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幸せの意味

 柔らかな手のひらが、ペタペタと己の頬に触れる感触がして、天嘉はくすぐったさに身動ぎをする。  ここはなんだか気持ちがいい。冷たい床に頬を付ける感触から、どうやら天嘉は今、縁側のような場所に横たわっているようだった。  花の香を運ぶ爽やかな風が、髪の毛を撫でる。天嘉はゆるゆると頬に触れる小さな手のひらを握りしめると、その手は恐る恐る握り返してきた。 「おかぁさん、」 「…うん?」  聞き慣れない言葉に、天嘉はぱちぱちと瞬きをすると、むくりと起き上がる。ぼんやりとする思考で声の主を辿ると、天嘉に触れて、お母さんと呼んだのは幸のようだった。 「幸…?」 「おかぁさん、おきた?」 「おかあ、さん?」  俺が?とキョトンとした顔で首を傾げる。幸は起き上がった天嘉の膝に抱きつくと、少しだけ泣きそうな顔で見上げてきた。小さい子がするような、泣くのを我慢するような顔ではない。怒られるかな、でも、もしかしたら許してくれるかもしれない。そんな、少しの期待が混じったような泣きそうな目で天嘉を見てくるのだ。 「俺はお母さんじゃないよ」 「やだよう、幸のおかぁさんになって…」 「…どうした、幸のお母さんは別でいるだろう?」 「いないよう、幸のお母さんは、てんちゃんだもん」  瞳に沢山の涙を含ませ、俯きながらポソポソと呟く。やっぱり、だめって言われた。一粒ぽたりと零れた涙が、天嘉の着物の生地に染み込む。ふと気がついた、今着ているものは見知らぬ着物だ。  女物の、質素な小紋柄。  天嘉はこくりと息を呑むと、ゆっくりと顔を上げた。 「どこだ、ここ…」 「幸のおうち、」 「え、」  お家。確かに庭があって、家がある。しかし、まるで景色がない。庭から先の景色が真っ白なのだ。  上を見上げても空はなく、太陽もない。なんでこんなに見やすく明るいのかは分からないが、幸の家はまるで箱の中にあるように、庭から先は無機質なものへと変わっていた。 「蘇芳のとこ、かえんなきゃ」 「おじちゃん、こわいからいや」 「幸も帰ろう?ここはすこし、」 「ここが、ここが幸のおうちだもん…」  ひっく、と喉を震わす幸が、ひどく悲しそうに泣くものだから、天嘉はほとほとに困った。  そっと幼子の髪を撫でる。帰らなくてはいけないのに、この子も放ってはおけない。  ここは閉塞感で息が詰まりそうだ。膝に取りすがったまま泣いている、幸の脇の下に手を入れて抱き上げると、天嘉はギュッと抱きしめて背を撫でた。 「うん、ごめん。ここが幸のおうちだもんな。帰ろうって言って悪かったな。」 「うん…お、おかぁさんって、よんでい…?」 「おとうさんじゃなくて?」 「だって、てんちゃんは赤ちゃんいるでしょう?」  おずおずと見上げてくる幸が、頬を染めながら言った。天嘉が孕んでいることなど、幸には伝えていない。少しだけ驚くと、言ってはだめなことだと思ったらしい、再び泣きそうな顔になった。 「幸には、わかるのか?」 「わかるよう、あかちゃん…幸の、おとうと」 「そっか、性別は知らなかったなあ。」  少しだけ膨らんだ腹を、ちいさな幼児の手のひらがぺたりと触れた。天嘉の薄い体に不釣り合いな膨らみを、幸は嬉しそうにしながらそっと撫でる。  幸は家族がいない、一人なのかもしれない。天嘉は腹に触れる幸の手のひらを掬うように己の手のひらと重ねると、そっと包み込んだ。 「幸のお母さんは、なにをしたらいいんだ?」  幸は天嘉の言葉に目を輝かせると、頬を薔薇色に染める。純粋無垢な幼児が求める仮初の母を、天嘉は演じようと思ったのだ。  