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戸惑い、そして苛立ち
幸の一件から月を跨ぎ、最近は腹も膨れてきた。いよいよ着物を着ていても目立つようになってきたせいか、天嘉は自分の身体のわかりやすい変化に戸惑っていた。
天嘉のもっぱらの最近の悩み事は、なんといってもこれである。
「…服がねえ。」
引きずり出したスキニーは、外界探訪の時以来のお目見えである。まだ行けるだろうと思い、足を通してみたのだが、どうやら己の体型を過信しすぎていたらしい。もはやボタンが閉まらない。
心做しか尻も太腿もきつくなり、天嘉は中途半端にスキニーを持ち上げたまま、しばらく放心していたところをツルバミに見つけられ、端ないと怒られたばかりであった。
「何故また股引きなどをお召になろうと思ったのですか。」
明らかに無理ゲーでしょう。ツルバミは覚えたての言葉をつかいこなしながら、天嘉の脱ぎかけだか履きかけだかわからぬそれを指摘した。
結局名残惜しいのか、その後数度試したのだが、やはり太った。そんな気がする。
諦めて脱ぐことにすると、改めて自分にはボトムのストックが無いのだなあとため息を吐いた。
だってこんな予定じゃなかったし、買うつもりだったし。そんなことを思っていると、はたと思いついた。
「蘇芳のジャージあるじゃん!!」
「あっ、これ!またそうやって走ろうとして!身重だと何度ももうしておるでしょう!」
「おっと。わりーな活発で。」
わたわたと誤魔化すように早歩きにしたが、やはりツルバミには指摘されてしまった。
天嘉は庭いじりをしている蘇芳の元に向かうべく、玄関の間からつっかけを履いて外にでると、丁度角を曲がるところで青藍と出くわした。
「うわっ、青藍じゃん。」
「おやあ、人妻がそんな端ない格好で表出るだなんて、襲ってくれって言うもんじゃないのかい?」
「え、襲うの?」
「いや、俺も人妻だから襲わないけど。」
笈を背負ったまま、青藍はひげをぴょこんとさせながら宣う。相変わらず獣の顔の青藍は、アーモンド型のくりくりおめめが可愛らしい。人に化けても可愛いのだが、天嘉はどっちも好きであった。
「んで天嘉は何してんの?」
「蘇芳にジャージかーしてって言いに行く。」
「じゃあじ。ああ、あのハイカラな股引きかあ。生地が伸びるやつだろう?人間くさいけど。」
「ほーよ、臭くて悪かったな。」
青藍と仲良くてこてこと裏庭に回る。蘇芳は天嘉によって強請られて、広間の向かいに家庭菜園を作っていたのだ。お山の総大将である大天狗が、嫁の可愛さに振り回されて工夫をこらしたそこには、天嘉が植えた茄子やら蕃茄 が植わっている。何故に夏野菜なのか。それは屋敷全体で力を奮う、蘇芳の領域が夏になっているからだ。
「蘇芳。」
「む、なんだ。お前はまたそんな薄着をして、足を晒すなら股引きを履けと言っているだろう。襲うぞ。」
「その股引きが腹が出っ張ってて履けなかったからこうなってんじゃん。」
蘇芳の最後の言葉は無視をすふ。蘇芳の指摘通り、薄い浴衣につっかけのみの天嘉は、着付けが下手でいつもはだけている。来客の時は流石にツルバミが直してくれるのだが、青藍は来客でも天嘉の中では身内なのでノーカンである。
「ジャージかして、買ってやったろ蘇芳の。」
「む、あの白い股引きか。いいぞ」
「股引きじゃなくてジャージだってば。」
蘇芳は手桶に溜めた水で軽く手指を濯ぐと、肩にかけていた手ぬぐいで手を拭った。
青藍はまさかの大天狗が庭いじりをするだなんてと微妙な顔をしているが、天嘉がやってみたいなあと呟いたのがきっかけだと聞くと、蘇芳は本当に嫁に甘いなあと思った。
