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枯木の霊
まるで足元が崩れてしまいそうな感覚を、怯えというのだろうか。天嘉は目眩でも起こしたかのように不安定になった足元にもたつきながら、ゆっくりと後ずさりをする。
そんな天嘉のただならぬ様子に、ツルバミも宵丸も顔を見合わせた。顔色が悪い。心なしかても微かに震えているようだった。
「天嘉殿…、如何されました。何やら顔色が優れぬご様子…、」
「おいおい、今にも倒れっちまいそうじゃねえの。大丈夫かよ?」
畳を擦るようにして蹌踉めくのだ。天嘉は、胸元の生地を抑えると、ゆるゆると首を振る。二人の言葉を否定したのではなく、目の前の現実が受け入れることが出来なかったのだ。蘇芳、嫌だ、こっちに来て欲しい。短い呼吸を繰り返しながら、畳の僅かな凹凸に足を取られ、かくんと膝が崩れた。
「おい、大丈夫かよ、」
倒れそうになった天嘉の背を宵丸が支えると、ツルバミは少し慌てた様子で影法師たちに布団の準備を指示する。
己の反応にも返さずに、顔を青褪めさせる様子は尋常ではなく、宵丸は眉を寄せる。
「ちょっくら我慢してくれよ、嫁ちゃんは先に寝たほうがよさそうだ。」
「っ…、わる、い」
「軽いなあ、もうちっと食ったほうがいいぜ、って、あ。」
宵丸はあっけらかんと笑いかけた。そのほうが天嘉が遠慮なく身を任せられるとおもったのだ。役得役得などと余計なことを宣ってはいたが、きちんと天嘉にはわかっていた。
膝裏と背に腕を回し、その華奢な体を抱き上げる。奥座敷に向かい、一歩踏み出した時のことであった。
「宵丸。」
「げえっ、気づくの早すぎるだろう。」
「かせ、俺が連れて行く。」
「客人は?」
「広間で待たせる。天嘉、首に掴まれ。」
僅かに障子が開いたかと思えば、にゅう、と蘇芳が顔をだした。宵丸の腕に抱かれた番いの顔色を見るなり、その目の色に心配の色を宿した。蘇芳が身を寄せ、宵丸の腕の中から天嘉を受け取った。天嘉は顔を青褪めさせたまま、蘇芳の首に腕を回すと、そのままぎゅうっと抱きついた。
肩口に顔を埋め、落ち着きを取り戻そうとしている天嘉の背を撫でながら、蘇芳が宵丸に対して勝ち誇った顔をしたのだが、腕の中の天嘉はそれどころではなかった。
蘇芳の肩越しに、あの枯れ木のような容貌の老人が立っていた。その枝を寄せ集めたような手のひらで杖を握りながら、不思議そうな顔で天嘉を見つめている。
ヒクリと喉が震えた。これ以上見つめられたくなくて、蘇芳の肩口に顔を埋めた。
怖い。うちに一体なんの用事があるというんだ。蘇芳は、小さく震える天嘉の背を支えるように触れる。酷く怯えた様子にを気にかけながら、ツルバミによって奥座敷に用意された敷布団の上に天嘉をおろした。
天嘉は、一向に蘇芳から離れないままだった。腰を上げようとした蘇芳に立膝の姿勢を取らせたまま、どこにも行くなと言わんばかりに、天嘉の腕を首に絡ませている。
「天嘉、すぐに戻ってくる。しばしこちらで待っていろ。」
「蘇芳…、」
「なんだ、」
蘇芳の低く柔らかな声が、天嘉のざわめく心地を宥める。なんて言ったらいいのだろうか。天嘉は口を震わせたまま決めあぐねていると、蘇芳は小さく微笑んで額に口付けた。まるでそれが呼び水のように、天嘉は小さく呼気を漏らして胸の凝りを取り払うと、声を詰まらせながら辿々しく言葉を紡ぐ。
「あ、あの…あの妖かしって…何、」
縋るように蘇芳の襟元を握る。その手を包み込むようにそっと握り返すと、蘇芳はようやく天嘉が何に怯えているのか合点がいったらしい。
「枯木の霊だ。安心しろ。天嘉が出会ったやまのけとは違う。あれは人の怨念に地縛霊が取り憑いて生まれる。枯木の霊とは似て非なるものだ。」