今、この子は母が必要なのだ。役不足かもしれない、それでも、ここから出るにはそうするしかないとも思ったのである。 「幸、おかぁさんのご飯が食べたい!」 「わかった、ありあわせのものでいいか?」 「うん!んと、こっちにね、ご飯作るのあるよう!」  幸に手を引かれて部屋の中に入る。天嘉と幸以外には誰もいない。い草の香りがする居間を抜けて、炊事場についた。つっかけをはいた幸が、食料庫から野菜を取り出す。天嘉はみずみずしいそれを手に取ると、ふわりと香のような香りがした気がした。  ふ、と顔を上げる。その香りに誘われるように、そっと居間を振り向いた。そこには仏壇があり、供え物には幼子が好きそうな金平糖やら饅頭などが供えられている。 「おかぁさん?」  黙って仏壇をみつめていた天嘉の反応がなかったのが嫌だったらしい。幸は困ったように手を握ると、ゆるく引いた。 「ん、調味料はある?お味噌とか、砂糖、醤油とか。」 「ある!それはね、ここのなかだよ!」 「幸はなんでも知ってるんだなあ。」 「幸もね、お手伝いしてたんだよう!えらい?」  ふにゃりと天嘉に褒められて嬉しそうにはにかむ様子が可愛い。小さく頷くと、幸に手伝ってもらって調味料を出す。  料理をしながら、幸は楽しそうに天嘉の足にくっついて大人しくしている。  お手伝いしてたんだよう、と言っていた。それって、ここの家でだろうか。  天嘉は手際よく料理を作りながら、そんなことを思った。ここは、記憶だ。おそらく幸の記憶。  だから外の世界は曖昧なまま視認されていない。きっと、幸が最後に見た家が記憶としてここに出てきている。  だとしたら、あの仏壇はきっと。と考えて、幸を見た。 「おかあさん、おなかすいたよう」 「うん、もう出来たよ。居間で食べようか。」 「うん!」  お手伝いしたいといわれ、作っただし巻き卵を幸に渡す。天嘉は茄子の煮浸しと揚げだし豆腐片手に居間に向かうと、それを机に並べる。 「幸ね、あのね、」 「食べさせてあげるからこっちにおいで」 「うん!」  ずっと甘えたかったのだろう。天嘉は幸を膝に乗せると、皿を引き寄せて箸で食べやすいように切り分ける。  口を開けて待つ幸に揚げだし豆腐を食べさせると、もむもむと口を動かしながら美味しいと喜んだ。  おそらく、あの仏壇は幸のだ。  天嘉は嬉しそうにぱくぱく食べる幸を甘やかしながら、そう思った。  この家の中はあまりに殺風景なのに、幸が手伝ったと言った炊事場は必要なものが全て揃っていた。  きっと、亡くなる前まで手伝いをした記憶があるのだろう。幸がなぜここにいるのかは分からないが、天嘉はこうして柔らかく温かい幸が、母を求める理由がなんとなくわかった。 「おいしい?」 「うん、あの、あのね、幸ね、」 「うん、」 「…えっとね、」  幸は天嘉の膝の上で、嬉しそうに自分のことを話そうとした。それなのに出てこないのだ。こんな楽しいことがあったよ、とか。できなかったことができるようになった事とかも、沢山、沢山話したかったのだ。 「えっとね…んと、」  天嘉は、黙って聞いていた。ただ幸が望む母になろうとしていた。幸がそう望むなら、この空間だけは母でいようと思ったのだ。  幸の唇が震えた。必死で思い出そうとしている。しかし、何も出てこないことが怖いのだ。抜け落ちた記憶があることを信じたくないように、もうすぐ、もうすぐ言うねと取り繕う。  一体、幸が何をしたというのだ。小さな手指を折り曲げるくらい、沢山教えたいことを溜めてきた。それはきっと、その分だけ幸は一人だったということだ。  幸の瞳が、顔が、嬉しそうに笑っていた表情のままじわじわと悲しみの色が侵食する。