「青藍、お前はあれか。天嘉の定期検診にきたのか。」
「そうそう、まあ本人すっかり忘れてそうだけどね。」
そんなやり取りをしながら天嘉を見ると、ぽんと出っ張ってきた腹を軽く叩いて、気づいていたさといった顔で取り繕った。
「下っ腹の出方がさあ、なんかたぬき見てえ。信楽焼の。」
「おい知ってるか、あれは義骸が元となったのだそうだ。」
「うっそだろ。あいつあんなに愛嬌ねえじゃん。」
くだらない話をしながら、再び中に入る。蘇芳は奥座敷の襖を開いて長持を取り出すと、天嘉はひょこひょことその横に行きしゃがみ込む。仲良く肩を並べてあれがないこれがないと言っているのを見るたびに思うが、まったく仲の良い夫婦である。
「お、あったぞ股引き。」
「だからちげえってジャージ、うわなにこれ」
「なんだ?なんか面白いもんでもあったか?」
天嘉が長持の中から見つけたのは、布にくるまれた箱であった。見られてまずいものでもないらしい。蘇芳は懐かしいなあと言いながら布を取ると、美しい桐の箱が現れる。
「なんだこれ、へその緒入れるやつのでかいやつみたい。」
「ふむ、これはまあ、仕事道具さなあ。」
天嘉がその箱を床において、パカリと蓋を開けた。青藍も興味があるらしい、笈を下ろして近づくと、どうやらそれは天狗面のようであった。
「まっかっか!」
「魔除けの色だ。有事の際はこれをつけて戦に挑む。しかしもう随分と前でなあ、総大将になってからはつけてはいない。」
「ほお、これまた懐かしいねえ」
ヒョコリと顔を出した青藍が、面白そうに呟いた。
前は雷神と蘇芳が大喧嘩をしたときだから、百年近く昔だよ。そんなことを言うと、天嘉はそわりとした。
「なんだそんなそわそわして」
「まじもんじゃん、マジな天狗面じゃん、やばくね?」
「そのまじでやばくねの天狗がお前の旦那だよ、どうだ惚れ直したか。」
「惚れ直さねえ。」
にべもない天嘉に青藍が吹き出した。余程やりとりが面白かったらしい、ウケるとこなれた言葉を言うと、天嘉は若干照れくさそうにしながら蘇芳のジャージに足を通す。
ジャージを腹まで持ち上げて紐で縛る。絵面が全然おしゃれじゃないが、これで腹は冷えなさそうだ。しかし足が長い。天嘉は裾を数回折り曲げると、によによした青藍が面白そうに呟いた。
「旦那の股引きはくだなんて、やらしいねえ」
「うむ、いやらしい。」
「おいそんな目で見るなよ、思春期じゃあるまいし。」
スパンと切り返すが、天嘉にしてみたら別に下着をシェアするわけでもない。もしかしてこれが所謂彼シャツとやらの派生版だろうか。やめておこう、そんなの思いついたらきりがなさそうである。
青藍かひょこひょこと近づくと、隅においてある座布団を持ってきたらしい。それを畳の上に置くと、可愛らしい獣の手のひらでぽんぽんとその上を叩いた。
「お座りよ、腹の具合を確かめてやる。」
「おー、…蘇芳あっちいっててくんね?」
「なんでだ。」
「おやまあ可愛らしい、まあ気持ちはわからんでもないがね。」
によによと笑う青藍にムッとした顔をすると、蘇芳はどこにも行かぬと示すように、どかりと座布団に腰を下ろした。
天嘉からしたら、膨らみ始めた腹を見られたくないのが本音であるが、その気持ちは青藍にしかわからないらしい。天嘉の思っていることを汲み取ってくれたらしい青藍が、着物の中に手を突っ込んで確かめるように聴診器をペタペタと押し当てると、蘇芳はなんとも言えない顔をして黙りこくる。
「…大方検討はつくけどさ、俺ぁ検診をしてるんだがね。そんなしっぶい面で隣座られてたんじゃ集中出来るものも出来ないよ。」
「蘇芳、ハウス、退場」
「なんでだ!」