「じゃあ、怖いやつじゃねえの…?」
「ただの爺だ。安心しろ。」
蘇芳のその言葉に、天嘉は少しだけ戸惑ったように瞳を揺らした。だとしたら自分は、客人に対して失礼なことをしてしまったのではないか。今度はそんな一抹の不安が芽吹いた。
その時だった、障子の外から、控えめな声をかけられた。どうやらツルバミのようである。客人が日を改めたほうがいいか、そう聞いているらしい。蘇芳はチラと天嘉に目配せをする。ああ、自分のせいで客人に迷惑をかけてしまっているのだなと思うと、天嘉は何だか情けなくなってしまった。
「…ごめん、行っていいぜ。俺、大人しくしてるからさ。」
「そうか、すまないが少し離れる。」
「ん、」
心配の色を滲ませた蘇芳の顔を見上げて、天嘉がやんわりと微笑む。蘇芳は後ろ髪を引かれつつも小さく頷くと、障子を滑らせる音を立てて奥座敷を後にした。
広い奥座敷の敷布団の横で、心配そうな顔をした影法師が恐る恐る顔を出す。天嘉は苦笑いをすると、小さくごめんと呟いた。
「甘えてばっかはダメだよな。」
そっと黒く半透明な影法師の頭らしき場所に手を添える。影法師が許せば触れられるということを知ってから、天嘉はたまにこうして幼児にするように頭を撫でてやるのが癖であった。
そのまあるい頭をふわふわと波うたせて喜ぶ様子に癒されていると、影法師はハッとした様子で身を震わせると、そそそと天嘉の手のひらから離れて障子の方へと移動した。
「すまん、まだ起きているか。」
「蘇芳?」
申し訳なさそうな声色の主は蘇芳であった。少しだけ障子を開くと顔だけで覗き込む。天嘉がキョトンとした顔をして見つめてくる様子に、困ったように微笑む。どうやら頼み事がありそうだということは察した。
「ん、何。今行く。」
「体調が良くないなら構わないのだが、枯木の霊の相談事とやらが少々難儀でな。」
「もしかして、人間絡み?」
天嘉の問いかけに蘇芳は小さく頷いた。まさか、こうして自分にお鉢が回ってくるとは思わなかった。それでも、少しでも蘇芳の力になれるならと了承すると、蘇芳は小さくすまぬとあやまった。
「嫁は孕んでいるからな、あまり無理はさせたくないんだが。」
「心得ております。」
通された広間で、蘇芳の隣に腰掛ける。机を挟んで真向かいに腰掛ける枯木の霊は、その虚ろな瞳で天嘉を見つめると、ペコリとお辞儀をした。
その顔は、樹の瘤を目鼻にしたような恐ろしい見た目であった。体は枯れた樹や蔓を寄せ集めてできているようで、表情が変わらぬままに淡々とした口調で宣った。
「天嘉です、俺に…できることがあるなら、」
「身重の天嘉殿にこうして不躾にも御目通りを願ってしまい申し訳もありませぬ。また、お答えいただきありがとう存じます。」
「え、あ…、ぜ、全然…逆に気ぃ使ってもらっちゃって…、」
天嘉はその見た目からは想像もできない丁寧な物腰でやんわりと謝辞を伝えられて戸惑った。枯木の霊はその朽ちた蔓の束にも見える体をもぞりと動かすと、着物の袖口からシュルシュルと蔓に絡ませた楊枝のようなものを、そっと机の上においた。
「今回の相談事と言うのはこちらです。天嘉殿は、これをご存じでいらっしゃいますか?」
「…拝見いたします。」
なんとなく、こちらも丁寧に返したほうがいいような気がして、天嘉も言葉を繋げる。枯木の霊が机に置いた楊枝のようなものは、どうやらマッチの柄の部分のようであった。
「…、これマッチだ。火薬の匂いもするし…」
「まっち?なんだそれは。」
「や、これが持ち手なんだよ。本当はこの先についてるはずの赤い火薬を摩擦すると、炎が噴き出すようになってんの。」