まだこんなに小さいのに、そんな顔をするのだ。  天嘉は、目の奥が熱かった。こんなに一生懸命な幸を、抱きしめてやることしかできない自分が悔しかった。 「わ、わかん、わかんぁぃ…っ…」  ひっく、と幸の声が震えた。天嘉はその小さな頭を撫でながら、ゆっくりと吐息を吐き出す。こうでもしなければ、自分も泣いてしまいそうだったのだ。 「さ、さち、さちね…っ…お、おかぁ、しゃ…ひぅ、っ…い、いっぱ…、言いたい、の、あ、ぁった…の、に、ぃっ…」 「うん、」 「わ、わか、んぁ、ひ…っ、ふ、ふぇ、えっ…」 「泣かなくていいよ。幸は悪いこと、してないだろ?」 「う、ぅぅあ、あー‥!」  小さく、ふくふくとした柔らかな頬の上を滑るように、ぼたぼたと大粒の涙が溢れていく。天嘉は鼻の頭を赤くしながら、うん。とだけ頷いて優しく袖で拭ってやる。  幸は、生きていた頃の記憶をどんどんと無くしていったようだった。自分に何があって儚くなってしまったのかもわからない。楽しかったことも、できるようになったことも、そして、これからやりたいことも。幼児らしいおねだりや、可愛いワガママも。  全部幸は我慢した。幸の大好きなお母さんが見つかるまで、全部全部小さな胸にしまいこんで、いっぱいいっぱいになりながら、たくさんたくさん探したのだ。  幸のお母さんは、どんなひとだったっけ。ふと気づいたときには思い出せなくなっていて、ただひたすらに優しかったお母さんの面影を追いかけるようにして、天嘉に縋ったのだ。 「さちね、しってたよう…もう、おかあさんいないんだって…」  大泣きして、つられて天嘉もちょっと泣いて、食べかけのご飯をそのままに、居間で天嘉に抱きしめられて二人で眠った。  その後に、幸は可愛いおめめを真っ赤に晴らしながら寂しそうに言った。 「こえが、さちのおうち。」 「そっか、」  みて、といって小さな手が指を指したのは仏壇であった。  幸がみた、最後の記憶。幸のお家、一人しかいない寂しいお家。  お菓子が供えられていて、きれいなお花で飾られていても、あたたかみのない窮屈なお家。  事実が受け入れられなくて、逃げて、逃げているうちに少しずつ記憶をなくして、そして最後は天嘉にお母さんになってほしかった。 「てんちゃん、ごめんね」 「なんであやまんだよ、あやまんないでよ幸…」 「だって、えーんってなってるよう…」 「ん、…仕方ないじゃん…」  泣くじゃん、だって、普通に考えて無理だろ。そんなことを言いながら、天嘉はごしごしと涙を拭う。腕に抱いた温もりが可愛かった。お母さんと甘える幸の心に触れた天嘉は、たまらなくなった。 「さちの、幸ってさ、幸せってかくんだよ。」 「しやわせ?」 「しあわせ、小さな嬉しいが積み重なると、幸せになる。」  幸は幸せという意味、それは、小さな嬉しいの積み重ね。 「幸せ、さちは、だっこしてくれたのがしあわせ、てんちゃん、おかあさんみたいでさちはうれしかった」 「幸はこれからどうしたい?」 「てんちゃんのそばにいたい…、でも…」  でも、天嘉はお腹に赤ちゃんがいて、幸の本当のお母さんではない。本当は独り占めしたいけれど、そうしたら蘇芳が幸せじゃなくなってしまうかもしれない。  幸の名前は幸せの意味、嬉しいは独りよがりだけでは駄目だ。天嘉が幸の幸せを願ってくれたように、幸も天嘉に幸せになってもらいたい。  ならば、ここでは駄目だ。  幸は小さな体で天嘉に抱きつくと、てんちゃんと帰りたいなあ、と細く小さな声で呟いた。

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