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そして再びの青藍

「俺いったよねえ旦那。人のときは理性を保てって。」  ゴリゴリと薬研を擦る音がする。苛立ち混じりの声色。青藍の優しげな表情には不釣り合いなこめかみの青筋は、過去に一度やらかしてひと悶着を起こした蘇芳に向けての抗議でもあった。 「時には理性を試されるときもあるのだ。」  苦し紛れのひとことであった。しかし、言い訳じみたその一言は、青藍が背後に背負った般若のような覇気を悪化させるだけで、これを見たときは、さすがの蘇芳も無言で目をそらす他はなかった。 「なにかあるだろう、蘇芳。」 「…ああ」  気のないような蘇芳の返事に、ぴくんと青藍の眉が跳ね上がる。しっかりと青藍から顔をそらした蘇芳の目線の先には、肩口と腰回りに包帯を巻き付けた天嘉が、呑気に茶をすすっていいる。青藍は頭が痛そうに溜め息を吐く。 「天嘉も天嘉だ。煽るんじゃないよこのうつけ者。喰い殺されたらどうすんの?」 「殺されねえもの。」 「あ!?薬草擦りこまれたいのかいお前は!」 「ごめんなさい!!」  鋭い青藍の叱責に、びくんと天嘉の体が跳ねた。獣の突然の威嚇の如く鋭き一声に、飲んでいた茶碗を危うく落としそうになる。  青藍の叱責が一番怖い。甚雨もいつもこんな具合に怒られているのだろうかなどと、野暮なことを考えた。 「大丈夫か、その…」 「出だしからお前に傷もんにされてんしな。今更一個や二個増えたところで気にしねーもの」 「ちったぁ気にしろこのヌケサク!」 「また俺の知らない罵倒するじゃん!」  なにそのヌケサクって!と聞き慣れぬ青藍の罵倒に天嘉が思わずツッコミを入れた。まったく、蘇芳によって肩の肉を齧られたというのに元気な雌である。脇腹の爪が食い込んだ所でさえ痛いはずなのに、天嘉はさほど気にしていないようだった。 「てかよ、痛くないのかい?爪刺さって齧られてさ、それとも神経が死んでんのかい?」  青藍の言葉が雑になる。無理もない、さすがに二度目は看過出来ぬと申してこれである。まったく夫婦そろって間抜けの抜作、救いようもないうつけ者だ。  やらかした蘇芳はというと、大いに傷心しているようで、なんだかしょぼくれた顔で正座をしている。今さら慎ましくなるくらいなら理性を保つ努力をしろと青藍は思うが、こんな総大将の様子も中々拝めぬものである。  青藍は、これは甚雨への土産話にしてやろうと密かに思った。  そんな旦那の落ち込みようとは引き換えに、天嘉はなんとも呑気なものである。青藍に出されたはずの干菓子をぽりぽりと食べながら、なんともふわふわとした様子で宣うのだ。 「痛えなあーとは思うけどさ、なんか、腹の子が元気。」 「あ?脈絡もなくなんだそりゃ。子が元気なのが分かるようになったのか?」  ぺたりと腹に触れる青藍の手を見る。天嘉は頬を染めながら小難しい顔をして、なんかずんどこしてる。などというのだ。  青藍は困った顔でいそいそと耳を近づけぺたりと当てると、たしかに腹の中の子が元気というほかはなかった。 「…うん、しっかりと吸収したからだねえ。お前の腹ン中で小さく動いている。」 「え?これ動いてんの?全然触ってもわかんねえのに?」 「さすが総大将の種…あんたすげえ溜め込んだ妖力を吐き出したね?」  十日分の凝り固まった濃い妖力を注ぎ込まれて、腹の中の子の成長が早まったらしい。滲み出た余剰分が天嘉の中に染み渡り、少しだけ酔っ払っているような感覚になっているようだった。 「なるほど、余りもんが治癒に回ってるって考えて良さそうだ。天嘉、ようやくお前も腹の子と同じように妖力が馴染んだのさ。今のお前は半分妖かしと言ってもいいかもねえ。」  かと言って人間と変わらんよ、と続けたが、天嘉は青藍の言葉をぽかんとして受け止めたかと思うと、ワクワクした様子で俺も空飛べる?などと御伽噺のようなことを宣う。毎回思うがこいつの中の妖かしとは一体どんなものかと思う。 「人よりも治癒が速いだけさ。お前の思考が羽ばたいちまってるよまったく…。」 「傷が治ったらいくらでも飛んでやるさ。」 「そうかぁ、蘇芳みたいに飛べたらいいのになあ。」  頬を染めながら、ぼんやりとそんなことを宣う。ほろ酔いのような感覚で、やはり十日分の蘇芳の妖力は天嘉にも響いたようだった。 「腹ん中楽しいのかな。ぐるぐるしてる気がする…」 「どれ、見せてみろ。」 「ん、」  気になったらしい蘇芳が天嘉の前合わせをはだけさせる。あんなに腹を見られたくないと宣っていたのに、どうやら落とし所を見つけたらしい。素直な様子で腹を晒す天嘉の姿に、青藍は少しだけホッとした。  あの調子で夫婦喧嘩が続いていたら、蘇芳が機嫌を損ねて余計にえらい目にあっていたかもしれない。蘇芳の不機嫌は山の天候に直結する。昨晩やけに風が強かったのは、単純にこいつのせいであったのだ。 「…熱いな。熱はないのか?」  ひたりと天嘉の腹に触れた蘇芳が、心配そうに覗き込む。妊娠しているから体温が高いのもあるが、おそらく妖力の余剰分を吸収するために代謝が高まっているのもあるかもしれない。  