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心の内側
「どどど、どっどっどうっ!どうしよう!?!?」
突然水龍が姿を表したかと思うと、あっという間に天嘉達は飲み込まれてしまった。ツルバミも、鴨丸も、一番の戦闘要員である宵丸でさえ何も出来ぬまま、ただ突然のことに動揺して動けなかった。
「やか、やかましいっ!!どうしようではございませんっ!!どうにかするのですっ!!」
「とりあえず、まずは落ち着くほうがよいかと…」
「落ち着くったってよお!!!」
大きな水音を立てて飛び出してきた水龍は、真っ直ぐに天嘉に向かっていったのだ。蘇芳のみが動けた。普段家でダラダラと過ごしているとは思えないほどの凄まじいスピードで天嘉の元へと飛び出していった蘇芳ごと、飲み込んで消えてしまったのだ。
二人がいた場所は大きな水溜りができており、今は滝壺も穏やかな顔を取り戻している。一体何がきっかけであったのか、宵丸もツルバミも読み解くことはできなかった。
「な、何故!!水喰殿がこのような横暴極まりないことをなさるというのですか!!」
「水喰?」
「この滝壺に御座す水龍神であらせられる!!」
「水喰…あー!土砂崩れんときの!」
ようやっと思い出したらしい。宵丸はその灰銀の目を見開くと、大きな声を上げる。
水喰。宵丸だって覚えていた。あの土砂崩れの水流の行く先を義骸が歪め、溢れかえって鉄砲水になりそうだった水量を水喰が納めたのだ。
宵丸も、あの夜は駆り出され、義骸とともに山の雨を雪に変えたので覚えている。同じ妖かしながら、ゾッとするほどの美丈夫だった。
「あの顔無しか、確かにんなことするたまじゃなさそうだけど、何考えてっかわっかんねーよ神さんは。」
「顔無し?」
「表情がないんだよ、なんか抑揚も無くてさ。ずーーーっと感情の揺らぎがねえから不気味でさ。」
「我ら一塊の妖かし程度に神の考えを図ろうとするのが愚かです。それにしても、一体どうしたら…」
ツルバミも宵丸も、胡座をかいて無い頭を必死で悩ませる。もうすぐ外は夕闇がかかる頃だ。まだ明るいからいいが、暗くなれば鴨丸は空を飛べない。この中で一番自分が役に立たなさそうだと想い至ると、申し訳無さそうな顔をした。
「俺が一番、役に立たないだろうよ。鳥目だし。」
「あ、もうすぐ暗くなるからか。」
「…ちょっと、私め滝壺に潜って祠を見て参りまする。」
ツルバミが決意したように立ち上がる。暗くなると、滝壺のそこも暗くなってしまう。そうするといよいよ何もできなくなる、
ツルバミがぺたぺたと勇み足で滝壺に近づこうとすると、宵丸がその襟元を掴んで引き止めた。
「なら、いっそ滝壺ごと凍らして、水喰に出てきてもらえばいいんでねえの?」
「凍らしたら出てこれぬだろう。それか氷を割って水底にいくにしても、槌なんかない。」
「そうじゃねえか!!どうすんだよ!」
「だから私めが泳いでみてまいりまする!!鴨丸!そこの莫迦が池を凍らさぬように見張りを頼みますよ!」
「承知した。」
ぱくりと宵丸の着物の帯を咥える鴨丸に、宵丸は嫌そうな顔をした。なんだその幼児のいたずら防止のような扱いは。ツルバミは時折こちらを気にしながらも、どうか大人しくしておれよと縋るような顔つきで数度確認をしたあと、カエルらしく軽やかに滝壺の中に消えていった。
「ふむ、実に見事な手腕だな。」
水喰は水鏡の向こう側、天嘉によって宥め#絆__ほだ__#され、落ち着きを取り戻した幸の姿を見つめていた。
「天嘉は確かにやり遂げたぞ。帰りたいと言っている、ならば早くどうにかしろ。」
「急くな。まあ見ていろ。」
その水鏡に映る、幸の記憶の一部がゆっくりと崩れていく。ほろほろと、まるで溶けて消えていくようにゆっくりとその景色が歪んでいく。鏡の内側の天嘉は、幸を抱きしめたまま動こうとせず、次第に水に滲んでいくようにしてその姿がぼやけて消えたかとおもうと、まるで長い時間呼吸を止めていたかのような勢いで、眠っていたはずの天嘉が肺を膨らますようにして息を吸った。
「ひゅ、っ…ふあ、はっ!っ、げほっ、」
「天嘉!」
「ぇほっ、げほごほっ、ぅえっ、…あー‥、あ?なんでここに…家は?」
「ひぅ、あっけほっ、げほっ!」
蘇芳が駆け寄ると、幸も戻ってきたらしい。小さな肺を膨らますようにして呼吸をすると、げほごほと激しくむせた。
「幸、幸大丈夫か?」
「けほっ、ふぁ、っ…て、てんちゃぁん…っ」
余程驚いたのだろう、愚図るように抱きつく幸を抱きながら、天嘉はぽかんとした顔で蘇芳をみた。
「俺、あれ?…いつ戻ってきたんだ…」
「天嘉…!!」
「うわっ、」
今にも泣きそうな顔をした蘇芳が、がばりと天嘉を幸ごと抱き込んだ。これには腕の中の幸も余程驚いたのだろう、ひゃあ、という可愛らしい声を漏らす。もぞりと二人の間から幸が顔を出すと、自身を見下ろす蘇芳を見上げて怯えたような顔つきになった。
「お前…」
「ご、ごめんなさ…」
怒ったような顔をした蘇芳の口を、天嘉の白い手が塞いだ。言いたいことがあるのも充分に理解はしているが、ただでさえ蘇芳の顔が怖いと怯えているのだ。もう反省している幸をこれ以上怯えさせるなと言った顔で天嘉は首を振った。
