするように口を開けて襲いかかる。地面にぶつかった瞬間、夥しいほどの水飛沫が視界を塞いだ。宵丸の繰り出した雪風は、僅かにその身の一部を凍らせただけであった。   「蘇芳!!、嫁ちゃん!!」 「あああ!!何ということでしょう!!!」    ツルバミと宵丸の二人が視界を取り戻した頃には、そこには大きな水たまりがあるだけであった。  その場に三人がいた気配は一切なく、あまりの出来事に、残された宵丸達はしばし立ち尽くす他は何もできなかった。                ひたひたと、まるで素足で水溜りの上を歩くような不思議な音がする。ここはどこだろう。体が重くて仕方がない。天嘉は朦朧とする思考の中、ゆっくりとまどろみから浮上していく。  せせらぎのような細い水流の音と、白い石、大理石だろうか。それでできた冷たい床の上、天嘉の体を押さえつけるようにして、見慣れた翼を投げ出したまま、守るように覆い被さる蘇芳の姿に気がつくと、天嘉は一気に覚醒した。   「蘇芳…!幸、…っ!?」    慌てて起き上がる。気絶しているのか、動かない蘇芳に取り縋ると、ふと抱き込んでいた温もりがないことに気がつく。おかしい、しっかりと抱きしめていたはずなのに、天嘉の腕の中に幸がいないのだ。   「…っ、…て、んか…っ、」 「す、蘇芳!気がついて…っ、お、俺…俺…っ」 「泣くな、落ちつけ…」  よろよろと起き上がった蘇芳が、体を痛めたらしい。小さく息をつめて肩を押さえる様子に、天嘉は泣きそうなまま手を添えると、蘇芳の顔を心配げに覗き込む。   「はね?羽根が痛いのか…?ごめん、ごめんな、俺がドジしたばっかりに…っ」 「っ、あんなもの…予測できるわけがない。天嘉のせいではないさ。」  「だけど…っ、」    蘇芳は妖力で顕現させていた翼をしまうと、ゆっくりと天嘉の存在を確かめるように抱きしめる。   「お前が大事なくてよかった。腹は平気か。」 「平気…っくしゅ…っ、」 「濡れたから、体が冷えたか。」    ぎゅっと天嘉を抱き込んだまま、蘇芳はゆっくりと瞳を滑らせる。そこは見覚えのある屋敷の中であった。天嘉が少しでも暖まるようにと背中をさすってやっていれば、白い大理石を薄く覆うように張られた水面が微かに揺れた。   「…なぜこんな乱暴なことをする。」 「蘇芳…?」    天嘉を抱きしめる蘇芳の、低く冷たい声色で問いかけられた言葉を聞いて、小さく息を呑む。こわい、体が寒さ以外の感覚で震えた。蘇芳が警戒する何かがいるのだ。今、天嘉の後ろに。こんなことをした妖かしが。   「水喰。気でも狂ったか。」    ざわりと、蘇芳の妖力が揺らいだ。  黄昏色をした瞳が、まるで獣のように瞳孔が切れ長になる。水喰、天嘉はその名に聞き覚えがあった。確か、御嶽山の土砂崩れを、蘇芳と共に止めたうちの一人ではなかったか。  恐る恐る天嘉が振り向くと、水喰は、その男らしい腕に幸を抱いていた。  顔に鱗を浮かせた整った容貌の妖かしは、まるで穏やかな水面のように表情を変えずに、その紫の瞳でそっと蘇芳を見つめた。 「気など狂っておらぬわ。ただ俺がお前らに用があり、こちらに招いたこと。少々手荒になってしまったのはすまぬが、まあ話を聞け。」  そんなに怒るな。と、なんとも不遜な態度で宣う水喰を、天嘉が恐る恐る見上げた。この異様な感覚はなんだ。蘇芳はまだ警戒しているらしく、天嘉を抱く腕には脚麟が浮いている。 「俺の嫁は孕んでいる、体を冷やしたらいけないのだ。話は聞くが、せめて何か温めるものをよこせ。」 「そちらの都合を聞かずに招いたのはこの俺だ。いいだろう。付いてこい、湯殿がある。」  水喰は頷くと、水面の反射のような透き通った不思議な色合いの長い髪を揺らして歩みだす。まるで周りの色を映し出すようなその髪は美しく、そして背丈も蘇芳のように大柄であった。 「水喰は水神だ。ある意味、妖かしよりも質が悪い。あやつの本性は龍である。」 「龍…、」  こくりと天嘉の小さな喉仏が動く。つまりは怒らせてはいけない奴だろう。怯えの色を滲ませたのが判ったのか、蘇芳の天嘉を抱く腕の力が強くなる。絶対に離しはしないと言われているような気がして、天嘉は寄り添うようにそっと身を寄せた。

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