ふんふんと火薬の匂いを嗅ぐ蘇芳が、難しい顔をする。まさか、枯木の霊の塒 にこのゴミが落ちていたことが相談理由なのだろうか。
天嘉は表情の読めぬ目の前の妖かしを見やると、その枯れ枝のような手を組むようにして俯いていた。
「…、私の仲間が、それに燃やされました。人間の若者が複数で押し入り、除霊だとか申しながら火にくべたのです。」
「除霊?其方は人前で姿を現したのか?」
「いいえ、私どもは意思を持つ枯れ木。人前ではけして動きませぬ。奴らは御嶽山は呪われた山だと騒ぎながら、除霊という名目で燃やされました。」
淡々と語る内容は、酷く天嘉の心をざわめかせた。なんだそれ、蘇芳が管理する山が心霊スポット?ふつふつと感じる怒りは隣の旦那にも伝わったらしい。宥めるように天嘉の背中に手を添えられる。
「事情はわかった。俺の管理が行き届かなかったせいで、悲しい思いをさせてすまぬ。」
「いいえ、それは宿命として受け入れるほかはありません。しかしながら、恐らくまた来るやもしれません。私はそれが怖くて仕方がないのです。」
枯木の霊の声が震えた。天嘉は、その声色に悲しみの色が宿ったことに、居たたまれなさそうな面持ちになった。一体何があって、心霊スポット扱いをされたのだろう。天嘉も同じ人間だ。今は里に馴染み、妖かしと暮らすようになったからこそ、彼らにも人と同じ感情が宿っていることを知った。だからこそ、同じ人として、そんなことをしたものが居たことがショックだったのだ。
「待って、そいつら他になんか言ってなかったか。理由があってここにきたんだろうし。」
「…、おそらく、おそらくですが…やまのけを見たのでしょう。」
枯木の霊が告げた場所は、天嘉が出会ったあのバス停のあたりであった。山頂には天嘉が働こうと思っていたホテルがある。おそらく旅行者が同じ場所で目撃したやまのけを興味半分で探しに行き、そうしてたまたま似ていた枯木を見つけ、除霊と宣って火をつけたのだろう。
「見た目は似ておりますが、我々には感情がございます。決してあのような獣混じりと同じではない。」
「…ごめんなさい、俺…。」
「天嘉殿は、一度襲われていますな。蘇芳殿からお聞きいたしました。おそらく、あやつは天嘉殿を探しているに違いありません。」
「俺、を…?」
告げられた言葉の意味がはかりかねて、思わず声色に怯えが滲んだ。枯木の霊は、その真っ黒な空洞の瞳で天嘉を見つめると、はい、と肯定した。
「おそらくは、蘇芳殿の妖力に怯えて手が出せぬだけのこと。しかしあやつは怯えの味を知ってしまった。恐怖はやまのけの糧となります。怯える気持ちが一欠片でもあれば、奴は外界に存在できる。」
あそこにはあれがいる。その根付いてしまった固定概念がやまのけの糧になるのだという。それが言霊となって土地に縛り付け、こうして悪さをするのだと。
今回は、それを見た人間が御嶽山を呪われた山だと宣った。これが徐々に広まって仕舞えば山の信仰に関係してくる。信仰心が落ちれば、蘇芳は力が奮えない。山を外界の悪意や天災から守ることも出来なくなってくるのだ。
「天嘉殿、人である貴方様だからこそお願いを申し上げまする。お知恵を頂けませんか。」
「…俺の、出来ること…。」
なんて恐ろしい話をするんだと思った。蘇芳に直接負担がかかるかもしれないなんてと。胸がばくんと跳ねあがり、心の内側がささくれ立つ。己の大切が人の信仰によって脅かされる現実に、妖かしという儚い存在を改めて知らしめられたのだ。
蘇芳の手を、天嘉が握りしめた。何かを決意したかのような、強い力であった。
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