蘇芳は眉間に皺を寄せたが、こうなると天嘉が頑なであるのはもう充分に理解していた。となれば、八つ当たりの矛先は、やはり水喰である。
「約束通り、天嘉は幸を連れ帰ってきたぞ。お前の望むまま、あとは好きにするといい。」
「待って、約束ってなんのことだよ。」
天嘉の腕の中で、幸が怯えた表情になる。現れた水喰が腕の中の幸を見下ろすと、そっと手を差し伸べた。
「幸、お前はもう、亡者にも戻れまい。このままでは鬼になってしまうぞ。」
「お…鬼って、なあに…」
「死したものの魂魄に鬼火が宿ることで生まれるよくないものだ。きなさい、お前はこの水喰のものにする。」
「さ、幸は…てんちゃんのそばがいい…」
キュウ、と小さな手のひらが縋るようにして天嘉の着物を握りしめた。怯える幸の様子に構いもなく、水喰は決定事項のように話を進める。天嘉はそれが許せず、つい眉間に皺が寄ってしまった。
「不遜な態度であるな。人間。腹の子を慮るのなら幸をよこせ。俺の嗣子にする。」
「…ししってのがなんだかわかんないけどさ…、」
「おい、天嘉…」
まさか口を開くとは思わなかったらしい。先程までおとなしかった蘇芳の嫁の雰囲気が剣呑な色が宿ると、水喰は面白そうにピクリと眉を動かした。
「子供の気持ちを思い測れないような奴が、勝手に自分の考え押し付けんのはずるいだろ。あんたが神様なら、まずは迷えるものを救ってからものを言えよ。」
「面白い。俺に口答えをするか。いいだろう、しかし決めるのは貴様じゃない、幸であることを忘れるな。」
「あんたにだけは言われたくねえなあ…ほんと、」
溜息を吐いた天嘉を、幸が見上げた。水喰が、なんで幸のことが必要なのかはわからなかった。怖い、怖いけれど、幸は気になった。
なんでこの人は、幸を知っているのだろと思ったのだ。そして、このままでは、幸の大切なてんちゃんに迷惑がかかってしまうかもしれない。また、また幸は間違えてしまうのかもしれない。そんな考えが頭の中を埋め尽くしてしまって、幸は一杯一杯になってしまった。
だから、こんな変なことを宣ってしまったのかもしれない。
「お、おじちゃんは…幸が好きなのう…?」
震えた声で、泣きそうな顔をしながらそんなことを言うものだから、これには蘇芳も天嘉も呆気に取られたし、おじちゃんと呼ばれた水喰が、表情には出ないものの、思考が止まっているのだろう。無表情のまま固まってしまううほどの間抜けな質問を、幸は純粋な心でしてしまった。
「ふ…ふは、…っ…」
「なんというか…お前は随分と勇ましいな…。」
呆れたような蘇芳の声に、幸がくしゃりと顔を歪めた。天嘉はこの不遜な態度の神に対してそんなことを言ってのけた幸が面白すぎて、肩を揺らして笑いを堪えている。
幸はいよいよどういう状況だかさっぱりわからなくなり、ヒック、と喉を震わしたときだった。
「わからぬ。」
淡々とした静かなせせらぎを思わすような、穏やかな声で水喰が呟いた。
その瞳は静かに幸を見つめており、敵意はない。天嘉はようやく人心地つくと、そっと幸の体を離した。選ぶのは、水喰の言った通り幸自身だ。
離れた体温に寂しそうな顔をした幸であったが、天嘉にどうしたいか聞かれると、ゆっくり水喰を見た。
「おじちゃんは、一人だったのう…?」
「水龍は個だ。俺に兄弟などいない。勝手に信仰され、生まれ、そして廃れていく。」
「寂しいの…?」
「寂しい。そうだな。」
水喰はゆっくりと手を伸ばすと、その幸のまろい頬に触れた。
「お前がこの俺の滝壺に落ち、俺の神気を纏ってしまったから、興味が湧いたのかもしれぬ。」
薄く鱗の浮いた手のひらで、そっと撫でる。不思議ともう怖くはなかった。幸から見た水喰は、大きくて、怖い大人だ。しかし、その手つきはひどく優しい。
「幸もね、一人なの。」
「知っている。お前をずっと見てきたからな。」
幸の小さな手のひらが、そっと水喰の大きな手と重なった。天嘉はやれやれと言わんばかりに溜息を吐く、なんて不器用な神様なんだろうと思った。
「あんたは、幸に気づいてもらえなくて拗ねてたんだな。」
「…、その言葉は適切ではない。」
「いいや、あってるよ。だって、あんた今嬉しそうな顔してる。」
顔は全く笑ってはいないけれど、幸が水喰に触れたとき、瞳が微かに揺らいだのに気がついていた。
幸は、天嘉の言葉に黙りこくった水喰と天嘉の間で視線を泳がせると、ゆっくりと水喰の手を小さな両手で握りしめた。
「幸、おじちゃんといる。てんちゃんにも合わせてくれるなら、幸はおじちゃんと一緒にいてあげる。」
「幸がいいならいいよ、やなことあったら俺がなんとかしてやるからな。」
天嘉の頼りがいのある言葉に、幸は嬉しそうに笑った。水喰はまさか幸から側にいると言われるとは思わなかったらしい。少しだけ目を見張った後、また同じ静かな表情に戻ってしまった。
しかし、その大きな手のひらは幸の小さな手を包むように握りしめている。天嘉は、それを認めると、少しだけほっとしたように微笑んだ。
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