納得いかんと声を上げる蘇芳に、天嘉はなんだか消化しきれない気持ちになった。別に病気でもなんでもない。だからそんなに気にしなくたっていいのに、蘇芳ときたら天嘉の気持ちとは裏腹に、出っ張る腹を見ては嬉しそうに触ってくるのだ。
これで胎動を感じれば心持ちは変わるのだろうか。
仕方はないとわかってはいても、腰回りの肉付きや、薄い胸と対比するように出っ張る腹。なんだか自分の体が不格好なのを見られるのが嫌なのだ。
「…この間も褥で腹を隠してたな、それと何か関係があるのか?」
「いま夜の話しなくたっていいだろ。」
「………。」
おやなんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。青藍はもにりと口を噤むと、夫婦喧嘩の兆しを感じた。
大抵の火種は眼の前の思慮にかける蘇芳の発言だ。天嘉も天嘉で自分のことを口にしないものだから、蘇芳はそれがじれったい。
互いの気持ちを上手く吐き出せればいいのに、最近は営みも減ってきた為か、雰囲気に流されてつい口をつくということもないようである。
「…十日だ。」
「なにが。」
「十日。この間以来褥をともにしていない。妖力の譲渡も口吸いだけだ。腹の子の心配をするのは父親として当然だろう。」
どうやら蘇芳は褥の話を単純に引き合いに出してきたわけじゃないらしい。要するに、腹の子の栄養が足りているかどうかを気にしていたという。
言い方はアレだが、青藍はすこしだけ蘇芳を見直した。なかなかに父親らしくなってきたではないかと微笑ましく思ってい天嘉を見ると、顔を真っ赤にして俯いていた。
「…そーですね、悪かったよ。んで腹の具合は?」
「え、あ。まあ許容範囲かなあ。どうした?なんか顔色すごいぞ?」
顔が赤いけど、この赤は羞恥心から来るものではなさそうだ。青藍は淡々と言葉を発した天嘉をまじまじと見ると、その視線から逃げるように立ち上がる。
「お、おい天嘉?」
「青藍あんがと、またよろしく。」
「おい天嘉!まだ話は終わっていないぞ!」
蘇芳が苛立ったように声を張る。ぴくりと反応はしたが、無視を決め込むことにしたらしい。とたとたと足音を立てて部屋を出ていってしまった。
その態度がいけなかったらしい、青藍は珍しく怒ったような顔をする蘇芳に目を丸くすると、慌てて追いかけようとした大きな体を引き止めた。
パチリと青藍の毛が膨らむ。静電気にやられたらしい。そんなに気が立っているなら、尚更追いかけるのはよしてくれととりなした。
「そっとしておいてやんなよ!蘇芳が心配なのはわかるけどさ、天嘉だって思うところがあるんだろうよ!」
「だとしたら何故話さぬ!」
「消化出来てねえんだってば!あんた夫婦喧嘩になってもいいのかい!?とにかく今はよしておきなって、拗れるだけだよ!」
「ぐ…、」
流石に夫婦喧嘩になるのは嫌だったらしい。もはや手遅れな気もしないでもないが、青藍はじれったそうにする蘇芳も、天嘉の気持ちも両方わかる。これは思ったよりもこんがらがりそうだと項垂れると、蘇芳は散歩してくると一言言って部屋から出ていってしまった。
「ああ面倒くさい、まったく不器用すぎるだろう。」
青藍は一人になった奥座敷で、げんなりとした顔で呟いた。どっちかが折れるしか無いにしても、互いの矜持が高いから長引きそうである。
自分のときはどうだったかなあと思い返してみたが、そもそも雄が孕むのもままある妖かしの常識からして、天嘉の常識とは違うのだ。
思ったよりもややこしそうであるなあ。青藍はそう思うと、一気に疲れた体を癒やしてもらうべく、さっさと帰宅の途につくことにした。どうせまた振り回されるのだろうなあと思いながら。
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