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這い寄るのは夜
「とは言ってもなあ…、」
天嘉はというと、今は一人で布団の中。緊張感のある話に疲れてしまって、少し腹が張ってしまったのだ。
腹を撫でるように抱きしめながら、ころりと横たわる。隣に蘇芳の姿は無い。
一緒に眠るのが当たり前すぎて、少しだけ寂しい。
蘇芳は現状を確認しに、十六夜とともに山の方へと飛んで行ってしまった。枯木の霊の仲間の一部さえあれば、人里離れた場所に墓を立ててやることも出来るからということだった。
あの後、枯木の霊は本日はお暇します。と言ってその場を辞した。最後に本当に申し訳なさそうな顔をして、天嘉に言ったのだ。同族を陥れるようなことに加担させてしまってすまないと。
「勝手に決めつけて、びびってたんは俺の方なのに…、」
見た目は怖いが、話してみると大変に穏やかな性格であった。腹が張って、さすっていた天嘉の些細な変化にいち早く気づいてくれたのも枯木の霊である。ご無理をなさいますなと言って、蘇芳に日を改めることを告げたのだ。
天嘉からしてみたら、こちらこそ同じ人として不義理があってすまないと言いたいところであった。
旅行から帰ってきて早々、こんなことになるなんて。天嘉は、理由はどうであれ、蘇芳を不在にさせてしまったことに対して、少なからず罪悪感を覚えていた。
総大将が山を開けた時に起こってしまった悲しい出来事を、天嘉齒見てみぬふりは出来ない。
きっと、蘇芳や枯木の霊からしてみれば、それはまた別の話だというに違いない。それでも、やはり小さな棘のようなものが喉に詰まったような、如何ともし難い感情を抱えていた。
山の信仰が潰えたら。蘇芳はどうなってしまうのだろうか。力を失ってしまったら、蘇芳は消えてしまうのだろうか。
嫌な不幸ばかりが脳裏をよぎる。なんだか心許なくて、温もりが恋しい。天嘉は蘇芳の羽織を羽織ったまま、小さく丸くなる。早く帰ってこないかなあと、小さく呟いた。これがきっと、寂しいというのだろう。
「…やだな、」
天嘉の大好きな妖かしたちが、己と同じ人間に貶められるのは、嫌だ。だって、彼らは何も悪いことしてないのにだ。
枯木の霊の仲間が、理不尽な扱いを受けてしまったというのに、それを宿命と一言で収めた。その声色を思い出して、天嘉は余計に悲しくなってきた。
人間なら、もっと怒っている。一生恨み続けることだってあるかもしれない。それなのに、妖かしたちは己の存在が消えることを宿命という。
それは、時代の流れや人の都合によって生を受けたからに他ならない。妖かし達は、いつか消えるその日が来るまで、全力で今を楽しんでいる。だからこそ、人の都合で消えてしまうということ自体が、天嘉には許せなかった。
「っ、…」
ちくんとした痛みが身に走った。天嘉の心情に揺さぶられたのかもしれない。腹の内側がシクシクと痛くて、小さく息を呑む。
「ごめん、…っ…、いい子だから、」
腹の子が、天嘉の感情に呼応しているのかもしれない。そうでも思わなきゃ、不安になるような唐突な痛みだった。
ゆっくり深呼吸をする。優しく腹を撫でながら、お前も早く蘇芳に帰ってきて欲しいんだなと語りかける。寂しい、寂しい、ああ、泣きたくなってきた。最近はダメだ。こうもすぐ涙脆くなってしまっている。
天嘉は声を殺して涙を堪える。本当に泣きたい奴がいるのに、天嘉が今泣くのは違う気がしたのだ。
こんな薄っぺらい若者の自分に、何が出来るのかはわからない。それでも、蘇芳の為なら、天嘉は人をやめる心算だ。
じくん、脈打つ痛みが腹に響く。怖くて不安で寂しい。早く会いたい、帰ってきて欲しい。痛みを宥めるように腹をさする。大丈夫だからと、腹の子に言い聞かせているのか、自分へ言い聞かせているのかわからないまま。
唇が乾く。寒気もしてきた。まるで貧血のような症状に戸惑いながら、天嘉はゆっくりと深呼吸を繰り返す。
嫌な心地だった。酩酊感のような気持ちの悪さに戸惑いながら、瞼を瞑る。そしてそのまま、まるで這い寄る何かに絡めとられるようにして、天嘉は意識を手放した。
「なんだこれは。」
夜の闇が重くのしかかる。蘇芳は境界を抜けて、十六夜と共に外界に降り立っていた。纏った妖気で姿は見えぬようにしている。やまのけの気配を追って辿りついた、掘っ立て小屋のようなものが建つその場所は、天嘉があの時やまのけから逃げおおせた道沿いにあった。
「枯木の霊、ああ…これですね。」
「ああ、くそ。酷いことを…」
炭のようになったその体は、たしかに仄かな妖気を纏っていた。
蘇芳は懐に閉まっていた布を取り出してそれを包む。この亡骸はこちらの世界に持って帰ることにした。