青藍はぼんやりとしている天嘉の額にぺたりと手を添えると、小さく頷いた。 「まあ、傷ついたしなあ。そこからくる熱もあるだろうよ。旦那、治るまであんた天嘉の奴隷な。」 「言われずとも、存分に甘やかすつもりだ。」 「ならなんか仕事くれよ。」 「だめだ、寝ていろ。俺の為にも。」  暇なのが嫌らしい。むくれた顔の天嘉に苦笑いをすると、わしわしと頭を撫でてやる。 まったくどうして具合いの悪いときにやる気を見せるのか。  しかしながら、昨日の夜のおかげか少しだけ天嘉が素直になってくれたのが嬉しい。蘇芳が体を離そうとすると、くいっと着物の裾を摘むのだ。この可愛さと言ったら筆舌に尽くしがたい。いっそ山の上を飛びながら桜吹雪でも散らしてやろうかと思ってしまった。 「はいはい、あんたらの夫婦円満の秘訣がどっちかの怪我だなんて体張り過ぎだろう。旦那も歳なんだから若妻貰って燥いでんじゃないよまったく。」 「歳じゃない。」 「燥いでるのは否定しねえの?」  むすくれた蘇芳を見上げるように天嘉がキョトンとする。柄にもなく燥いでいることは事実であるからして、取り繕うにもそんなやり取りをした後だと言い訳もしづらい。  蘇芳は無言で天嘉の顔を見ると、取り敢えず微笑むだけに留めておいた。困ったときは笑えばいいと天嘉も言っていた気がする。 「まあなんだっていいさな、取り敢えず天嘉は傷が治癒するまではゆっくりしな。風呂入るとき沁みるぞ、恨むんなら旦那を恨めよ。」 「えええ…いやだぁ…」  渋い顔をする度に蘇芳は尻の座りが悪い。また小さくすまぬと口にすると、天嘉はちろりと見上げた。別に気にしてなどいないが、お前マジで反省してんのかという意味合いも含まっている。  青藍はおゲェと胸焼けをしたような顔をする。たいがいに失礼になってきた。  ひとまず熱冷ましと傷に塗りこむ塗り薬、替えの包帯などをドカンと置いた。これらは迷惑料も込みで蘇芳にしっかりと請求するつもりである。  天嘉からは治ったらたい焼きを作ってもらう約束をしたので、きっと松風も喜ぶだろう。 「そういや牛頭馬頭にはもう言ったのかい?亡者の話、」 「あ、忘れてた。やっぱ言ったほうがいいよな、水喰のとこいるって。」 「言わないよかいいんでない?面倒臭いし角笛で呼び出しちまえば。」 「ええ、そうかあ、うーん…」  ごそごそと取り出した角笛を見て、少しだけ悩んだ。こんな気軽に呼び出していいものなのかを聞くべきだった。  日本人らしい遠慮がちなの気質の天嘉からしてみたら、迷惑でないか心配であった。手紙に認めるのもなにか違う気がする、そしてなによりも日にちが経ちすぎているので、自分で提案したくせに今更言うのも変かなぁなどと思い始めていた。 「なら行くか。」 「あん?」 天嘉の悩み顔に蘇芳も今回の一件での己のやらかしも含まり、思うところがあったらしい。少しだけそわりとすると、天嘉の寝乱れた髪を手で直しながら宣った。 「湯治。」 「とうじ?」 聞き慣れぬ言葉に、天嘉が言いにくそうに反応を返した。蘇芳はなにがツボなのかはわからないが、だらしなく相好を崩すと不思議そうにする天嘉の頭をわしりと撫でた。 「湯治っつーのはさ、旅行と違って湯に浸かりながら数日間体を休めることを言うんだよ。」 「そんな浸かってたら体ふやけそ…」 「おばか、湯の中で過ごすわけじゃないんだよ。湯から上がったら何もせずにゆっくりと過ごす。傷を癒やすにはもってこいだがねえ。」 青藍が妙竹林なことを抜かした天嘉の頭をこつんと小突く。子供じみた勘違いをするあたり、どうやら聞いたことも無かったらしい。 「砂風呂的なのもあんの?」 「砂風呂?」 「熱い砂に体埋められるやつ。」 「それ砂蒸し湯治だろう、あるんじゃないかな。」  俺の知ってる名前じゃない…とポカンとしているが、まあ意味合いは伝わるので良しとする。蘇芳はにこにこしたまま、砂に体を埋めるのは拷問だけかと思っていたと宣っている。どうやら実際に土になら埋めたことがあるらしい。  以前雷神とやり合ったときに、奴が寝こけている間に土に埋めたとか言っていた。埋められた方も気付けよと思うが、雷は土には効かぬからちょうどよかったなどと言っていたので、蘇芳のなかでは嫌がらせの手段の一つらしい。 「土に埋めるときはなあ、まず相手が寝ているときに行うんだ。」 「着物着たままだろ?あったかそうだよなあ。」 「多分意味合いがちがうぞ。やめとけって話をひろげるんじゃないよまったく。」  もはや突っ込むのも疲れてきた。そんな辟易とした表情の青藍とは裏腹に、蘇芳も天嘉もなんだか湯治に行く気が出てきたようだった。別にそれは構わないのだが、向かう場所は獄都だということをきちんと理解しているのだろうか。   「お前はまず、湯治のまえに熱を冷ますんだよおばか。」 「あいて、」  えいやっと青藍に手刀をくらうと、天嘉は照れくさそうな顔をしながら、わかりみなどと宣った。

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