悔しそうに顔を歪める蘇芳を見ながら、十六夜は辺りを警戒する。いつ、やまのけが襲ってくるかわからなかったからだ。
「おかしいですね、こんなに気配が強いのに姿を表さない。」
「そいつさえ狩れば、天嘉に苦労をかけることもないのだがな。」
「お館様、もう夜も遅い。今は一度戻りましょう。」
十六夜の言葉に小さく頷いた。蘇芳の気配を知って座喚く枯木達を黙らせると、結界を張っている祠まで向かうことにした。
さくさくという歩む足音が、二人分から変化した。叢をかき分ける音がして、それに気がついた十六夜と蘇芳が顔を見合わせた。瞬時に姿を獣に転じ、木の上に飛び移る。どうやら探索から戻ってきたのだろう。進行方向からはぞろぞろと若い男が三人、すまほという光る板で足元を照らしながら歩んできた。
自殺の名所、あれが呪いの原因、積み重なった石、顔のような枯れ木、
姦しい声で騒ぎたてるので、うまく聞き取れはしなかったが、単語はいくつか拾うことができた。闇夜に浮かぶ鋭い瞳に見下されているとはついぞ思わないだろう。男たちは、なんてことないように宣ったのだ。
あの祠が元凶だろう。
「ーーーっ、」
ぶわりと蘇芳の中で嫌な予感が膨らんだ。隣の十六夜も同じなようで、小さく息を詰めると慌てて蘇芳の顔を見た。
表情が抜け落ちていた。ただ瞳を揺らしてゆっくりと顔をあげ、祠。とだけ小さく呟いた。
「お館様、もしや祠とは。」
「…十六夜、戻るぞ。直ぐにだ。」
「御意。」
木々を揺らすほどの勢いで、ニ羽の大きな鳥が葉擦れを起こして飛び立った。ハラハラと落ちた数枚の葉に気づき、不思議そうな顔をして木を見上げた男の一人は、鳥だったと告げて会話に戻る。
梟ではない、夜目が効かぬはずの鳥が二羽飛び退った違和感に、気がついたものはいないようであった。
「これは、」
十六夜は、蹴り壊されたような祠を見て言葉を失った。
この祠は、境界を守る結界だ。御嶽山裏面に繋がるこの不可視の隔たりを、この祠で管理をしている。これがあるからこそ、妖かし達がいる世界は安寧に保たれている。やまのけの脅威から守ることが出来ているのに。
「お館様、」
「黙れ、いま探っている。」
焦って顔を見上げた十六夜を蘇芳が制す。目を瞑り、妖力を山と繋げた。蘇芳の髪が羽混じりになり、その腕には脚鱗が浮かぶ。集中をして、他に害された結界が無いかを確認しているのだ。
幸い、ここ以外の結界は無事であった。しかし、その顔色は良くならない。小さく息を呑むと、蘇芳はそっと屈む。
人の靴によって崩された祠に触れると、目に見えて怒りの炎を目に宿す。
「人の縄張りを犯すなど、言語道断。」
入ってきている。天嘉のことを探していたあのやまのけが。
蘇芳の怒気に十六夜の背筋がざわめく。この穏やかな大妖怪が、己の縄張りを踏み躙られて気が立っている。
「お館様、やはりあの若人たちですか。」
「他におらぬだろう。この祠はお前に任せる。俺は追って山に戻る。頼まれてくれるな、十六夜。」
「無論です。修復にはしばし時間がかかります。遅くなっても怒らんでくださいね。」
「ああ、信頼している。頼んだ。」
蘇芳は十六夜にそう告げると、その身を金の大鳶に転化させてその場を飛びたつ。残された十六夜は、蘇芳の言葉を噛み締めた。
信頼している。この言葉は十六夜にとっては最高の褒め言葉であった。その姿が闇に溶けるまで見送った後、崩された祠の前に膝をつく。
小さな引き戸を指で開き、そして扉を横にスライドして取り出したのは先代の総大将の骨である。
「貴方様も寝床を荒らされてたいそうご立腹でしょう。申しわけありませぬ。」
十六夜は、蘇芳から預かっていた大天狗の羽を燃やした灰と、血を固めたものを水に溶かした。それを墨代わりに祠の内側に小筆で呪印を書いていくと、印を結んで定着させた。
総大将は、死して山の守り神となる。天寿を全うするものや、戦で死んだもの。そのすべての骨の一欠片がこの山の各所の祠に祀られていた。いずれ蘇芳も、この山の礎となるのだ。
「番いを見つけた総大将は、はじめてだな。」
ふとそんなことを思ってしまった。あの奥方なら。この狭っ苦しい祠に共に入ると宣いそうだ。十六夜はそう考えて、少しだけ口元に緩い笑みを浮かべた。
山にやまのけが混じったのだ。恐らく狙いは天嘉だろう。十六夜は修復を終えた祠へと、念入りに不可視の印を刻みつけ、夜の空を見上げる。
なんとも重苦しい空模様だ。分厚い雲が月の光を遮り、まるで蓋をしているかのように御嶽山を覆っていた。
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